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第9話:失われた日常と、蓄積するストレス
セリアンが家を出てから、三日が経過していた。
ユージェン・ラヴァルは、シワの寄ったシャツの襟元を苛立たしげに引っ張りながら、内務省の廊下を歩いていた。
(どうせ、頭を冷やせば泣きついて帰ってくる)
妻が出て行った朝、彼はそう高を括っていた。
専業主婦として自分の稼ぎに寄生していた女が、外の世界で一人で生きていけるはずがない。
すぐに金が尽き、自分の愚かさを思い知って戻ってくるに決まっている。
しかし、現実はユージェンの予想を裏切り始めていた。
朝起きても、コーヒーの香りはしない。
冷え切った部屋には埃が溜まり始め、アイロンのかかっていないシャツは肌に不快な感触を残す。
仕事から帰っても、温かい食事はなく、暗く静まり返った家が彼を迎えるだけだ。
(あいつがいなくても、俺の生活に支障はないはずだ)
そう自分に言い聞かせてはいたが、見えないところで完璧に管理されていた快適さが失われたことで、ユージェンの精神は確実に削り取られていた。
「ユージェンさん……あの、ちょっとよろしいですか?」
自席に座り、山積みの書類に目を通そうとした時、隣のデスクからオヴェリアが甘ったるい声をかけてきた。
「なんだ」
「これ、昨日お願いされた資料なんですけど……どこに綴じればいいのかわからなくて」
オヴェリアが差し出してきたのは、ただの会議資料だった。
日付順に綴じるだけの単純作業すら、彼女は一人でできないらしい。
以前のユージェンであれば、優越感に浸りながら「貸してみろ」と手伝ってやったかもしれない。
しかし、今は違った。
(こんなことすら、一から教えなければならないのか?)
疲労と寝不足で尖った神経に、オヴェリアのまとわりつくような香水の匂いがひどく鬱陶しく感じられた。
「日付順だと言っただろう。そんなことも自分で判断できないのか」
ユージェンが冷たく言い放つと、オヴェリアはビクッと肩を震わせ、大きな瞳に涙を浮かべた。
「そ、そんな言い方しなくても……私だって一生懸命やってるのに」
「一生懸命やれば結果が出なくても許されるのは、子供だけだ。これ以上俺の時間を奪うな」
オヴェリアは信じられないものを見るような顔でユージェンを見つめ、やがてハンカチを顔に当てて泣きながら廊下へと飛び出していった。
周囲の職員たちがチラチラとこちらを見ているが、ユージェンは気にする余裕すらなかった。
(なにもかもが、回らない)
舌打ちをしながらペンを握るが、アイロンの効いていないシャツの袖が手首に擦れて気になり、集中できない。
胃は冷たいパンと質の悪い出来合いのスープのせいで、重くもたれている。
ふと、ユージェンの脳裏に、いつも完璧な温度で出されていたセリアンの料理が浮かんだ。
彼女の淹れるコーヒーは、決して熱すぎず、冷めすぎない絶妙な温度だった。
シャツには糊が効き、家の中は常に清潔で、なにも考えずにただ身を預けるだけでよかった。
(あいつは……どれだけの手間をかけて、あれを維持していたんだ?)
その疑問が浮かんだ瞬間、ユージェンは強く頭を振ってそれを打ち消した。
(俺が稼いでいるから、あいつは家で気楽に家事ができていただけだ。あの快適さは、俺の金で買ったものだ)
しかし、どれだけ理屈を並べても、シャツのシワ一つ伸ばせない自分の不器用さと、荒んでいく生活環境の現実は覆らない。
ユージェンはペンを置き、両手で顔を覆った。
セリアンという存在を失ったことで、彼自身の生活の温度管理が、僅かに狂い始めていた。
ユージェン・ラヴァルは、シワの寄ったシャツの襟元を苛立たしげに引っ張りながら、内務省の廊下を歩いていた。
(どうせ、頭を冷やせば泣きついて帰ってくる)
妻が出て行った朝、彼はそう高を括っていた。
専業主婦として自分の稼ぎに寄生していた女が、外の世界で一人で生きていけるはずがない。
すぐに金が尽き、自分の愚かさを思い知って戻ってくるに決まっている。
しかし、現実はユージェンの予想を裏切り始めていた。
朝起きても、コーヒーの香りはしない。
冷え切った部屋には埃が溜まり始め、アイロンのかかっていないシャツは肌に不快な感触を残す。
仕事から帰っても、温かい食事はなく、暗く静まり返った家が彼を迎えるだけだ。
(あいつがいなくても、俺の生活に支障はないはずだ)
そう自分に言い聞かせてはいたが、見えないところで完璧に管理されていた快適さが失われたことで、ユージェンの精神は確実に削り取られていた。
「ユージェンさん……あの、ちょっとよろしいですか?」
自席に座り、山積みの書類に目を通そうとした時、隣のデスクからオヴェリアが甘ったるい声をかけてきた。
「なんだ」
「これ、昨日お願いされた資料なんですけど……どこに綴じればいいのかわからなくて」
オヴェリアが差し出してきたのは、ただの会議資料だった。
日付順に綴じるだけの単純作業すら、彼女は一人でできないらしい。
以前のユージェンであれば、優越感に浸りながら「貸してみろ」と手伝ってやったかもしれない。
しかし、今は違った。
(こんなことすら、一から教えなければならないのか?)
疲労と寝不足で尖った神経に、オヴェリアのまとわりつくような香水の匂いがひどく鬱陶しく感じられた。
「日付順だと言っただろう。そんなことも自分で判断できないのか」
ユージェンが冷たく言い放つと、オヴェリアはビクッと肩を震わせ、大きな瞳に涙を浮かべた。
「そ、そんな言い方しなくても……私だって一生懸命やってるのに」
「一生懸命やれば結果が出なくても許されるのは、子供だけだ。これ以上俺の時間を奪うな」
オヴェリアは信じられないものを見るような顔でユージェンを見つめ、やがてハンカチを顔に当てて泣きながら廊下へと飛び出していった。
周囲の職員たちがチラチラとこちらを見ているが、ユージェンは気にする余裕すらなかった。
(なにもかもが、回らない)
舌打ちをしながらペンを握るが、アイロンの効いていないシャツの袖が手首に擦れて気になり、集中できない。
胃は冷たいパンと質の悪い出来合いのスープのせいで、重くもたれている。
ふと、ユージェンの脳裏に、いつも完璧な温度で出されていたセリアンの料理が浮かんだ。
彼女の淹れるコーヒーは、決して熱すぎず、冷めすぎない絶妙な温度だった。
シャツには糊が効き、家の中は常に清潔で、なにも考えずにただ身を預けるだけでよかった。
(あいつは……どれだけの手間をかけて、あれを維持していたんだ?)
その疑問が浮かんだ瞬間、ユージェンは強く頭を振ってそれを打ち消した。
(俺が稼いでいるから、あいつは家で気楽に家事ができていただけだ。あの快適さは、俺の金で買ったものだ)
しかし、どれだけ理屈を並べても、シャツのシワ一つ伸ばせない自分の不器用さと、荒んでいく生活環境の現実は覆らない。
ユージェンはペンを置き、両手で顔を覆った。
セリアンという存在を失ったことで、彼自身の生活の温度管理が、僅かに狂い始めていた。
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