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第13話:後悔
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王都の冬は、かつてないほど陰鬱な空気に包まれていた。
街には生ゴミの腐敗臭が漂い、港では魚醤の爆発事故による損害処理に追われ、国庫は火の車。
だが、王太子テオドールにとって最も許しがたい苦痛は、もっと身近なところにあった。
「……味がしない」
王城のダイニング。
豪奢なシャンデリアの下、テオドールはスープを口に含み、スプーンを乱暴に置いた。
「なんだこのスープは! お湯に塩を溶かしただけか!?」
「も、申し訳ありません、殿下! 最高級の鶏と野菜を使用しているのですが……」
料理長が額に汗を浮かべて弁明する。
確かに素材は良いはずだ。
だが、口の中に広がるのは、薄っぺらく、奥行きのない味。
以前のような、身体の芯まで染み渡るような濃厚な旨味がごっそりと抜け落ちている。
「メインの肉料理はどうだ!」
運ばれてきたのは、赤身のロースト。
見た目は豪華だが、ナイフを入れた瞬間、テオドールは顔をしかめた。
肉汁が出ない。
パサパサだ。
口に運ぶと、鉄の味が強く、ゴムのような弾力だけが主張してくる。
「不味い! 不味すぎる! なぜだ! なぜ最近の食事はこんなに味気ないのだ!」
テオドールはナプキンを投げつけた。
隣に座るマリアンヌが、おどおどと口を挟む。
「テ、テオドール様……。きっと、料理人たちの腕が落ちたのですわ」
「黙れ! 料理長の腕が急に落ちるわけがない!」
テオドールは苛立ちを隠さずに怒鳴った。
マリアンヌの表面的な愛想や、甘ったるい言葉にも、最近は嫌気が差し始めていた。
彼女は「不味い」と文句を言うだけで、解決策を何も持たないからだ。
「料理長! 正直に答えろ。何が変わった? 素材か? 調味料か?」
テオドールに詰め寄られた料理長は、意を決したように顔を上げ、静かに告げた。
「……時間でございます」
「は? 時間だと?」
「はい。素材は以前と変わらず最高級です。ですが……その素材を熟成させ、眠っている旨味を引き出していたのは、全てエリアナ様の指示によるものでした」
またしても、あの女の名前だ。
テオドールは顔を歪めたが、料理長は淡々と続けた。
「例えばこのお肉。以前はエリアナ様が熟成と称して、専用の保管庫で数週間、厳密な温度と湿度管理を行っていました。肉自身の酵素でタンパク質を分解させ、旨味成分であるアミノ酸を増やしていたのです」
「……ただ放置していただけではないのか?」
「いいえ。温度が一度でも狂えば腐敗します。エリアナ様は毎日肉の状態を確認し、カビの付き具合を目視し、最高のタイミングで厨房に卸してくださっていました。……今の我々には、肉を腐らせずに熟成させる技術がありません」
料理長はスープの皿に視線を落とした。
「このスープもそうです。ベースとなる野菜の端材を発酵させて作った野菜醤を隠し味に使っておりましたが、その在庫も尽きました。……殿下。今の厨房には、時間を味方につけ、美味しさを醸す知恵がないのです」
シン、とダイニングが静まり返った。
テオドールは呆然とした。
彼は知らなかった。
エリアナが研究室に引きこもっている間、何をしていたのかを。
彼女はただ趣味に没頭していたのではない。
王家の食卓、ひいては彼の健康と満足感を守るために、目に見えない微生物と、そして時間という見えない調味料を操っていたのだ。
「……あいつが、やっていたのか。全ての味を」
テオドールの脳裏に、エリアナの姿が蘇る。
地味で、愛想がなく、いつも何かブツブツと独り言を言っていた女。
だが、彼女がいた頃の食事は、どれも驚くほど美味かった。
胃もたれもせず、食後には活力が湧いた。
それが当たり前だと思っていた。
だが、その当たり前は、彼女の緻密な計算と努力の上に成り立っていたのだ。
「……テオドール様?」
マリアンヌが不安げに袖を引く。
テオドールは彼女を見た。
可愛らしい容姿。
だが、それだけだ。
彼女は肉を柔らかくすることも、スープに深みを与えることもできない。
今の彼に必要なのは、甘い言葉ではなく、物理的な旨味だった。
「……あいつを、連れ戻す」
「えっ?」
「エリアナだ! 彼女を呼び戻す!」
テオドールは立ち上がり、狂ったような目つきで叫んだ。
それは反省や謝罪ではない。
失った便利な道具を取り戻したいという、相変わらずの自己中心的な欲求だった。
「辺境伯などにくれてやるものか。あいつは私の婚約者だったのだぞ? 王太子である私が迎えに行けば、泣いて喜んで戻ってくるはずだ!」
彼は自分の都合の良いように記憶を改竄し、ニヤリと笑った。
「そうだ……。きっとあいつも、寒くて何もない辺境で後悔しているに違いない。私が救い出してやるのだ。そうすれば、またあの美味い肉が食える!」
ダニング=クルーガー効果は、ここに来て最高潮に達していた。
彼は自分の無能さを棚に上げ、エリアナの意思など微塵も考慮せず、寛大な王子気取りで出立の準備を命じた。
「馬車を用意せよ! 北へ向かう! マリアンヌ、お前も来い。エリアナに謝罪するフリくらいはさせてやる」
「そ、そんなぁ……、寒いのは嫌ですわ……」
嫌がるマリアンヌを引きずり、テオドールは動き出した。
彼らが向かう先で、かつてないほど冷酷な現実が待ち受けているとも知らずに……。
街には生ゴミの腐敗臭が漂い、港では魚醤の爆発事故による損害処理に追われ、国庫は火の車。
だが、王太子テオドールにとって最も許しがたい苦痛は、もっと身近なところにあった。
「……味がしない」
王城のダイニング。
豪奢なシャンデリアの下、テオドールはスープを口に含み、スプーンを乱暴に置いた。
「なんだこのスープは! お湯に塩を溶かしただけか!?」
「も、申し訳ありません、殿下! 最高級の鶏と野菜を使用しているのですが……」
料理長が額に汗を浮かべて弁明する。
確かに素材は良いはずだ。
だが、口の中に広がるのは、薄っぺらく、奥行きのない味。
以前のような、身体の芯まで染み渡るような濃厚な旨味がごっそりと抜け落ちている。
「メインの肉料理はどうだ!」
運ばれてきたのは、赤身のロースト。
見た目は豪華だが、ナイフを入れた瞬間、テオドールは顔をしかめた。
肉汁が出ない。
パサパサだ。
口に運ぶと、鉄の味が強く、ゴムのような弾力だけが主張してくる。
「不味い! 不味すぎる! なぜだ! なぜ最近の食事はこんなに味気ないのだ!」
テオドールはナプキンを投げつけた。
隣に座るマリアンヌが、おどおどと口を挟む。
「テ、テオドール様……。きっと、料理人たちの腕が落ちたのですわ」
「黙れ! 料理長の腕が急に落ちるわけがない!」
テオドールは苛立ちを隠さずに怒鳴った。
マリアンヌの表面的な愛想や、甘ったるい言葉にも、最近は嫌気が差し始めていた。
彼女は「不味い」と文句を言うだけで、解決策を何も持たないからだ。
「料理長! 正直に答えろ。何が変わった? 素材か? 調味料か?」
テオドールに詰め寄られた料理長は、意を決したように顔を上げ、静かに告げた。
「……時間でございます」
「は? 時間だと?」
「はい。素材は以前と変わらず最高級です。ですが……その素材を熟成させ、眠っている旨味を引き出していたのは、全てエリアナ様の指示によるものでした」
またしても、あの女の名前だ。
テオドールは顔を歪めたが、料理長は淡々と続けた。
「例えばこのお肉。以前はエリアナ様が熟成と称して、専用の保管庫で数週間、厳密な温度と湿度管理を行っていました。肉自身の酵素でタンパク質を分解させ、旨味成分であるアミノ酸を増やしていたのです」
「……ただ放置していただけではないのか?」
「いいえ。温度が一度でも狂えば腐敗します。エリアナ様は毎日肉の状態を確認し、カビの付き具合を目視し、最高のタイミングで厨房に卸してくださっていました。……今の我々には、肉を腐らせずに熟成させる技術がありません」
料理長はスープの皿に視線を落とした。
「このスープもそうです。ベースとなる野菜の端材を発酵させて作った野菜醤を隠し味に使っておりましたが、その在庫も尽きました。……殿下。今の厨房には、時間を味方につけ、美味しさを醸す知恵がないのです」
シン、とダイニングが静まり返った。
テオドールは呆然とした。
彼は知らなかった。
エリアナが研究室に引きこもっている間、何をしていたのかを。
彼女はただ趣味に没頭していたのではない。
王家の食卓、ひいては彼の健康と満足感を守るために、目に見えない微生物と、そして時間という見えない調味料を操っていたのだ。
「……あいつが、やっていたのか。全ての味を」
テオドールの脳裏に、エリアナの姿が蘇る。
地味で、愛想がなく、いつも何かブツブツと独り言を言っていた女。
だが、彼女がいた頃の食事は、どれも驚くほど美味かった。
胃もたれもせず、食後には活力が湧いた。
それが当たり前だと思っていた。
だが、その当たり前は、彼女の緻密な計算と努力の上に成り立っていたのだ。
「……テオドール様?」
マリアンヌが不安げに袖を引く。
テオドールは彼女を見た。
可愛らしい容姿。
だが、それだけだ。
彼女は肉を柔らかくすることも、スープに深みを与えることもできない。
今の彼に必要なのは、甘い言葉ではなく、物理的な旨味だった。
「……あいつを、連れ戻す」
「えっ?」
「エリアナだ! 彼女を呼び戻す!」
テオドールは立ち上がり、狂ったような目つきで叫んだ。
それは反省や謝罪ではない。
失った便利な道具を取り戻したいという、相変わらずの自己中心的な欲求だった。
「辺境伯などにくれてやるものか。あいつは私の婚約者だったのだぞ? 王太子である私が迎えに行けば、泣いて喜んで戻ってくるはずだ!」
彼は自分の都合の良いように記憶を改竄し、ニヤリと笑った。
「そうだ……。きっとあいつも、寒くて何もない辺境で後悔しているに違いない。私が救い出してやるのだ。そうすれば、またあの美味い肉が食える!」
ダニング=クルーガー効果は、ここに来て最高潮に達していた。
彼は自分の無能さを棚に上げ、エリアナの意思など微塵も考慮せず、寛大な王子気取りで出立の準備を命じた。
「馬車を用意せよ! 北へ向かう! マリアンヌ、お前も来い。エリアナに謝罪するフリくらいはさせてやる」
「そ、そんなぁ……、寒いのは嫌ですわ……」
嫌がるマリアンヌを引きずり、テオドールは動き出した。
彼らが向かう先で、かつてないほど冷酷な現実が待ち受けているとも知らずに……。
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