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第9話:妻の最後のSOS
「まったく……。なんでこんな大事な時期に倒れるんだよ。明日はサンプルの確認だろ? 納期は間に合うんだろうな?」
アーサーの口から出たのは、妻の体調を気遣う言葉ではなく、納品への懸念だった。
彼にとって、クロエは香水を作るための便利な道具でしかない。
道具が故障したことに対する不満が、その甘い顔立ちにありありと表れている。
「……はい。ベースの配合は、ほぼ終わっております。あとは……」
「ならいい。とりあえず休んで、明日には工房に戻れるようにしてくれよ」
アーサーは時計をチラリと見やり、苛立たしげに舌打ちをした。
「まったく、君が体調管理を怠るから、僕の予定が狂いそうだよ。これからイザベラと観劇に行く約束をしてるんだ。彼女、楽しみに待ってるんだから」
「……旦那様」
クロエは、微かに震える声で彼を呼んだ。
高熱で思考が鈍っているせいかもしれない。
普段なら絶対に言わない言葉が、口をついて出た。
「少しだけ……、今日だけは、お傍にいていただけませんか。……苦しいのです」
それは、妻としての、彼に対する最後の、そして最も切実なSOSだった。
かつては「本当の夫婦として僕を支えてくれ」と言ってくれた人。
この熱と痛みを、少しでも分かち合ってほしい。
ただ手を握って、傍にいてくれるだけでいい。
しかし、アーサーは露骨に嫌な顔をした。
「僕がいきなり観劇をキャンセルしたら、イザベラがどれだけ悲しむか分かってるのか? 彼女は君と違って、僕の癒やしなんだよ」
アーサーはベッドから一歩離れ、冷たい声で言い放った。
「それに、僕が傍にいたからって、君の熱が下がるわけじゃないだろ? 納品は間に合わせてよ。僕は忙しいんだから。……じゃあ、行ってくる」
それだけを言い残し、アーサーは踵を返した。
バタン、と扉が閉まる音。
部屋には再び、重苦しい静寂が降りた。
「……奥様」
メアリーが嗚咽を漏らし、クロエの手を両手で包み込んだ。
クロエは、扉を見つめたまま、微かに開いた唇から浅い息を吐いた。
高熱で霞む視界の中で、アーサーの後ろ姿が脳裏に焼き付いている。
彼は、振り向きもしなかった。
妻が限界を訴えても、ただ自分の予定と別の女を優先し、妻を置き去りにした。
(あの人は、私が死にかけていても、きっとなんとも思わないのでしょうね)
どうせ、「不便になった」と舌打ちするだけだ。
クロエの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
しかしそれは、悲しみの涙ではなかった。
彼女の胸の奥で、微かに残っていた最後の温もりが、音を立てて冷え切っていく。
怒りも、悲しみも、絶望すらも通り越し、ただただ、底なしの虚無感が広がっていく。
誰もいない冷たいベッドの上で、クロエは静かに目を閉じた。
アーサーの口から出たのは、妻の体調を気遣う言葉ではなく、納品への懸念だった。
彼にとって、クロエは香水を作るための便利な道具でしかない。
道具が故障したことに対する不満が、その甘い顔立ちにありありと表れている。
「……はい。ベースの配合は、ほぼ終わっております。あとは……」
「ならいい。とりあえず休んで、明日には工房に戻れるようにしてくれよ」
アーサーは時計をチラリと見やり、苛立たしげに舌打ちをした。
「まったく、君が体調管理を怠るから、僕の予定が狂いそうだよ。これからイザベラと観劇に行く約束をしてるんだ。彼女、楽しみに待ってるんだから」
「……旦那様」
クロエは、微かに震える声で彼を呼んだ。
高熱で思考が鈍っているせいかもしれない。
普段なら絶対に言わない言葉が、口をついて出た。
「少しだけ……、今日だけは、お傍にいていただけませんか。……苦しいのです」
それは、妻としての、彼に対する最後の、そして最も切実なSOSだった。
かつては「本当の夫婦として僕を支えてくれ」と言ってくれた人。
この熱と痛みを、少しでも分かち合ってほしい。
ただ手を握って、傍にいてくれるだけでいい。
しかし、アーサーは露骨に嫌な顔をした。
「僕がいきなり観劇をキャンセルしたら、イザベラがどれだけ悲しむか分かってるのか? 彼女は君と違って、僕の癒やしなんだよ」
アーサーはベッドから一歩離れ、冷たい声で言い放った。
「それに、僕が傍にいたからって、君の熱が下がるわけじゃないだろ? 納品は間に合わせてよ。僕は忙しいんだから。……じゃあ、行ってくる」
それだけを言い残し、アーサーは踵を返した。
バタン、と扉が閉まる音。
部屋には再び、重苦しい静寂が降りた。
「……奥様」
メアリーが嗚咽を漏らし、クロエの手を両手で包み込んだ。
クロエは、扉を見つめたまま、微かに開いた唇から浅い息を吐いた。
高熱で霞む視界の中で、アーサーの後ろ姿が脳裏に焼き付いている。
彼は、振り向きもしなかった。
妻が限界を訴えても、ただ自分の予定と別の女を優先し、妻を置き去りにした。
(あの人は、私が死にかけていても、きっとなんとも思わないのでしょうね)
どうせ、「不便になった」と舌打ちするだけだ。
クロエの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
しかしそれは、悲しみの涙ではなかった。
彼女の胸の奥で、微かに残っていた最後の温もりが、音を立てて冷え切っていく。
怒りも、悲しみも、絶望すらも通り越し、ただただ、底なしの虚無感が広がっていく。
誰もいない冷たいベッドの上で、クロエは静かに目を閉じた。
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