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序章 宿屋の息子、勇士にあこがれる
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エイデルはある願いごとをしている男だった。平凡な楽しみと苦しみのある家に生まれた、「わたしの村の男」だと、そこに住む大人たちは息子のように、子供たちは兄弟のように愛情をこめて、彼をあなたに紹介するだろう。
父親のムーアは宿屋の亭主だった。手先の器用な働き者で、帳簿をつけ、シーツの交換をし、食事の世話をするのが一日の仕事だった。大きな体で心はいつも眠そうな目をしているサイのように落ち着いていた。時間をかけてゆっくり、丁寧に働くのが大好きだった。たまに酔っぱらいや無法者が暴れ出すと、かたい頭を相手のみぞおちに向けて力いっぱいぶつかっていくのが彼の戦い方だった。〈頭突きのムーア〉にかなう者は村にはいなかったし、泊まり客にもこれまではいなかった。
結婚してから、ムーアはもっとゆったりとした動作になり、仕事はより正確になった。彼の手元は狂わず、初めて出会う綴りでもいつも慌てず、はっきりと読みやすい字で書いた。客室は清潔でいい香りが漂っていて、足を踏み入れたお客は社交辞令など忘れてしまい、心に思ったとおりのことを言うことができた。料理は手の込んだ調理と繊細な味付けをほどこすおかげで、材料はありふれていたが滋味に富んでいた。そのような食卓に文句を言うお客はいなかった。
誰かが「この宿屋はいつからあるんだい」とか、「あんたの親父さんも宿屋だったのかい」と言うたび、ムーアは喜んだ。ムーアにとって【本望】とは、自分がこうありたいと願いながらやっていることを人に認められることだった。彼の野心はいつか看板を無くしてしまうことだった(それは単純に〈ムーアの宿〉と書いてあった)。外から見ただけですっかり中身をうかがい知ってしまい、「一晩泊まれるかい」と旅人がいつか訪ねてくることを想像すると、そんなことでムーアは本当に幸せな気持ちになれるのだった。
宿屋はけっして儲かる仕事ではなかったが、本人いわく、「いつでも俺の背丈にぴったりの衣服のようなもの」だった。彼の親父も、その親父もずっと宿屋の亭主だったから、周りの人間も全くその通りだと感心した。たいていの人は何を着たら良いのか、はっきりと分かるまでにたいへんな周り道をする。
ムーアは貧乏だが、どこへ行くにも王様のように堂々としていた。自分が何者でどう振る舞っていいのかがすっかり分かっていたのだ。
吟遊詩人や旅のサーカス団が一宿一飯を求めてくると、ムーアは普段よりいっそう優しく振る舞おうとした。ファンタージェンに住む者なら誰でもそうだが、言葉や、物語をたくさん知りたかったからだ。流れゆく者たちはあらゆる話を耳にしていた。
さて、リーデアは、ムーアが歓迎する旅人の一人だった。
リュート弾きで、美しい金髪を腰のあたりまで垂らしていた。彼女はサーカス団に育てられた孤児だった。幾つか芸を仕込まれていた。
いつも真っ直ぐに立ちむかっていくことしか知らなかった〈頭突きのムーア〉は、彼女の曲芸にびっくりした。
色とりどりの玉が彼女の手に操られ、上へ下へと踊るさまにムーアは口をあけて見とれた。リーデアがリュートを奏でると、初めて聴く旋律に彼の心はかき乱され、意識は音色に飛び乗って、つむじ風のように楽しく踊った。
ムーアは彼女に出会うまで女性を意識したことはなかった。それなのに--リーデアが家の外で焚いた、明るい炎の周りを逆立ちして歩き、次に腕を真っ直ぐに伸ばし、バク転でくるくると回り始めると、彼女の頭のてっぺんから足の先まで、ムーアは体中の神経を集中しないではいられなかった。
こんなにも美しいものが、こんなにも生き生きと動くことができるとは!
ムーアはそれまで額縁の中の絵以外に【美】を見たことがなかった。
リーデアは反対に、ムーアの宿のゆるぎない穏やかさに感心していた。
ここは良い習慣が分厚く積み重なっているのが、肌で感じられるほどだ。居心地が良い。
彼女は長く旅をしてきた者特有の悩みを抱えていた。新しいものが次々にあらわれる旅にうんざりしていた。歌と曲芸は大好きだったが、流れゆく生活は、たまたま自分が孤児であり、サーカスに拾われたからで、本心の望むところではなかった。物心がついてから、リーデアは一つの場所にとどまりたいとずっと考えていた。計画はいつも同じところで行き詰まった。
はたしてどこにとどまれば良いのか?
ここだ、とリーデアはムーアの宿屋に一晩泊まったあと、確信した。
目を覚ますとベッドは暖かく、自分はまだ夢見心地で、一階の台所で宿の亭主が朝食の準備をしている音がかすかに聞こえた。彼はいつも早起きするのだろう。他には何ひとつ感じられなかった。
彼女は誰よりも早くテーブルについて、ムーアを待った。
「あなたの家はとてもすてきだわ、ムーア。そのことが分かっているのかしら」
「それは俺の決めることじゃないんだよ」やがてあらわれた彼は言った。
ムーアは信じられないほどゆっくりと動いた。なべつかみを手にはめて、ポットを火からおろし、テーブルまで歩いてきた。彼女のカップに注ぎ口を傾けると、湯気はたっているが、煮立ってはいないお茶を注いだ。その清潔な香りが鼻をくすぐると、胸の中が明るくなる。
彼は自分のしていることがひとつひとつ、みんなはっきり分かっているんだわ、とリーデアは感心した。一日の出来事を彼は全て覚えているに違いなかった。ムーアはどんなことでも思い出すことができるだろう。なんて素敵な人なんだろう。
「お客がどう感じるかなんて、俺には決められないさ。もし、こうだと決めてかかったらきっと嘘だと思う。うれしいよ。喜んでもらえるのは。それが俺の生きがいだからね。まったく、今日は朝からとってもうれしい。いやいや、今日も、かな」ポットを台所に置きに行きながら、ムーアは言った。
「あたし、こんな宿屋の子どもに生まれたかったわ」
リーデアの声は、本人すら分からないほど微かにふるえていた。それは彼女自身がいままで知らなかった、【真実】だったから。
「宿屋の子どもになるかい?」
言葉はリーデアにしみこみ、そして、心は決まった。
これがエイデルの物語のはじまりとなった。
息子エイデルが生まれた時、ムーアは小さな赤ん坊を、宿屋見習いとしてあたたかく見守っていることには気が付かなかった。ただ自分のつづきになる者が生まれることの神秘さに驚嘆し、リーデアにありがとうと言うほかに、感謝を表すことができなくて、自分に腹が立ったものだ。
さて、エイデルがみんなに愛されるようになったのは、子供の頃から決して叶わない望みを夢見ているからだった。
彼がそのまま大人になると、まだ彼は夢を見ている、とみんなあきれたものの、微笑ましく見守った。
とうていそんなものにはなれっこにない、とみんな分かっていた。かぞえ歌や童謡のように、誰でも理解できるものというのは、それだけで人好きがする。みんなが彼のことを分かっていた。それは素晴らしいことだった。
息子が生まれてからも、ムーアとリーデアは吟遊詩人やサーカス団には優しく接し、彼らの運んでくる物語に耳を傾けた。とりわけムーアは子どもができた時、妻にありがとうとしか言えなかった自分にずっと腹が立っていた。おそらく死ぬまで怒りはとけないだろう。もっと大きなありがとうを言いたかったのに、その言葉を知らず、たとえるにあたいする物語も聞いたことがなかったのだ。
ファンタージェンの者は、自分で物語を作ることができない。それができるのは、人間の子どもだけである。
ムーアは仕事を愛しつづけ、リーデアを愛し続け、エイデルを愛しつづけた。
どんな物語を耳にしても、ムーアはそのまま。ムーアのままだった。いっこうに何も変わりはしなかった。
そうか。俺は、ただ愛し続けるために生まれてきたのかも知れない、とムーアは思うのだった。
それで俺にはぴったりなのかもな。他に何かしようなんて思っちゃいかんのかも知れん。
俺はちびの宿屋だ。〈頭突きのムーア〉だ。
リーデアのようにリュートを奏でたり、バク転をしたらみんな気味悪がって逃げてしまうだろう。俺には、愛するものが両腕で抱えこめるだけ、ある。そう、これで充分なのさ。
宿屋の仕事は忙しく、世間の親と比べると、ムーアとリーデアは息子にかまえる時間が少なかった。そのかわり、夜眠る前、夫婦はエイデルにたくさんの物語を話してきかせた。
二人が自分たちの知っている物語を息子に話して聞かせることは、家族がおたがいのすべてを共有する作業になった。
三人は物語をともにした。
邪悪な魔法使いの呪いを滅ぼした賢者の話。
火の中でも平気な、不死身の巫女の話。
あしたを映し出す湖をみつけた愚者の話…。
物語を話している人にありがちなことだが、二人は自分たちが何を話しているのか、長いあいだ気付かなかった。
エイデルがやがて「勇士になりたい」、と途方もないことを言い出した時、二人は大変な間違いに気付いた。
ああ、そんなつもりで話してきたんじゃなかったのだよ!
気がついた時には、もう、手遅れだった。
エイデルは英雄を夢見る若者だった。いつか邪悪な竜や魔法使いをやっつけるような、困っている人を救えるような、それこそ物語に出て来る勇士になりたい、と。
どうせなら、自分たちのなれそめの話をもっとしてやるべきだった!
そうすれば何が息子にぴったりしているか、教えるまでもなかったろう。
けれど二人は今まで話してきたことがみんな嘘だとか、冗談だったとは言えなかった。そんなことをすれば、自分たちの人生もからっぽになってしまうではないか。
願うべきことは、エイデルが自分自身でムーアのように、「いつでも自分の背丈にぴったりの衣服のようなもの」を早く見つけることだった。
ムーアもリーデアも、それは宿屋の亭主になることだと分かっていたが、エイデルはまだ分かっていない。若者は物語にあこがれる。いつか自分の物語もそのようになると、根拠の無い望みを抱くものだ。
とんだ回り道をすることになるぞ、と二人は思い、はたして息子が自分のことにはっきり気づくまで無事でいられるだろうかと、それだけを心配した。大人たちが子どもたちに寄り道をするなと忠告をするのは、進んで行く方向に決して良いことばかりが待っているのではないのだと知っているからである。
正しい方向に進んでいるのなら、どんなことも決して無駄になりはしない。
両親の心配をよそに、やがてエイデルは村一番の語り部に成長した。
少年時代はもっぱら、ぶらぶらしている泊まり客に話を聞きに行くことができたからだった。夕食のあと、就寝までの穏やかな時間に、エイデルは新しく仕入れた物語を、今度は仕事に疲れた両親に話して聞かせることができた。
旅人は、とっておきの物語をひとつやふたつは必ず持っているものだ。エイデルはそれらをかたっぱしから吸収した。ひとつひとつを丹念に繰り返し語り、決して忘れなかったのだ。
やがて村中の子どもも、大人もエイデルと話したがり、村のほとんどの家族が彼をかわりばんこに夕食に招待するようになった。彼はあっちこっちに顔を出すので、たくさんの家族のエピソードを覚えるようになり、結婚式や大事なパーティには場の引き立て役として必ずひっぱられてくるようになった。
エイデルが飲んだくれになったのは、みんなが彼の口を軽くしようとしたからだった。
何しろ、どれだけ酔ったところで、彼の口から出るのは、物語。誰かの悪口や不満など、出てきたことなど、一度もない!
村人たちは彼の酒好きを大目に見るばかりか、微笑ましく見守っていた。
エイデルみたいなやつがいるかぎり、村はきっといつまでも平和にちがいない。
いつの間にか、みんなはそんな幻想を抱いていた。
子どもたちでさえ、エイデルという男を知ると、彼のことを守ってやれそうだとか、ひとつ骨を折ってやろうという気持ちになり、人生に自信を持つのだった。酒の入っていない彼は絶対に役立たずではなかったし、昼日中は真面目に一滴も飲まなかったにも関わらず。みんなは、エイデルには内緒だけれど、彼のことは守護天使のように思っていた。
彼を守りぬけば、きっと天はわたしたちを守ってくれるだろう。
彼には因果的な、宿命的なものを感じるのだった。
あんな男を傷つけるやつはいない。もしいるとしたら、悪魔くらいのものだ。
エイデルが唇をぬぐいながら千鳥足で何軒目かの酒場に入っていく(たいていは、連れ込まれていく)のを通りで見かけるたび、同じように顔中真っ赤にして談笑している村人たちはこう言うのだった。
「ご機嫌にやれよ、エイデル!」
エイデルは誰かの言葉が聞こえなかったということはなかった。酔いつぶれて寝ている時でも寝言で「やあ、ヒンメル。そうさ! 俺はこの上なくご機嫌だよ」と答える。
見知らぬ人にあってもにっこり笑う。素知らぬそぶりなどは決して見せず「何かお困りかね」と声をかける。
今日も彼は、背中につっかえ棒でも突っ込まれたかのように背中をしゃんと伸ばし、ぎこちなく後ろ手に手を振ってみせる。それだけで、声をかけた方はうれしくなってまた言うのだ。
「ご機嫌にな、俺たちのエイデル!」
父親のムーアは宿屋の亭主だった。手先の器用な働き者で、帳簿をつけ、シーツの交換をし、食事の世話をするのが一日の仕事だった。大きな体で心はいつも眠そうな目をしているサイのように落ち着いていた。時間をかけてゆっくり、丁寧に働くのが大好きだった。たまに酔っぱらいや無法者が暴れ出すと、かたい頭を相手のみぞおちに向けて力いっぱいぶつかっていくのが彼の戦い方だった。〈頭突きのムーア〉にかなう者は村にはいなかったし、泊まり客にもこれまではいなかった。
結婚してから、ムーアはもっとゆったりとした動作になり、仕事はより正確になった。彼の手元は狂わず、初めて出会う綴りでもいつも慌てず、はっきりと読みやすい字で書いた。客室は清潔でいい香りが漂っていて、足を踏み入れたお客は社交辞令など忘れてしまい、心に思ったとおりのことを言うことができた。料理は手の込んだ調理と繊細な味付けをほどこすおかげで、材料はありふれていたが滋味に富んでいた。そのような食卓に文句を言うお客はいなかった。
誰かが「この宿屋はいつからあるんだい」とか、「あんたの親父さんも宿屋だったのかい」と言うたび、ムーアは喜んだ。ムーアにとって【本望】とは、自分がこうありたいと願いながらやっていることを人に認められることだった。彼の野心はいつか看板を無くしてしまうことだった(それは単純に〈ムーアの宿〉と書いてあった)。外から見ただけですっかり中身をうかがい知ってしまい、「一晩泊まれるかい」と旅人がいつか訪ねてくることを想像すると、そんなことでムーアは本当に幸せな気持ちになれるのだった。
宿屋はけっして儲かる仕事ではなかったが、本人いわく、「いつでも俺の背丈にぴったりの衣服のようなもの」だった。彼の親父も、その親父もずっと宿屋の亭主だったから、周りの人間も全くその通りだと感心した。たいていの人は何を着たら良いのか、はっきりと分かるまでにたいへんな周り道をする。
ムーアは貧乏だが、どこへ行くにも王様のように堂々としていた。自分が何者でどう振る舞っていいのかがすっかり分かっていたのだ。
吟遊詩人や旅のサーカス団が一宿一飯を求めてくると、ムーアは普段よりいっそう優しく振る舞おうとした。ファンタージェンに住む者なら誰でもそうだが、言葉や、物語をたくさん知りたかったからだ。流れゆく者たちはあらゆる話を耳にしていた。
さて、リーデアは、ムーアが歓迎する旅人の一人だった。
リュート弾きで、美しい金髪を腰のあたりまで垂らしていた。彼女はサーカス団に育てられた孤児だった。幾つか芸を仕込まれていた。
いつも真っ直ぐに立ちむかっていくことしか知らなかった〈頭突きのムーア〉は、彼女の曲芸にびっくりした。
色とりどりの玉が彼女の手に操られ、上へ下へと踊るさまにムーアは口をあけて見とれた。リーデアがリュートを奏でると、初めて聴く旋律に彼の心はかき乱され、意識は音色に飛び乗って、つむじ風のように楽しく踊った。
ムーアは彼女に出会うまで女性を意識したことはなかった。それなのに--リーデアが家の外で焚いた、明るい炎の周りを逆立ちして歩き、次に腕を真っ直ぐに伸ばし、バク転でくるくると回り始めると、彼女の頭のてっぺんから足の先まで、ムーアは体中の神経を集中しないではいられなかった。
こんなにも美しいものが、こんなにも生き生きと動くことができるとは!
ムーアはそれまで額縁の中の絵以外に【美】を見たことがなかった。
リーデアは反対に、ムーアの宿のゆるぎない穏やかさに感心していた。
ここは良い習慣が分厚く積み重なっているのが、肌で感じられるほどだ。居心地が良い。
彼女は長く旅をしてきた者特有の悩みを抱えていた。新しいものが次々にあらわれる旅にうんざりしていた。歌と曲芸は大好きだったが、流れゆく生活は、たまたま自分が孤児であり、サーカスに拾われたからで、本心の望むところではなかった。物心がついてから、リーデアは一つの場所にとどまりたいとずっと考えていた。計画はいつも同じところで行き詰まった。
はたしてどこにとどまれば良いのか?
ここだ、とリーデアはムーアの宿屋に一晩泊まったあと、確信した。
目を覚ますとベッドは暖かく、自分はまだ夢見心地で、一階の台所で宿の亭主が朝食の準備をしている音がかすかに聞こえた。彼はいつも早起きするのだろう。他には何ひとつ感じられなかった。
彼女は誰よりも早くテーブルについて、ムーアを待った。
「あなたの家はとてもすてきだわ、ムーア。そのことが分かっているのかしら」
「それは俺の決めることじゃないんだよ」やがてあらわれた彼は言った。
ムーアは信じられないほどゆっくりと動いた。なべつかみを手にはめて、ポットを火からおろし、テーブルまで歩いてきた。彼女のカップに注ぎ口を傾けると、湯気はたっているが、煮立ってはいないお茶を注いだ。その清潔な香りが鼻をくすぐると、胸の中が明るくなる。
彼は自分のしていることがひとつひとつ、みんなはっきり分かっているんだわ、とリーデアは感心した。一日の出来事を彼は全て覚えているに違いなかった。ムーアはどんなことでも思い出すことができるだろう。なんて素敵な人なんだろう。
「お客がどう感じるかなんて、俺には決められないさ。もし、こうだと決めてかかったらきっと嘘だと思う。うれしいよ。喜んでもらえるのは。それが俺の生きがいだからね。まったく、今日は朝からとってもうれしい。いやいや、今日も、かな」ポットを台所に置きに行きながら、ムーアは言った。
「あたし、こんな宿屋の子どもに生まれたかったわ」
リーデアの声は、本人すら分からないほど微かにふるえていた。それは彼女自身がいままで知らなかった、【真実】だったから。
「宿屋の子どもになるかい?」
言葉はリーデアにしみこみ、そして、心は決まった。
これがエイデルの物語のはじまりとなった。
息子エイデルが生まれた時、ムーアは小さな赤ん坊を、宿屋見習いとしてあたたかく見守っていることには気が付かなかった。ただ自分のつづきになる者が生まれることの神秘さに驚嘆し、リーデアにありがとうと言うほかに、感謝を表すことができなくて、自分に腹が立ったものだ。
さて、エイデルがみんなに愛されるようになったのは、子供の頃から決して叶わない望みを夢見ているからだった。
彼がそのまま大人になると、まだ彼は夢を見ている、とみんなあきれたものの、微笑ましく見守った。
とうていそんなものにはなれっこにない、とみんな分かっていた。かぞえ歌や童謡のように、誰でも理解できるものというのは、それだけで人好きがする。みんなが彼のことを分かっていた。それは素晴らしいことだった。
息子が生まれてからも、ムーアとリーデアは吟遊詩人やサーカス団には優しく接し、彼らの運んでくる物語に耳を傾けた。とりわけムーアは子どもができた時、妻にありがとうとしか言えなかった自分にずっと腹が立っていた。おそらく死ぬまで怒りはとけないだろう。もっと大きなありがとうを言いたかったのに、その言葉を知らず、たとえるにあたいする物語も聞いたことがなかったのだ。
ファンタージェンの者は、自分で物語を作ることができない。それができるのは、人間の子どもだけである。
ムーアは仕事を愛しつづけ、リーデアを愛し続け、エイデルを愛しつづけた。
どんな物語を耳にしても、ムーアはそのまま。ムーアのままだった。いっこうに何も変わりはしなかった。
そうか。俺は、ただ愛し続けるために生まれてきたのかも知れない、とムーアは思うのだった。
それで俺にはぴったりなのかもな。他に何かしようなんて思っちゃいかんのかも知れん。
俺はちびの宿屋だ。〈頭突きのムーア〉だ。
リーデアのようにリュートを奏でたり、バク転をしたらみんな気味悪がって逃げてしまうだろう。俺には、愛するものが両腕で抱えこめるだけ、ある。そう、これで充分なのさ。
宿屋の仕事は忙しく、世間の親と比べると、ムーアとリーデアは息子にかまえる時間が少なかった。そのかわり、夜眠る前、夫婦はエイデルにたくさんの物語を話してきかせた。
二人が自分たちの知っている物語を息子に話して聞かせることは、家族がおたがいのすべてを共有する作業になった。
三人は物語をともにした。
邪悪な魔法使いの呪いを滅ぼした賢者の話。
火の中でも平気な、不死身の巫女の話。
あしたを映し出す湖をみつけた愚者の話…。
物語を話している人にありがちなことだが、二人は自分たちが何を話しているのか、長いあいだ気付かなかった。
エイデルがやがて「勇士になりたい」、と途方もないことを言い出した時、二人は大変な間違いに気付いた。
ああ、そんなつもりで話してきたんじゃなかったのだよ!
気がついた時には、もう、手遅れだった。
エイデルは英雄を夢見る若者だった。いつか邪悪な竜や魔法使いをやっつけるような、困っている人を救えるような、それこそ物語に出て来る勇士になりたい、と。
どうせなら、自分たちのなれそめの話をもっとしてやるべきだった!
そうすれば何が息子にぴったりしているか、教えるまでもなかったろう。
けれど二人は今まで話してきたことがみんな嘘だとか、冗談だったとは言えなかった。そんなことをすれば、自分たちの人生もからっぽになってしまうではないか。
願うべきことは、エイデルが自分自身でムーアのように、「いつでも自分の背丈にぴったりの衣服のようなもの」を早く見つけることだった。
ムーアもリーデアも、それは宿屋の亭主になることだと分かっていたが、エイデルはまだ分かっていない。若者は物語にあこがれる。いつか自分の物語もそのようになると、根拠の無い望みを抱くものだ。
とんだ回り道をすることになるぞ、と二人は思い、はたして息子が自分のことにはっきり気づくまで無事でいられるだろうかと、それだけを心配した。大人たちが子どもたちに寄り道をするなと忠告をするのは、進んで行く方向に決して良いことばかりが待っているのではないのだと知っているからである。
正しい方向に進んでいるのなら、どんなことも決して無駄になりはしない。
両親の心配をよそに、やがてエイデルは村一番の語り部に成長した。
少年時代はもっぱら、ぶらぶらしている泊まり客に話を聞きに行くことができたからだった。夕食のあと、就寝までの穏やかな時間に、エイデルは新しく仕入れた物語を、今度は仕事に疲れた両親に話して聞かせることができた。
旅人は、とっておきの物語をひとつやふたつは必ず持っているものだ。エイデルはそれらをかたっぱしから吸収した。ひとつひとつを丹念に繰り返し語り、決して忘れなかったのだ。
やがて村中の子どもも、大人もエイデルと話したがり、村のほとんどの家族が彼をかわりばんこに夕食に招待するようになった。彼はあっちこっちに顔を出すので、たくさんの家族のエピソードを覚えるようになり、結婚式や大事なパーティには場の引き立て役として必ずひっぱられてくるようになった。
エイデルが飲んだくれになったのは、みんなが彼の口を軽くしようとしたからだった。
何しろ、どれだけ酔ったところで、彼の口から出るのは、物語。誰かの悪口や不満など、出てきたことなど、一度もない!
村人たちは彼の酒好きを大目に見るばかりか、微笑ましく見守っていた。
エイデルみたいなやつがいるかぎり、村はきっといつまでも平和にちがいない。
いつの間にか、みんなはそんな幻想を抱いていた。
子どもたちでさえ、エイデルという男を知ると、彼のことを守ってやれそうだとか、ひとつ骨を折ってやろうという気持ちになり、人生に自信を持つのだった。酒の入っていない彼は絶対に役立たずではなかったし、昼日中は真面目に一滴も飲まなかったにも関わらず。みんなは、エイデルには内緒だけれど、彼のことは守護天使のように思っていた。
彼を守りぬけば、きっと天はわたしたちを守ってくれるだろう。
彼には因果的な、宿命的なものを感じるのだった。
あんな男を傷つけるやつはいない。もしいるとしたら、悪魔くらいのものだ。
エイデルが唇をぬぐいながら千鳥足で何軒目かの酒場に入っていく(たいていは、連れ込まれていく)のを通りで見かけるたび、同じように顔中真っ赤にして談笑している村人たちはこう言うのだった。
「ご機嫌にやれよ、エイデル!」
エイデルは誰かの言葉が聞こえなかったということはなかった。酔いつぶれて寝ている時でも寝言で「やあ、ヒンメル。そうさ! 俺はこの上なくご機嫌だよ」と答える。
見知らぬ人にあってもにっこり笑う。素知らぬそぶりなどは決して見せず「何かお困りかね」と声をかける。
今日も彼は、背中につっかえ棒でも突っ込まれたかのように背中をしゃんと伸ばし、ぎこちなく後ろ手に手を振ってみせる。それだけで、声をかけた方はうれしくなってまた言うのだ。
「ご機嫌にな、俺たちのエイデル!」
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