不思議な人がいるものだ

安曇野レイ

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不思議な人がいるものだ

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 古本屋の主人はこのことを知らないのであろう。私だけがこの変な買い物を続けているとも限らないのだが、知っていたら----自分の店にあるものがおかしな効果(パワーとまでは言うまい)を起こしているのを認識しているのだとすれば、通い続けている常連客に何かしらの表情を向けても良さそうなものだからである。飲み屋の気のきいたバーテンなら目を伏せがちに静かな微笑を送り、会員制のスポーツジムならば大きな声で名前を呼んで挨拶されるように。だが古本屋の主人の、私を見つめる瞳はいつも無色透明だった。毎日改札口に立っている駅員が同じ人なのかいちいち気にしてはいない、とでも言うように。
 長い間、古本屋に通いめていると時々宝物に出くわす。本の間に挟まっていた昔のしおり(味のある)だとか、走り書きのレシピなどである。要は自分がそれを気に入るか、そうでないかなのだが、私には才能があって、事実こういった宝探しのプロなのであり、また、見つけたものは必ず好きになるのだった。
 世間には、他人が使っていた物には触りたくもないという人がいることを、私も知っている。子供向けの本を書いているある女流作家は、図書館の本が読めないという話を聞いたことがある。どこの誰が触ったのか分からないからだ、という。それでよく作家になれたものだと思うが、多分、家が裕福であったのだろう。
 私は小さな町(人口は千人あまり)の図書館の司書であり、この町でただ一人の司書である。それというのも私の図書館の蔵書がわずかに千冊程度であるからだ。前世紀の終りに私がやって来るまでは、ここは無人で、一冊の大学ノートが貸出しを管理していた。町の住人は彼に何を借りたのかまでは申告しなくとも良かった。日付と、何冊持って行ったのか、私はどこの誰かを署名するだけで良かった。この管理人は隣の児童館の館長によって時季が来ると引退を申し渡され、蔵書の棚の中に収まって永の引退生活を送るのであった。私は子供が大好きな、そして子供好きのする面長の顔の館長からこの役目を引き継いだ訳だが、引退した管理人たちの日に焼けた顔をたまに見ていると、彼らのことが実にうらやましくなる。一日中ページを見開きの状態で過ごしていた彼らは、黄色くって手あかで汚れてパサパサで、古本好きの私には極上品の宝物に思えた。彼らが人間であったなら、これほど幸福な人間はいないとまで考えてしまうのだ。私がこういった物を宝物と呼ぶわけは、きっとこうなのだ。誰もこんなものを宝物だとは思うまいという安心感。それは私だけが見つけたもの。私だけが愛せるもの。----みんながもっと愛さねばならないもの。
 ずい分、初めの方と論点がずれてきたので、ここらで元に戻そう。私が話そうとしていたのは、毎日通っている古本屋で、私が宝物を見つけることが多く、そして宝物の中には本当におかしな効果を持っているものがあったということだ。

 ある時、私は市庁に出かけていき、大勢の会議に混じって独り憮然と座り込んでいた。私の掲げた議題は無視されてしまっていた。
 隣町の大きな図書館とリンクして、移動車で住人の求めている本を運んではもらえまいかと頼んだのだが、恐ろしいことに議長は私がどこの館長であるかを丁寧な口調で聞き出すと、もう私には見向きもせず「別の案はございませんか?」と次の挙手を求めたのである。
 その後の昼食会で我々は弁当を食い、全員が食中毒にあたった。
 市庁のトイレにはとんでもない臭気ともに殺気が漂った。私のような下っ端風情にはトイレの順番の回ってくるのも一番遅いのであった。用を足すことのできているのは市長を始めとする管理職の連中だった。
 私の忍耐は限界に達した。
 おんぼろ市庁にトイレが一つしかないことを次の議題にでもすればいい、そうすれば今度こそ私の意見は皆の耳を傾かせることができるだろう。そう思い、うつむいて両手を握っていたのだが、ふと顔を上げると先の議長と目が合った。彼は次にはもう用が足せるのだ----笑っていた。私は洗面台の鏡を見た。私は真っ青だった。もう一度議長を見ると、明らかに私をあわれんでいるのが分かった。
「紙が無いぞ!」それは市長の声だった。
 私は長い列を見て、自分の後ろには誰もいないことをもう一度考えてみた。もし自分の番になって、すっかり紙が切れてしまっていたらどうなる? 議長を見ると笑い方が大きくなっている----私の考えていることが分かったのだろう。自慢ではないが、私は昔から感情が目に出てしまい、いつもそれで損をしてきたのだ。
 ポケットティシュがあるかどうか、手を背広のポケットに突っ込むと、一緒に変なものが出てきた。
 先日買った古本の裏表紙に付いていた、アサガオの種だった。
 それはワンタッチで開閉のきくビニールの袋に一粒だけ入っていて、セロハンテープで貼りつけられていた。本の間に挟まっている物の中には、時々何の役に立つのか分からないものもある。私はそれをお守りだと考えて、そのままにしておいた。それが何にせよ、面白いと感じ気にいったので放っておくことにしたのである。
 議長は私を観察することにしたらしい。ずっと見ていた。時々、こんな人がいるものだ。私は袋を開くと種を出して、口の中に放り込み、飲みくだした。何故そんなことをしたのかと言えば、議長の頭を混乱させてやりたかったからだ(後になってアサガオの種は下剤になると知ったが、そうなると私はヤケで自滅しかかっていたことになる)。一分後、私は激しい貧血と吐き気に見舞われて、洗面台にかがみ込むとゲーゲーとやり出した。本当にゲーゲーと発声したのである。たっぷり二分ほど、ゲーゲー言っていた。ようやく吐き終わり、口をゆすいで振り返ると、みんながびっくりした顔で私を見ていた。
 驚いたことに、私は治っていた。目を丸くしてトイレの扉を叩いている議長(市長は中で「まだ! まだ!」と叫んでいる)を見てニコニコ笑いながら、私はそこから退場した。考えてみると私はあれ以来、腹をこわしたこともなければ、くだした覚えもない。ついでに告白しておくと、私はあの種を自分で背広のポケットに入れたのかどうかも覚えていない。そんなことをする必要がどこにあるだろう?

 こんなこともあった。古本の中にシャープペンがひっかかっていた。
 私は鉛筆派なのでそれは使わずに長いことしまっていた。ところがある日、新婚の姉の家に呼ばれたのだが、彼女の夫は熱血の新聞記者だったために、ひょんな拍子に私がシャープペンを使わないと言ったら鉛筆を使う奴は森林の敵だとこきおろされてしまった。時々、こんな人がいるものだ。
 考えてみるとそうかも知れないと思い、私は帰宅するとしまっていたシャープペンを使ってみることにした。ただ、気がむしゃくしゃしていたので、変なことを書いた。
〈私はこれからシャープペンを使うことになる。これで義兄はご機嫌になるだろう〉
 つまらない文章だと思い、もっと気のきいたことを書こうとペンを握り直した。
〈私の図書館はきっと、もう少し大きくなる。みんなの読みたい本がもっと増える。私の図書館は市の図書館とやがてはリンクして、みんなの読みたい本が週に一度は届けられる〉 
 少し間を置くとこんなことも書いた。
〈近所で始まっているD公園の工事、あれが中止になる訳にはいかないものか…。あそこで盆踊りがもうできなくなってしまうのは、本当に残念だ〉
 書き終わった途端、家の外で玩具箱をひっくり返したようなけたたましい音がした。ついでに言っておくと、私の家の前こそが、そのD公園なのである。二階の窓のカーテンを開けて下を見降ろし、私は卒倒しそうになった。
 組み立てられていた金属の足場が結び目を解かれたように勝手にバラバラになり、次々と宙に放り投げられていく。まるで局所的な竜巻が起こって、上空に物が吸い取られていくのに似ていた。次に通りの角を曲がって姿を現したものがあった。掘り起こされてダンプで運び去られたはずの大量の土砂である。それはぽっかり開いた穴に次々と飛び込んでいく。最後に空からズシンズシンと得体の知れない塊が落ちてきたかと思うと、段々と膨れ上がり、あっちはスベリ台、こっちはジャングルジム、そっちはブランコでむこうはシーソーだった。ぺしゃんこのゴミになっていた遊具が、生き物のように手足を伸ばし…自分のいた所に戻るべく、ヨタヨタと歩いていたのである。
 私は手足に感覚が無くなっていた。気を失う前に机に戻ると、シャープペンを使ってこれだけを書いた。
〈世界から戦争が無くなったらどんなにいいだろう〉
 私の頭上で、航空機の通り過ぎるゴォーッという音がした。すぐそばを、男たちのワーッっという怒声と軍靴の尖ったスタッカートとが駆け抜けて行き、剣の交わる音、銃弾の空気を引き裂く音がした。一度、私は正面から何者かに突き飛ばされて、椅子から転げ落ちフローリングの床で激しく頭を打った。
 気を失う瞬間、私は机の上のシャープペンがペン先を軸にして、独りで立ち、ドロドロに溶けていくのを見た。私が目を閉じる前に、それは爆発し、キャップが天井に向かって真っ直ぐに飛んだのを覚えている。
 次の日になって私は気が付くと最初に机の上を見た。シャープペンは確かにそこにあった。ただし、昨夜のことは夢ではなくて、辺りに残骸がハトの糞のように飛び散っていた。私は慌ててテレビを点けた。めぼしい報道はなかったが、朝刊を広げると何故か----明るい話題が多いように思えた。欧州の某テロ組織が解体していたし、集団自決するかと思われていたカルト教団の教祖が人間宣言をしていた。中東の大きな戦争が終わっていた。一方、アジアの中心で始まっていた内乱が、拡大していることを伝えている悲しい記事が一面の左半分を占領していた…。
 シャープペンは全ての戦争には勝てなかったのだ。私は息をついた。あのようなシャープペンが幾つあったら、この世から戦争が消えるだろうか? ただ、少なくとも、義兄は私がシャープペンを使い出したことを知ってからというものご機嫌で、私たちの仲は非常にうまくいっていることを書き加えておこう。

 また、ある時私はとれて無くなった上着の袖口のボタンの代わりに、古本の間にあったボタンを使ってみた。私の袖口は魔術師の袖となり、いろんなものが出た…。ハトやら一本の紐にぶら下がった万国旗やら色とりどりのピンポン玉やら…。私は普通のボタンを買って、今の袖口からは自分の手首以外、何も出さないことにしている。隠し芸大会でもあればまた付けるかも知れないが、こういう現象には馴れてしまうと危険である…。お金持ちみたいになったらどうすればいい? 金持ちや権利者になることの危険性とは、誰も、彼らを理解しようとしなくなることだ。あの人は我々とは違う、と。
 私は日がな一日中、小さな図書館(少し大きくなった)で独りで仕事をしている。けれど本を借りにきてくれる人がいる限り、私は本当に孤独ではなくなる。仕事をするのは、孤独から遠ざかるためではないのか。けれど仕事はそれに徹すれば、それだけ孤独になるような気もする。
 古本屋に通って不思議な物に出会うことは、私の頭の中にある矛盾を一時の間忘れさせてくれる(一時で充分だ)。私は何か起こることを期待している----起こらないはずはないのだ。だが、事をもてあそんではいけない。妙ちくりんで変な世の中だけれど、古き良き偉人が言ったように、「汝の今いる所が汝の世界である」からだ。私は自分が体験したと感じている世界をそのまま信じる。それだけである。事実、私は宝探しのプロであり、また、見つけたものは必ず好きになるのだった。古びた貸出帳、一粒のアサガオの種、持ち主不明のシャープペンに、失くしたのとそっくりなボタン。私がこういったものを宝物と呼ぶわけはたったひとつ。誰もこんな物たちを宝物だと思って、奪い合わないだろうという安心感。それは、私だけが見つけたもの、私だけが愛せるもの----みんながもっと愛さねばならないもの。
 どこかで、私が一見つまらないものにこだわっているような場面に、あなたも出会うかも知れない。私のことは放っておいてくれてかまわない。市庁の議長や、義兄みたく----時々そんな人がいる----重箱の隅を突っつくみたく、私にかまってくれずともよい。私がたずさわっているものは、いずれみんなが分かってしまうものに他ならないのだから。
 私のことは、そして----あの古本屋のことも含めて、ただそっとしておいてほしい。「不思議な人がいるものだ」とつぶやくだけで通り過ぎてくれればそれで充分。私は孤独から常に遠ざかり、常に孤独からは離れられない人間。私は、無色透明な瞳を持つ店主から物を買い、灰色の世界から、今日も色とりどりの不思議な出来事に出会う旅を続ける----。
 私がいつもそうしているように、きっとあなたも同じだろう。 
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