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希望の生徒手帳

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「……生徒手帳読みました?」
「生徒手帳? まぁパラパラと、かな。全部は見てないけど」
「百五十ページを見て下さい」
「百五十? ちょっと待ってね――」

 バッグにしまい込んでいた手帳を取り出し、ページを探す。
 しっかりと読む気に慣れなかったのは、この生徒手帳、二百ページはあるからだ。
 最後の方はメモ欄になっているにしろ、じっくり読む気も失せると言うモノだ。
「えっと――力なき美は無力なり、美無き力は暴力なり、って書いてあるよ」
 そう言えばこんな文句が書いてあったな。
 違和感タップリだったから、何となくこのページは覚えている。

「その次です」
「その次って――」
 違和感を覚えたのは、その文句だけではなかった。
 百五十、百五十一ページ。
 つまりは見開いたそのページには、それ以上何も書いていなかったから。
「……そんなわけないでしょう」
 空白だ。と告げると、信じられないと言った様子で、僕の手に握られた生徒手帳を覗き込む。
 頬が触れ合うほど近づいた距離に、甘い香りが鼻をくすぐった。
 見知らぬ男女が接近するにしてはあまりにも近い。
 鼻の穴が広がらぬよう、細心の注意を払いながら胸いっぱいに吸い込んだ。

「……本当ですね。というかどさくさに紛れて髪の匂い嗅がないで貰えますか? 変染さん」
「かっ、嗅いでないし! しかも変になってるし!」
「そうですか。あまりの悪臭に気を使ってくれているんですね」
「そんな事ないって! 凄くいい香り――」
 言いかけて気付き、後悔した。
 こんな分かりやすい誘導に引っかかってしまった事に。
「まぁ、あなたは少し臭いますけどね」
 そう言って、少女はどこか満足気に微笑む。
 不覚にも、それを可愛いと思ってしまった僕がいた。

「特別に私の生徒手帳を見せてあげます。変な液体はつけないで下さいね」
「……つけるかよ。じゃあ、失礼して」
 差し出された生徒手帳に目を通す。
 僕のと違い、少女のソレには空白などない。
 しっかりと文字がプリントされていた。

「ふむ、なになに――『桃華学園校則、生徒間のトラブルにおいて、談義で解決に至らぬ場合、当事者同士の決闘で問題解決を図るものとする』――って決闘!? 何その物騒な単語! 意味が分からないぞ!」
「だから大きな声を出さないで下さい。続きを」
「あ、ああ。『決闘の申し出を断った場合、如何なる理由にせよ、意見を通す事許さず――』」
 話し合いで埒が明かない場合、決闘で決着をつけろ、と言う事なのだろう。
 理解はしたけど、決闘とは一体? 
 まさか殴り合うわけじゃないだろうし――。
 その次の一文を見て、僕はしばし固まった。

『銃火器及び刀剣類以外、全ての武器の使用を認め、戦意喪失、もしくは戦闘不能によって締めくくるモノとする。ただし、立会人の判断によってはこの限りではない』

……えっと……うん……なんだこれ……。
 銃火器? 刀剣類? 戦闘不能? 
 どれも日常生活において馴染みのない単語だ。どう推測しても平和的方法ではない。
「簡単に言えば、負けた方が勝った方の言う事を聞く、って事ですよ」
 困惑する僕を見て、彼女が口を開き、続けた。
「決闘を使えば、貴方の置かれている状況を変える事が出来るかもしれませんね」

 負けた方が――何でも――。
 その言葉に、胸がトキメかないはずはないだろう? 
 女子が――いや、天使がどんな願いでも叶えてくれるとあらば。
 湖に斧でも落として「あなたが落としたのは~」だなんてまだるっこしいやり取りをすっとばして、シンプルに、そう、何でも――。

「……いやらしい想像はやめていただけますか? セクハラで訴えますよ」
「基本的人権まで奪うつもりか! 思想の自由は憲法で保障されている!」
――と正論でつっこんでみたものの、それは僕がいやらしい事を考えていたと認めるようなモノで、表情の変わらない少女の視線が、どことなく僕を蔑んでるようにも見え、ゴホン――と咳払いをした。

「ちなみに、それに書いてある通り公序良俗に反した約定は禁止されていますから」
 あ、うん。そうだよね。そりゃそうだ。
 本当に何でもありならカオスになってしまう。
「ま、まぁ言ってる事は何となく分かったよ。僕にちょっかいを出す奴――となるとほぼ全員だから、クラスのリーダー的存在に決闘を申し込み、そして勝つ。そうすれば、少なくとも授業妨害を受ける事はない」
 ですね、と頷いた少女に、言葉を続ける。

「でもさ、決闘ってやっぱり……殴ったり蹴ったりするやつ……だよね?」
「ええ、それ以外に何がありますか?」
 ですよね~。
 簡単に言えば、法律で禁止された武器以外は何でもありのアルティメットルールだもんな。
「じゃあ無理だな……。女の子に手を上げるわけにはいかないし」
 話は振り出しに。やはり我慢するしかないのか。

「変態でドMのくせに常識的な発言ですね」
「それは変態とドMの人に失礼な発言だ! しかも僕はどっちでもない!」
 本気でそう思われているのか、それとも冗談で言っているのか。
 彼女の表情から読み取ることはできない。

「何もしないよりはよっぽどマシだと思いますけど。相手が怖気づいて断ってくるパターンもありますしね」
「そっか……そう言うパターンもあるのか……」
 何も本当に戦う必要はない。
 決闘を申し込んだ、そして相手が敗北を認めた。
 その事実さえあればいい。
 僕が本気であると分かれば、相手は怯んで僕の要求(生徒手帳によると約定と言うらしい)に無条件降伏という選択肢を選ぶ可能性は低くない。
 何かをするわけでも、与えるわけでもない。
 ただ、何もしないで欲しい。
 それだけなのだから。
 
「――どうやって言えばいいのかな?」
「決闘の申し込み方ですか? 簡単です。これを――」
 少女は制服の裏に手を入れると、薄桃色の手袋を取り出し。
「こうするんですっ!」
「ぶはぁ!?」 
 大きく振りかぶって僕の頬をはたいた。

「ま、マジっすか……」
「まぁ、相手の目の前に投げる方法もありますが」
「ちょ、何でわざわざ難易度高いほう選んだんだよ!」
「一度やってみたかっただけです」
 きっぱりと言い放つ少女。
 何かこの子怖い! 普通じゃない感がビンビンする!

「ってか手袋――その為にあったんだ。片方しか入ってなかったからてっきり学校の配布ミスだと思ってたよ」
「普通は手帳に全て書いてあるから分かるんですけどね。どうしてかあなたの手帳には記されていない――」
 含みを持たせた言い方で、少女が僕の顔を見た。
『はたして、それはただのミスプリントかな?』とでも言いたげに。
「まぁ、せいぜい頑張って下さい」
 そう言って、少女は背を向けてドアの方へ。
 気がつくと、そろそろ昼休みが終わろうという時間だ。

「色々教えてくれてありがとう。名前聞いてもいいかな?」
 この学園で、初めてまともに話を聞いてくれた下級生。
 僕は少しだけ仲良くなった気分でいたが――。
「蘇我馬子《そがのうまこ》です」
 あからさまな偽名を使われた。

「少し話した位で名前を聞くのはどうかと思います。私は掃除のお礼代わりに話してあげただけですので、もし今後園内で私に出会っても気軽に見たり話しかけたりしないで下さい」
 淡々と言い放ち、そのまま立ち去った。
……何だこれ? めちゃくちゃ寂しいぞ?
「はぁ……。やっぱり女子は怖いな黒影――ってこれ……あの子の生徒手帳?」
 僕の手にしっかりと握られた生徒手帳。
 外見は同じだが、使用感たっぷりの手帳は中を見ずとも僕のではないと分かる。って事は彼女が持っていったのは僕の手帳だ。
 ここに来たのも忘れたスマホを取りに来たみたいだし、ちょっと抜けてる子なのか……?

「ん? 何だ黒影『その手帳の中身を見れば彼女の名前が分かる』って? フッ。残念だがそこまで堕ちてはいない!」
 めっちゃ中が気になってたり、馬と話しちゃったりしてるけど、僕はまだ大丈夫。
 そう自分に言い聞かせる。

 この時、僕は既に、入学式のスピーチから始まった全ての不運が解消されたかのような錯覚を起こしていた。
 日本国憲法で明確に禁じられている『決闘制度』が存在するこの学園で彼女達が過ごして来たと言う事実も。
 桃華学園の隠されたもう一つの名前も。
 僕はまだ知らなかったのだ。
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