アネモネの花

藤間留彦

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観月脩編

第三話 恋人ごっこ①

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 翌日、ほとんど寝られないまま朝を迎えた。シャワーを浴び、一応もしものことを考えて後ろまで綺麗にして、自分の中では落ち着いている服――グレーのTシャツに黒のスキニーパンツ――を選んで家を出た。

 電車を降り改札を出る。待ち合わせは改札の前の店の近くだったが、まだ時間には少し早かったので、その辺で時間を潰そうと思った。
 が、店の前に見慣れた背格好の男性が立っているのが見えて固まる。そして深呼吸をし、覚悟を決めて歩き出した。

「先生」

 先生は俺に気が付くと、柔和な笑みを浮かべた。紺のジャケットとパンツのセットアップに白のシャツを着ている。昨日よりも少しラフな印象のする格好だ。それに、今日はチェーンのついていない銀縁の眼鏡を掛けている。

「脩君、学校以外では私のことは芳慈、と。私たちは恋人同士なんですから」
「あっ、はい……芳慈、さん」

 昨日何度も呼んでいたのに、今更恥ずかしくなるのは可笑しいと思うが、きっと昨日は酒もあったし、自分のテリトリーだったので意識せずに済んだのだろう。それに先生の口から「恋人」という単語が飛び出したせいもある。

「少し早いですが、昼食を取りましょうか。イタリアンレストランを予定していましたが、何か苦手な食べ物はありますか?」
「いえ、特には……」
「良かった。では行きましょう」

 歩き出した先生の斜め後ろを付いていくと、先生は少し歩調を緩めて俺と肩を並べて歩き始めた。驚いて顔を見上げると、先生は「とてもパスタが美味しいんですよ」と微笑んだ。俺が女だったなら、きっと先生と腕を組んで歩いただろうなと思う。

 先生に連れられて入った店は、繁華街の真ん中にあるお洒落なレストランで、周りを見ると落ち着いた雰囲気のカップルや女性客しかいないようなところだった。
 この格好で入っていいのかと尻込みするが、男性店員に案内されるまま先生の後について席に座る。少し救いだったのが、席の側にある衝立で周りから見えにくくなっていたこと。男二人で来ても怪しまれないで済む。

「ランチのコースを二つお願いします。飲み物はどうしますか」

 先生にドリンクメニューを差し出され、全部アルコールでもないのに五百円以上するので面喰ってしまう。

「お、オレンジジュースを……」
「では、オレンジジュースとアイスティーをお願いします」

 ドリンクの値段もさることながら、ランチのコースとは幾らぐらいするものなのだろう。毎日適当な材料で作る飯かインスタントラーメンしか口にしていないし、外食はファストフード店かファミレス以外は経験したことが無いので分からない。

「いつもは一人で来るんですよ。パスタが一番好きですが、ピザやリゾットも美味しいんです」

 この店に一人で来るとは、かなり度胸があるなと思う。というか、そもそもあまり周囲の目を気にしないタイプなのかもしれない。大学の教授になる人間は変人が多いと言うし、先生も常識に囚われないという意味では、変わっているのだろう。

「芳慈さんは今までの恋人とも、こういうところでご飯を食べたんですか」

 それは単純な興味から出たものだった。女性を連れてくるような店だ、と思ったからかもしれない。芳慈さんは少し複雑な表情になって、何か考えるように口元に手を添える。

「……どうでしょうか。大体は女性の方が行きたい店がありますから、私はそこに連れて行ってあげるような感じでしたけれど」
「そう、ですか……」

 少し変な空気になってしまい、昨日の今日で過去の恋人の話をするべきではなかったか、と反省する。

「だから、この店に恋人と来たのは、今日が初めてです」

 心臓を矢で射られるような衝撃が走った。自分の不注意でこの甘い言葉を引き出してしまった。

「脩君は恋人とどういうところに行くのですか?」
「……恋人は、居たことが無いので……」

 ホテル以外思い付かない、と言ったらどん引きされるだろうな、と思いつつ、甘い言葉ダメージの余波を受けながら答える。

「もしかして……デートをするのは初めて?」
「はい、まあ……」

 デートをしたことは無いが、それ以上のことなら一通り経験済みとは口が裂けても言えない。自分でも貞操観念の無さには自覚がある。

「初デートが私で良かったのでしょうか」
「寧ろ芳慈さんじゃなかったらデートなんかしてないですよ」

 昨日会ったのが先生じゃなければ、そのままホテルに直行して、最悪の場合一晩享楽にふけって朝を迎え、寝不足と疲労で家のベッドに突っ伏して寝ていただろう。

 好きでも何でもない相手とセックスするのは、俺にとってはあまりに容易いことで、デートという面倒な段階を踏んでまで、セックスしたいだなんて思わない。先生はセックスが目的で出会った相手ではない。デートをして、好きになるかどうかを実証するための、「恋人」だ。

「それは……とても嬉しいです」

 先生のはにかんだ笑顔は、俺の邪な感情を洗い流して、俺の抑え込んでいた感情を引き出した。ちゃんと面と向かって話をするのは二回目なのに、どうしてこうも心が揺れ動くのだろう。

 その後運ばれてきた人生初のコース料理が、前菜、パスタ、肉料理、締めにケーキの順で出たことは覚えている。が、味が全く分からなかった。美味しかった気はするけれど、どんな料理だったか記憶が曖昧だ。

 ただ、テーブルに並べてあったナイフとフォークの使う順番を教えてもらっただとか、パスタを食べ終わった先生が「美味しかったですね」と微笑む姿だとかは、はっきりと覚えている。もしここが小汚いラーメン屋であったとしても、俺はお洒落な店でコース料理を食べたのと同じくらい充足感を得ていたはずだ。

「次は映画館に行きましょうか」

 先生と話している間ずっと、ふわふわと浮いているような感覚だったので話が上手く頭に入ってきていなかったが、「ちょうど観たい映画がやっているから」と先生の希望で映画を観に行くことになったのだ。
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