アネモネの花

藤間留彦

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観月脩編

第五話 幸せは泡沫のごとく④

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「一年くらい全然見ないから、どうしたのかと思った」

 俺の行きつけのバーの裏手にあるホテルの一室。俺は呼びつけたケンとベッドに横になっていた。

「そうかと思ったら、急に『セックスしよう』だもんなあ。びっくりした」

 携帯を弄りながら、俺は「うるせえ」と悪態をつく。

「最近ずっとネコだったんだな。めっちゃすんなり入るからさあ。全然痛くないみたいだし」

 「いや、具合はめっちゃ良かったけど」とフォローを入れながら、ケンは俺の携帯の液晶を覗き込む。

「よく撮れてるでしょ。たまにお客さんにも撮ってって言われるからさ」

 そこには俺がケンにハメられている写真が何枚も並んでいた。そして俺は接合部がはっきり映ったその一枚をメールに添付する。

「シュウって、そんな趣味だったっけ?」
「……いいだろ、もう」

 俺はケンに画面を見えないようにして、文面を打ち込み送信した。

「もう……お前とはしねえ」

 部屋の代金を折半で払ってホテルを出てそう言い放つと、ケンは少し寂しそうに笑って、「それがいいよ」と言った。

 ケンと別れ携帯を見ると、母からの着信履歴があった。電話を掛けると口座に大金が振り込まれていたから驚いたと話していた。
 俺は適当に友達に教わったFXで儲かったからと答えた。母は俺が悪いところから金を借りたりするような子じゃないと思っているので、すごいわねえと感心したように言う。FXが何か、知らないのだろう。でももう怖いからもうやらないでね、と言って電話を切った。俺は闇金で金を借りるほど馬鹿じゃないけど、誰にでも身体を開くくらいには阿呆だよ、と心の中で呟く。

 電話が鳴っている。その相手は誰か見なくても分かる。俺は行くべき人のところに向かった。

「……脩君」

 家の前に、先生が立っていた。俺に鍵を預けていたのだから、当然だ。

「どうしたんですか? ああ、鍵。すみません、中に入りましょう」

 俺は出来るだけ平静を装って、家の鍵をポケットから出して鍵穴に挿す。が、手が震えてなかなか入らない。その手を、先生が掴む。

「今まで、どうしていたのか……聞くべきでしょうか」

 何で俺に聞くんだ、と思う。罵詈雑言を吐き散らして、ぶん殴ってくれれば、どれだけ楽か。

「……何のことですか?」

 先生の手が離れると、鍵がやっと入って玄関のドアが開いた。

「いえ、何でもありません。待っている間に少し冷えました。入りましょう」

 そう言って先生は俺を押して玄関に招き入れた。音を立ててドアが閉まる。靴を脱いで家に上がった先生を、俺は一歩も動かずに見詰めた。

「どうか、しましたか?」
「あー……いや、先に風呂入ってもいいですか? なんか、その……気持ち悪いんで」

 俺がそう言うと、先生は小さく溜息を吐いて俺に向かい合った。

「君は……私に聞いて欲しいんですね。君が今まで、どこで何をしていたのか」

 傷付いた顔をしていた。心臓が、痛い。穴が空いたみたいに、脈を打つ度に痛みが走る。

「……それで、芳慈さんは俺がさっきまで生ハメされてましたーって話が聞きたいんです?」
「いえ……それはどうでもいいです」

 先生は俺の両肩を掴むと、悲しげな表情のまま笑みを作った。俺は先生を裏切ったのに、どうしてそんなに優しい顔で俺を見るんだ。

「君がそんなことをするのは、きっと私が悪いんですから」

 ああ、どうして、俺はあんな金を受け取ったんだろう。家族も何もかも捨てて、この人と生きていく道もあった。きっと、あったはずだ。俺は、家族を捨てられなかった。この人よりも、家族を選んでしまった。

「……そんな訳ないっしょ」

 俺は先生の腕を振り解いた。その勢いで背後のドアにぶつかり、鈍い音がする。

「つうか、あんたと付き合ってる間、俺があんたのチンポだけで満足してるわけないじゃん。知らないかもしれないですけど、俺あんたに会う前、普通に毎日ぐらい誰かとケツ掘ったり掘られたりしてたんすよ? あんたと週一のセックスで満足できる身体じゃないんで」

 幾らでも、汚い言葉が思い付く。先生を傷付けるための、言葉の矢を放つ。純粋な先生はきっと、俺を汚いと思って綺麗に振ってくれるだろう。

「私は……知っています」
「は?」
「君は……脩君は、そんな軽薄な子じゃないことくらい、私は知ってる」

 呼吸が出来ないくらい痛い。苦しい。

「芳慈さんだっているんだろ! それも、女が!」

 聞くつもりのなかった言葉が出てしまった。でももしここで先生が、ぽかんとした顔で俺を見ていたら、俺は女に騙されたってことになる。俺は先生に土下座して泣いて謝って許してもらおうとしただろう。そうであれば、どれだけ良かったか。

 しかし、先生は驚いた顔をしていた。何でそれを知っているんだろう、そんな風に見えた。

「……芳慈さんが、忙しいって関西に行ってたのって……その人に会うためですか」
「それは……」

 違うと言って欲しい。婚約者なんていないって、俺以外誰も好きじゃないって、愛してるって、そう言ってくれ。心の中で祈った言葉は、先生のその後の言葉で完全に打ち砕かれた。

「確かに見合いの相手が居て……彼女に会っていました」

 胸の真ん中に穴でも空いたかのように鋭い痛みが走った。

 信じていた。他人を深く愛したことがないと言っていた先生が、俺だけにくれた言葉を。俺だけだと、思っていた言葉を。

 俺は持っていた先生の家の鍵を先生目掛けて投げた。鍵は先生の身体に当たって床に転がり、耳障りな金属音を立てた。

「……ああ、もう清々するわ。恋人ごっこ続けんの飽きてたしさ」

 「愛している」と言って口付けて、微笑んだ、あの夜も、全部――嘘。

「違うんです、それは……!」
「良いんですって、センセ。俺もあんたも好きにしてたってだけでしょ? まあ、こんなクソみたいな関係やめて、女のとこ行った方がいいっすよ。男同士に未来ねえからさ」

 同性同士に未来なんてない。そう言った先生の妹の言葉が、俺の口をついて出た。
 そうだ、初め俺は先生が俺を好きになるなんて思ってなかったじゃないか。それが、実験の結果、正しかっただけ。

「それじゃ、お幸せに」

 俺は逃げるように先生の家を飛び出した。追い駆けてくるとは思わなかった。俺の放った言葉の矢は、先生の全身に突き刺さって、致命傷を負わせていたから。

 帰り道、街の明かりがやたらと目に染みて、俺は少し下を向いて歩いた。そういえば先生は、俺の目が痛むのは目の色素が薄いからだって言っていた。そのことに気付いたのは、人生であの人だけだ。

 きっと街灯のせいで目が痛いからだ。勝手に目から涙が零れて、止まらないのも、きっと。
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