後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第二章 華燭

41 皇后の涙

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 その時、小蘭の胸に蒼龍の過去の言葉がまざまざと蘇った。
 
『ごめん、間違えた』
『黎妃ははじめから俺のものだった』
 
 そして、思い出の李園では――。
『早く春明のところに行こうぜ』
 その奥にあるのは、どうしても消えない黎貴妃様との思い出だ。

 それきり黙り込んでしまった小蘭を、皇后はまた、惻隠の情をもって見つめた。

「小蘭妃……お前が言わんとすることも、妾は知っているつもりじゃ。蒼龍がお前を抱かぬ理由は、何も身体を気遣ってのことだけではあるまい。黎貴妃のこと――妾はふたりのために、何もしてやることができなかった」

「あの……、であれば、そのお役目は、私ではなく……黎貴妃様の方が」
 心底言いたくない言葉を、辛うじて喉から搾り出す。
 
 ふと、皇后様が眉をひそめた。
「心にもない事を言うものではないぞ」
「は、はい。すみません。……でも」
 
 苦しいほどに痛い胸を、つい抑えた小蘭に、皇后はさり気なく片膝を折った。
 小蘭の頬を優しく撫でる。
 
「皇后……様?」
「すまぬのう、妾たち大人の都合でお前の心を傷つけた。……ただし、蒼龍がお前を大切に想っているのは、違えようのない事実じゃ。お前の自由な大らかさは、必ずや蒼龍あのこの救けになる」
「私……が?」
 
 皇后はこくりとうなずいた。
「黎妃はもう、皇帝の執着から救うことが出来ぬ。あの娘もそれを知り、自分自身でそこに身を沈めてしまった。じゃが……、もしそれがなくとも、この任は小蘭、お前にしか出来まいよ」
 
 思いの外厚く柔らかな掌が、小蘭の頭をふわりと撫でる。
 涙をいっぱいに溜めて上を向いた小蘭に、皇后は顔を曇らせた。
 
「小蘭や。見た目には煌びやかでも、後宮の裏は伏魔殿。妾の懸念は――凛麗のことじゃ」
「凛麗……」
「そう、己に素直な面もあり、悪いところばかりではないが。悋気りんきが激しく、何をするかわからぬ。あの娘の一途な想いは、おかしなところで捻じくれておるのよ」
 皇后様は、憂いを帯びた瞳で小蘭を見た。目尻の皺が、年相応の影をつくる。
 
「高貴に生まれ、望めば何でも手に入れてきた娘じゃ。気に入らぬものを排除することを……誰も止めなかった」
「凛麗は、蒼龍の事を前から愛しているのですか?」
 確かに、うっとりとして蒼龍の事を話す彼女の目は、恋をする乙女のように輝いていた。

 尋ねた小蘭に、皇后はまた首を振った。

「そう、ほんの童女の頃から。これもまた曹丞相の策略じゃ。あの奴がまだ幼い凛麗に囁いた。〝お前が蒼龍の許嫁だ〟と。彼女の蒼龍に関する執着は半端なものでない。ここ数年、大人しくはしておるが……黎貴妃ではとても太刀打ち出来まいよ」
 確かに、その後のあの恐ろしい目つきといったら。何をするか分からないような気迫があった。
 しかし――。
 
「その、つまり私なら大丈夫ってこと?」
 思わず、素に戻って尋ねた小蘭に、皇后はくっと口の端を緩めた。
「ほほ……、そうは申さぬが。あの蟇盆たいぼんの檻の中で、逃げようと画策する姫は、お前くらいじゃぞ?」
「み、見ておられたんですか!?」
「おうとも。簪を抜き、蝶番をほじっている姿に、妾はいたく感銘を受けた」
 何て恥ずかしい。けれどあの時は結局何もできず、蒼龍に助けてもらっただけだった……。
 恥じ入る小蘭に、皇后様はふと目を細めた。

「今後の動き次第で、あの子の矛先はお前に向かおう。それでも、お主ならば、あの娘の怨念をかいくぐることが出来る、そう思うておる」
 褒められているのか貶されているのか分からないが……。確かに、後宮内で荒事に向いているのは自分か翠衣姐姐ねえさんくらいかもしれない。

 小蘭が思いを馳せているところへ、皇后はもう一つ膝を落とした。
「え? あ、あの」
 片膝だけでもあり得ないことなのに、皇后が両膝をつくなど前代未聞だ。慌てる小蘭もそのままに、その玉体が、深く沈んだ。
 
「頼む、小蘭」
 何と皇后は、そのまま床に両手をついて、小蘭に頭を下げたのではないか。
 
「妾の一生の頼みじゃ。我が愛しの阿児を、大人達の陰謀から護ってやって欲しい。蒼龍の子を産み、正妃となって蒼龍を、皇家を支えておくれ」

「こ、皇后様、どうかお顔を上げてください! こんなところを見られたら、私、衛兵に殺されてしまいます」
「ふふ……。殺されるなんて、大げさよ」

 慌てて彼女の肩に手を添え、身体を抱き起こした小蘭は、その顔をみておどろいた。
 あの、鉄の女と言われた皇后様が泣いている。

「すまないね。私は立場上、蒼龍には厳しく接しなくてはいけないが……蒼龍は、妹のようだった蒼龍の母が、私に授けてくれた大切な阿児あこ
 はらりと落ちた涙が、錦糸の玉衣の裳裾に落ちる。

「辺境出身だと言ったわね。乳母には任せず、ぐずる蒼龍あのこを一晩中抱いていたことだってあるの。蒼龍がどう思おうと、たとえ血が繋がっていまいと――私たちは、本当の母子だと思っている。こんなこと、一生口には出せないけれど」

 それは、彼女が公には決して見せない、ただの母親の顔だった。
 
 もう黙ってはいられない。次の瞬間、小蘭は己の胸を叩いて宣言した。
 
「はい、任せてください。必ずや蒼龍を……いえ、蒼太子を守ってみせます! そのために出来ることは全部やる……。こ、子を産むことだって、怖くないわ!」
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