後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

70 春明先生の頼み事

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 それから二日後、蒼龍は、予定通りに都を出立した。
 
『北の離宮』――蒼龍の御殿の、こじんまりした一室で、いつも元気な愛妾の小蘭が、珍しく黄昏れていた。

 蒼龍は、行ってしまった。最後の日にも、別れの挨拶すら交わさぬまま。寂しいけれど仕方がない。あの夜、言いたいことはちゃんと言えたから。

 あの、李園での夜が明けた朝、小蘭は、自分の寝台で目を覚ました。
 あれ、おかしい。もしや夢だったのかしら、と考えていたところ――まるで、計ったかのように婆やが部屋に現れて、事の経緯を教えてくれた。
「ええ、どこをほっつき歩いているのかと思ってね。ホウキでつつき回してやろうと待ち構えていたんですよ。そうしたら――」
 何と、振り下ろしたホウキの柄を、見事に片手でつかんだのが蒼龍だったという。

「それはもう、大事そうにこう」
「分かった、もう、分かったから!」
 お姫様抱っこの手振りを交え、話すのが死ぬほどウザかったし、その後は、やたらと姫君扱いだった。
 その態度に、婆やの妄想が透けて見え、小蘭は妙に恥ずかしかった。

 婆やによると、蒼龍の出立はひどく派手で、何と似せ絵まで出回っているらしい。
 婆やが自分用に入手したという似せ絵を見せてもらったが、かなりゴテゴテしい飾鎧の彼に、これじゃあ馬にも乗れないわ! と思わずツッコミを入れてしまった。
 
 それでも、蒼龍のそんな様子を想像すると、妙に誇らしかったりもするのだが――

 蒼龍ほんにんが居ないと……やはり少し張り合いがない。
 戦の様子が気になって、門番の玄武にも聞いたけれど。
「がっはっは。ここに居ろと言われた俺が、戦のことなど知るわけなかろう」
 と、正論で返され、また弾かれた。
 胸ばかりが忙しくて、やることなすこと空回り。
 そんな日々をすごしていたある日。
 
 いつもは押しかける側の小蘭が、珍しく、春明先生から呼び出しを受けた。

 *

「すみませんね、小蘭。わざわざ足を運ばせて」
「ううん、嬉しい。また薬草の仕分け?」

 ひょっとしたら、春明先生から、戦のことを聞けるかもしれない。
 伝言を受けた小蘭は、そんな期待もはらみつつ、いそいそと春明の庵を訪れた。

 いつもと変わらず穏やかに、春明は微笑んだ。

「いいえ、薬は先日作ったもので足りているようです。……今日は少し、別用です」

 円卓に烏龍茶と桃饅頭を差し出した春明先生の、指が微かに震えたのに、小蘭は違和感を覚えた。
 よく見ると、右手に白い包帯が巻かれている。
 
「あれ、先生……どうしたの? お怪我?」

 心配そうに覗き込む小蘭に、春明はくっと苦笑した。

「敵いませんね、あなたには。……なに、大したことはないのです」
 対面に腰かけた春明は、小蘭に茶を勧めると、左手で湯呑を取った。
 そうは言いつつ、春明の表情は消えない影を帯びている。
 それで小蘭は、これからの話が深刻であるとピンときた。
 ぎゅっと唇を引き結んだ小蘭を見て、春明は、単刀直入に切り出した。

「これは……あなたにしか頼めない。そういう話です」

 春明は、包帯の巻かれた指先をじっと見つめている。
 小蘭は、彼の言葉を待っている。

 長い間ためらった後、彼は、ようやく顔を上げた。

「私の願いはただひとつ。あなたに、黎貴妃様を、少しでもいやして差し上げて欲しい」
「――黎……貴妃様を?」

 小蘭には、一瞬、春明が何を言っているのか分からなかった。

「それは……一体」
 反復した小蘭に、春明はくっと唇を噛んだ。

「黎貴妃様は今、皇帝の御子を身籠もっておられます」
「え」
 一瞬、理解が付いて行かなかった。
 唖然として、声を出せないでいる小蘭に念を押すように、春明先生はこくんと頷いた。

 「う……そ。でも、皇帝は確か――」

 小蘭の言葉を否定するように、春明は首を横に振った。表情に苦渋が見え隠れする。

「嘘ではない、そういうことはあるのです。その上――」
 
 春明は、言葉を選ぶ余裕もないまま、事情を一息に語った。
 すなわち、黎貴妃が、誰にも告げずにお産に臨もうとしていること、蒼龍にも、それを報せたことを。

 語り終えたあと、庵には重たい沈黙が落ちた。
 
「――そんな」
 絶句する小蘭に、春明はぎゅっと眉根に皺をよせた。

「本来ならば、黎貴妃を健やかにし、母子をお守りするのは私の仕事。しかし――」
 ためらうように、一拍置く。
 
「覇皇帝は、連日彼女を閨に呼び……黎貴妃様は、もう限界に近い状態でおられる」
 小蘭は、ハッとして春明の手の包帯を見た。
 
「そんな……何でそんなひどいことを? 先生の怪我――まさか!」
「ええ、皇帝のご機嫌は、このところ特に優れず……私が彼女とふたりでいれば、あらぬ疑いをお持ちになられる。そのせいで黎貴妃様は、つらいお気持ちを話す相手もなく、塞いでおられ――」
 春明の左手が、いつの間にか、右腕の包帯に触れていた。
 
 皇帝は――焦っている?
 ふと小蘭は、その不機嫌が、蒼龍がこの戦の士気を奪ったことにあるのではないかと思った。
 それならば――。
 
「春明先生、私は何をすればいい?」
 
「あなたが、黎貴妃の話し相手になってやってくれませんか? 少しの間でいい、彼女の気が紛れるように」
「私が?」

「そう。黎貴妃は今、己の妊娠を秘匿するため、私と世話係の女官以外、誰も近づけてはおりません。ただでさえ気が滅入る中に、不機嫌な皇帝陛下のお相手。日に日に表情を失ってゆくご様子が、私は……心配でならない」
 春明の声が掠れ、わなないた。
 
「でも、私でいいのかな……。私は――」
「蒼太子のことですか?」
 その名前に、こくりと首を振ると、春明は寂しそうに微笑んだ。
「そのことは――黎貴妃の方は、心配ないと思います。むしろ小蘭、お前には、知りたいこともあるのでは?」

「ん……ま、まあ……それは、ね」

 小蘭の心が、ふとざわめいた。
 が、次の瞬間には、答えが口を突いて出た。

「――分かったわ、引き受ける。……でも、どうやって」
 
「ええ、方法は、私のほうで準備してありますから」
 
 全てを話すと、春明はようやく長い息をついた。

 黎貴妃様――後宮の華と言われた寵姫。そして、蒼龍のかつての想い人――。

 その時、胸に起こったざわめきが、何なのか。
 小蘭には、まだ分からなかった。
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