後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

77 夜明け前の決断

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「そ……んな」
 場が、しんと静まった。
 
 折よく、灯芯がジジッと成り、炎が乱れた。
 辺りが昏く明滅する。

 皇帝が、蒼龍を弑するはずだった。
 ――少なくとも、そう聞かされていたのに。
 
 皆の顔を見渡すと、日鳳はひとつ、うんと頷いた。

「曹丞相の謀叛クーデターだ。蒼龍の目の前で、覇帝は……曹の差し向けた白刃に斃れた」
 ギリッ。
 日鳳が唇を噛む音が、やけに大きく響いた。

「私など……曹の掌の上だった。……クソッ」

 誰も、何も言えなかった。
 悔やみ切れないという風に、空を睨む日鳳。

「――でも、蒼龍は生きてるわ」
「え?」
 ぽつりと言った小蘭に、皆の目が集まった。

「黎貴妃様と、皆が助けてくれたのよ。彼がここにいるのは、日鳳や……玄武のおかげよ」

「小蘭……妃」
 
 名前を言う、日鳳の声が微かに震える。
 小蘭は、彼の両手をぎゅっと握った。

「過ぎたことを言っても始まらないわ。これからのこと――日鳳の頭には、もう次の策があるんでしょう?」

「か……かたじけない」
 俯き、目頭を擦りあげる。だが、次に顔を上げた時、日鳳の瞳に迷いはなかった。
 
「小蘭妃の情報のおかげで、間一髪、蒼龍は難を逃れた。しかし」
 彼は、そこで言葉を切った。
 
「今、蒼龍には、曹の討手が掛かっている。皇帝ちちおや殺しの――下手人として」

「なっ」
 小蘭は、絶句した。
 皆、物音ひとつ立てなかった。

「そんな……まさか」
 小蘭の想像を、日鳳は即座に否定した。
 
「勿論、真犯人は、曹の用意した暗殺者。しかし、奴は真実を曲げた。普段からの父子の不仲を使って」

「何と狡猾な――!」
 春明が、珍しく声を荒げる。
 
 こんな時、やけに冷静なのは玄武だった。
「しかしなあ、曹の追手となると厄介だぞ。後宮ここだって、見つかるのは時間の問題だ」

「分かってる」
 日鳳は、静かに次の言葉を告げた。
 
「だから蒼龍は、まだ宵闇が暗いうちに後宮ここを離れなければいけない」

 小蘭は再び絶句した。
 
 ちらりと寝台を見ると、ようやく安らかに胸を上下させている蒼龍の姿。
 しかし、腹に巻かれた包帯には、薄い赤が滲んでいる。
 
 春明が、すぐさま声を上げた。
「無理です! この怪我人を動かすなと、医者として認めるわけにはいかない。自殺行為です」

英春明インチュンミン殿……あなたのご尽力には感謝する。しかし蒼龍は――今夜ここを出なければ、同じことだ」

 音ひとつない、離れの北宮。
 
 北宮の長閑な景色にも、明日には軍靴が鳴っている。
 そう思うと、小蘭の胸は締め付けられた。

「私の配下に、潜伏先を手配させている。私の到着が遅れたのはそのためだ。蒼龍には、暫くの間そこに潜んでもらう」

「待ってください……どうやってそこまで、彼を運ぶつもりですか。道のりは? 方法は?」
 
 日鳳の顔が、苦しみに歪んだ。
 
「道のりは……およそ七十里。山中の道を……馬を駆ってゆくしかない」
「無茶だ! 傷口をようやくきれいにしたばかり、まだ熱も下がっていない。せめて――」

「……春明……大丈夫だ」

 その時、呻くような声が寝台から響いた。
 
「蒼龍! 気がついたの?」

 声を上げ、身を乗り出した小蘭。
 
 その肩に手をかけると、ぐっと腹に力を入れる。
 
「……くっ」
 たちまち顔が苦痛に歪んだ。
 
「蒼太子、寝ていなさいっ」
「……いいんだ。小蘭、起こしてくれ」

 小蘭の手を借りながら、蒼龍は寝台に半身を起こした。
 
「……俺は、行く。……日鳳の策に従う」
「しかし、蒼太子……今のあなたは」
 蒼龍は、右手を上げて、春明の言葉を遮った。

「言いたいことは分かっている。……だが、このまま寝ていては、曹の膝下に引きずり出され、首を刎ねられて終わりだろう」
 奥歯を噛み締めた顔が、苦痛に歪んだ。

「〝父親殺し〟の名を着せられてな」

「蒼……」
 小蘭の、蒼龍を支える腕が震えた。
 手が触れた部分の温度が、さらに熱くなったのが分かる。

 春明が黙ったのを見ると、蒼龍は一同を見渡しながら続けた。
「戻る道中で、日鳳から話は聞いている。潜むのは山あいの隠れ里。馬を操り、共にゆくのは……小蘭だ」

「わ、私が――?」

 目を丸くした小蘭。
 ゴホッ。苦しそうに咳をする蒼龍を見てとると、日凰リーファンが、後を継いだ。

「――見てのとおり、今の蒼龍に手綱は取れない。小蘭妃に手となり、足となっていただく。出来ますか」

 私が……蒼龍を乗せて?
 そんなこと、出来る?

 ふと、瞼に情景が浮かんだ。
 夜の山道。
 血の匂いに――迫り来る追手。
 
 息を吸うたび、胸の奥がぞわりとした。

「小蘭様……」
 隣では、婆やが不安そうに見つめる。
 日鳳が続けた。
 
「潜伏先では、異国から流れてきた商売人の夫婦として、潜んでいただく」
「ふ、夫婦……私と蒼龍が?」
 
 覚悟を固めつつあった小蘭の、心が微かに跳ねた。
 
 贅沢で美しい、極上の檻――後宮から出て、庶民のように街で暮らす。
 それも、蒼龍と一緒に。
 毎日同じ家で、煮炊きをして、商売をして、一緒に眠って……。
 
 胸の奥で、小さく爆ぜる炎を止められない。
 思わず微笑んだ小蘭を見て、日鳳は告げた。
 
「……どの道、小蘭妃シャオランフェイ、あなただって、危険なんだ。蒼龍に近すぎるからな。二人を護る策は――これしかない」

「小蘭。安全な道じゃない、それでも行ってくれるか? 俺と」
 
 蒼龍が、真顔で見つめている。

「――ええ、任せて」

 小蘭が、力強く頷くと、蒼龍はふっと息を吐いた。

 場をまとめるように、日鳳が手を打つ。

「よし。もう時がない。早速準備を始めましょう。ここにもじきに追手がくる」

 場が、動き出した。

「全く。小蘭様に、煮炊きや太子様の身の回りのお世話なんて、ホントに出来るんですかね?」
 
 婆やはぶつぶつ文句を言いながらも、あれこれ準備をし始めた。

「痛みと熱を抑える処置をしていますが……蒼太子、くれぐれもご無理はなさらず」
「ああ、恩に着る」
 春明は、蒼龍に処置を施すと、薬と包帯の準備を始めた。
 玄武は、少し離れた場所で、武具の手入れをしている。
 
 蒼龍は、ギリギリまで眠って体力の回復につとめ――。
 
 空が明るくなる手前。

 夜気が、肌に冷たい。それが、ひどく現実だった。
 
「小蘭様ぁ……」
「蒼太子、小蘭、どうかご武運を」
 
「ありがとう先生、皆も……無事で」

 小さな嘶きと供に、蒼龍と小蘭、そして先導の日鳳は、宵闇の中に連なった。
 
 碧衣の背が、白みはじめた夜霧に紛れ、溶けてゆく。
 
 血と嘘に追われながら、二人の未知の明日が、静かに始まろうとしていた。
 
 
 
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