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第三章 帰還
89 出立前夜
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頬を叩きながら、フラフラとこちらへやって来たのは、日鳳だった。
「日鳳、どうしたの? 顔色がすごく悪いわ」
「……ああ、どうか、お気遣いなく」
小蘭の声に軽く手を挙げると、日鳳は、神妙な顔つきで蒼龍の前に立つ。
そして、その膝をおもむろに折り、頭を床につけて叫んだ。
「蒼太子、そして小蘭妃。私が至らぬばかりに、事を長引かせてしまいました」
「日鳳、私たちは大丈夫よ。それよりあなた、眠れてないんじゃあ……」
気遣おうとした小蘭に、日鳳は被せるように言った。
「万全とまでは言えませんが、ようやく準備が整いました! 我が策の不出来、どうかお赦しいただきたい」
蒼龍は、日鳳のずれた冠を見下ろすと、その肩にそっと手を置いた。
「もういい日鳳、詫びは十分受け取った。お前はどうも、堅くていけない」
「しかし、そう訳には……うわっ」
さらに頭を擦り付けようとする日鳳の襟を、白虎がひょい、と摘み上げた。
「だから、そういうのは要らねえんだって。我らが蒼龍が言ってるだろう?」
「こ、こら、離さんか白虎っ」
手足をばたつかせる日鳳をすとんと降ろすと、白虎は兵士たちに鋭く号令をかけた。
「よーし、任務完了。野郎ども、少しの間休憩だ!」
すると、それを合図に、隠れていた行長たちがわっと庭に入ってきた。
彼らは鍋や釜を抱え、その後ろに米や野菜を担いだ女たちが続く。
「外庭で、街の人たちが炊き出しを準備している。感謝を忘れず、しっかり食え。そして命令だ。元曹軍の連中も分け隔てなく扱え! いいな」
白虎の号令で、兵士たちは競うように外へ出た。
広間にはもう、四人しか残っていなかった。
最後のひとりが外へ出たのを確認し、日鳳は、隅の円卓に皆を誘った。
「さあ、こちらへ」
「腹へってんだろ? そら、たーっぷりあるぞ」
白虎は、自ら炊き出しに並び、粽や蒸し饅頭を山盛りにしてきた。
小蘭の鼻先に、芳しい匂いが漂ってきた。
そう言えば、朝から何も食べていない。
朝一番で捕縛され、死を覚悟した身体が、ようやく空腹を思い出した。
見れば、蒼龍たちはすでに温かいご馳走にがっついている。
負けじと小蘭が蒸かし饅頭を手にしたところで、日鳳が改めて蒼龍に向き直った。
「改めて――蒼龍」
「うん。説明を頼む。まさか、俺たちが紅蛾に、好き放題やられているのを、面白がっていたわけじゃあるまい」
「いや、あの拘束姿は、中々そそられるものがあったぞ」
「黙れ白虎、話をややこしくするな」
「ちぇ」
白虎が食べ物の山から粽を鷲掴みにした。
日鳳が静かに話し始める。
「今より、ひと月ほど前のことです。私の部下が、曹丞相の私兵に捕らえられたと報せが入りました」
「それ……もしかして、松露? 冬に、たくさんの油を届けに来てくれた」
「……ええ、気のいい真面目な男でしたが」
その言葉に、小蘭の喉がきゅっと詰まった。
“でした”という過去形が、否応なく現実を突きつけてくる。
「そして、彼を捕らえたのが、紅蛾という女兵だ。しかし彼は、命を賭して私に伝令を飛ばしてくれた」
「そんな……」
帰りの冬の早朝に、大きく手を振っていた松露の笑顔が唐突に脳裏に浮かぶ。
蒼龍の横顔をちらっと見るも、彼はそれを、無表情のまま聞いている。
白虎が、日鳳の後を継いだ。
「俺に伝令が届いたのは、樊のおっさんと戦り合っていた時さ。人生で、これほど急いだ事はなかったぞ」
握り飯をふたつ腹に収めると、白虎は円卓に身を乗り出した。
「俺は五十騎ほどを連れて戦線を離れ、近くの曹の大隊を乗っ取り、化けた。紅蛾が本物の曹軍に接触する前にな」
得意げに目を輝かせた白虎。
蒼龍がふっと微笑むと、彼は、嬉しそうに目を細めた。
二人の独特な呼吸に、小蘭はまた、自分の入り込めない空間を感じてしまう。
これは、長い時間を共に戦ってきた者だけが立てる場所なのだと、否応なく思い知らされる。
それでも私は、この輪の中に立つ。
ぎゅっと拳を握る小蘭に、日鳳がそっと告げた。
「その強さも然りだが……白虎の真に凄いところは、兵たちの人心掌握術にあります。外庭を見てください」
小蘭が外に目をやると、さっきの兵士たちが和気あいあいと、時にふざけ合いながら、炊き出しの飯を食っている。
「〝同じ釜の飯〟とは言いますが、この大半が、この間まで敵だっただなんて、思えないでしょう」
「本当……すごいわ」
ぼんやりと外庭を見つめる小蘭に、日鳳はどこかホッとした表情を見せた。
それから、改めて蒼龍に向き直った。
「蒼太子」
「ん?」
緊迫したその声に、白虎と戯れ言を吐き合っていた蒼龍が目を上げた。
小蘭もまた、どきりとして目を向ける。
「白虎や我々の動きは、じきに曹丞相に伝わるでしょう。都城の守りを固められては、私どもに勝ち目はありません」
日鳳は、椅子を降りると蒼龍の足元に膝をついた。
「我が部下、松露が……ひと月も耐えてくれたお陰です。必要な寝返り工作が、最低限整いました」
松露――その名を聞いた瞬間、小蘭は、知らず拳を握り締めていた。
日鳳が、拱手で蒼龍に訴えかける。
「ぐずぐずしている暇はございません。お覚悟が決まりましたら――今すぐ出立のご準備を」
蒼龍は、無言のままで日鳳を見下ろしている。
その横顔から目を離さずに、小蘭は彼の次の言葉を待った。
「日鳳、どうしたの? 顔色がすごく悪いわ」
「……ああ、どうか、お気遣いなく」
小蘭の声に軽く手を挙げると、日鳳は、神妙な顔つきで蒼龍の前に立つ。
そして、その膝をおもむろに折り、頭を床につけて叫んだ。
「蒼太子、そして小蘭妃。私が至らぬばかりに、事を長引かせてしまいました」
「日鳳、私たちは大丈夫よ。それよりあなた、眠れてないんじゃあ……」
気遣おうとした小蘭に、日鳳は被せるように言った。
「万全とまでは言えませんが、ようやく準備が整いました! 我が策の不出来、どうかお赦しいただきたい」
蒼龍は、日鳳のずれた冠を見下ろすと、その肩にそっと手を置いた。
「もういい日鳳、詫びは十分受け取った。お前はどうも、堅くていけない」
「しかし、そう訳には……うわっ」
さらに頭を擦り付けようとする日鳳の襟を、白虎がひょい、と摘み上げた。
「だから、そういうのは要らねえんだって。我らが蒼龍が言ってるだろう?」
「こ、こら、離さんか白虎っ」
手足をばたつかせる日鳳をすとんと降ろすと、白虎は兵士たちに鋭く号令をかけた。
「よーし、任務完了。野郎ども、少しの間休憩だ!」
すると、それを合図に、隠れていた行長たちがわっと庭に入ってきた。
彼らは鍋や釜を抱え、その後ろに米や野菜を担いだ女たちが続く。
「外庭で、街の人たちが炊き出しを準備している。感謝を忘れず、しっかり食え。そして命令だ。元曹軍の連中も分け隔てなく扱え! いいな」
白虎の号令で、兵士たちは競うように外へ出た。
広間にはもう、四人しか残っていなかった。
最後のひとりが外へ出たのを確認し、日鳳は、隅の円卓に皆を誘った。
「さあ、こちらへ」
「腹へってんだろ? そら、たーっぷりあるぞ」
白虎は、自ら炊き出しに並び、粽や蒸し饅頭を山盛りにしてきた。
小蘭の鼻先に、芳しい匂いが漂ってきた。
そう言えば、朝から何も食べていない。
朝一番で捕縛され、死を覚悟した身体が、ようやく空腹を思い出した。
見れば、蒼龍たちはすでに温かいご馳走にがっついている。
負けじと小蘭が蒸かし饅頭を手にしたところで、日鳳が改めて蒼龍に向き直った。
「改めて――蒼龍」
「うん。説明を頼む。まさか、俺たちが紅蛾に、好き放題やられているのを、面白がっていたわけじゃあるまい」
「いや、あの拘束姿は、中々そそられるものがあったぞ」
「黙れ白虎、話をややこしくするな」
「ちぇ」
白虎が食べ物の山から粽を鷲掴みにした。
日鳳が静かに話し始める。
「今より、ひと月ほど前のことです。私の部下が、曹丞相の私兵に捕らえられたと報せが入りました」
「それ……もしかして、松露? 冬に、たくさんの油を届けに来てくれた」
「……ええ、気のいい真面目な男でしたが」
その言葉に、小蘭の喉がきゅっと詰まった。
“でした”という過去形が、否応なく現実を突きつけてくる。
「そして、彼を捕らえたのが、紅蛾という女兵だ。しかし彼は、命を賭して私に伝令を飛ばしてくれた」
「そんな……」
帰りの冬の早朝に、大きく手を振っていた松露の笑顔が唐突に脳裏に浮かぶ。
蒼龍の横顔をちらっと見るも、彼はそれを、無表情のまま聞いている。
白虎が、日鳳の後を継いだ。
「俺に伝令が届いたのは、樊のおっさんと戦り合っていた時さ。人生で、これほど急いだ事はなかったぞ」
握り飯をふたつ腹に収めると、白虎は円卓に身を乗り出した。
「俺は五十騎ほどを連れて戦線を離れ、近くの曹の大隊を乗っ取り、化けた。紅蛾が本物の曹軍に接触する前にな」
得意げに目を輝かせた白虎。
蒼龍がふっと微笑むと、彼は、嬉しそうに目を細めた。
二人の独特な呼吸に、小蘭はまた、自分の入り込めない空間を感じてしまう。
これは、長い時間を共に戦ってきた者だけが立てる場所なのだと、否応なく思い知らされる。
それでも私は、この輪の中に立つ。
ぎゅっと拳を握る小蘭に、日鳳がそっと告げた。
「その強さも然りだが……白虎の真に凄いところは、兵たちの人心掌握術にあります。外庭を見てください」
小蘭が外に目をやると、さっきの兵士たちが和気あいあいと、時にふざけ合いながら、炊き出しの飯を食っている。
「〝同じ釜の飯〟とは言いますが、この大半が、この間まで敵だっただなんて、思えないでしょう」
「本当……すごいわ」
ぼんやりと外庭を見つめる小蘭に、日鳳はどこかホッとした表情を見せた。
それから、改めて蒼龍に向き直った。
「蒼太子」
「ん?」
緊迫したその声に、白虎と戯れ言を吐き合っていた蒼龍が目を上げた。
小蘭もまた、どきりとして目を向ける。
「白虎や我々の動きは、じきに曹丞相に伝わるでしょう。都城の守りを固められては、私どもに勝ち目はありません」
日鳳は、椅子を降りると蒼龍の足元に膝をついた。
「我が部下、松露が……ひと月も耐えてくれたお陰です。必要な寝返り工作が、最低限整いました」
松露――その名を聞いた瞬間、小蘭は、知らず拳を握り締めていた。
日鳳が、拱手で蒼龍に訴えかける。
「ぐずぐずしている暇はございません。お覚悟が決まりましたら――今すぐ出立のご準備を」
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その横顔から目を離さずに、小蘭は彼の次の言葉を待った。
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