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第1章
いちにちの終わり
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私は最初、宿禰様は長いこと独りで地下にいて、話し相手も居ないものと考えていた。
――だが、なかなかどうして。
昼食を終えた午後になると、いつも大勢の客人が訪れた。
お客様は、商売に関わる方らしく、背広や袴姿の男たちが二、三人ほど連れ立って、夕方の鐘がなり終わるまでひっきりなしにやって来る。
隣の部屋に身を引いた私が、そっと耳を澄ますと、宿禰様は、穏やかな声で話しておられる。
商売の先を見通すその言葉に、お客様は皆、熱心に耳を傾けている。
――それなのに。
聞くべきことを聞き終えた途端、彼らは決まって早足で去っていった。
そのたびに宿禰様は、しょんぼりと肩を落としておられる。
その背中が、なぜかとても冷たく見えて――胸の奥がざわついた。
どこかで、誰かが。
宿禰様のお姿について、面白おかしく語っているのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
けれど、一昨日来た若い男のお客様は、そうではなかった。
襖戸をわずかに開け、後ろ姿を盗み見ただけだったが、その方は夕方の水浴び直前までいて、冗談を言い合う声が隣室にまで聞こえてきた。
宿禰様もよほど楽しかったのだろう。笑い声は尽きることなく、その日だけは、不思議と地下の空気が軽かった。
「さっきのお方は? 随分とお話が弾んでいたようですけれど」
夕の水浴びの時、思い切って尋ねてみると、引き戸を隔てて穏やかな声が返ってきた。
「ああ、あれは多摩川梓といって、大学時代の悪友です。昨年、事業を思い立ったばかりの――今流行りの青年実業家というやつですよ」
ザザァ~、と水をかける音。
心なしか、そのお声も弾んで聞こえる。
「へえ、多摩川様……お友達なのですね。そういえば今日は、頭巾も外されていて」
「ああ、よく分かりましたね。彼はね、この姿の僕にも以前と変わらず接してくれる、少し変わった奴なんですよ」
その声があまりに嬉しそうで、私まで心がぽかぽか温かくなる。
「そうだ! 次はぜひ、彼に陽毬さんを紹介させてください」
「ええっ、よろしいのですか? 私などを」
「はい、あなたさえよければ。……その」
ザザァ~。
水音の後、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「僕だって、人並みに……陽毬さんのことを自慢してみたいんです。あなたの不名誉にならなければ、ですが」
「そ、そんな……」
夫となる殿方からそんな言葉を向けられて、私はすっかり舞い上がってしまった。
その夜は、いつまでもふわふわとしていて、全く寝付けなかった。
さて、地下の風呂桶は、水を抜いてひっくり返し、よく乾かしておかなければ、すぐに黴てしまう。
使ったお水の残りは、夕食と交換で、配膳を手伝う使用人たちが持ち帰ることになっている。
これにも、色々な人がやってきた。私に気を遣って、色々話しかけてくれる人もいれば、目を合わせない人もいる。中には、病がうつらないものと知りながら、水を避ける仕草をする人も。
最初のうちはそれが腹立たしかったけれど……
ひと月がたった今日では、宿禰様がこれまで抱えてきた孤独を自分の事のように感じてしまう。
だからこそ、私は改めて心に決めた。
宿禰様に、できる限り寄り添おうと。
夕食を終えると、あとはもう眠るだけ。
「それではまた明日。おやすみなさいませ、宿禰様」
「おやすみなさい、陽毬さん。今日もありがとうございました」
深く穏やかな声に見送られ、私は地上二階のお部屋へと帰る。
こんなふうに、私達夫婦の新婚生活は一見、普通とは言えないものだったが。
この結婚は、父から話を持ちかけられた時に抱いた不安や、権藤家への嫌悪感を覆すほど、私にとって大切で幸せなものになっていた。
さらに、それから少し経った頃。
宿禰様は、ひょんなきっかけから、ついに語って下さった。
自身のご病気のこと――そして、なぜこの地下に閉じこもって生きてきたのかを。
――だが、なかなかどうして。
昼食を終えた午後になると、いつも大勢の客人が訪れた。
お客様は、商売に関わる方らしく、背広や袴姿の男たちが二、三人ほど連れ立って、夕方の鐘がなり終わるまでひっきりなしにやって来る。
隣の部屋に身を引いた私が、そっと耳を澄ますと、宿禰様は、穏やかな声で話しておられる。
商売の先を見通すその言葉に、お客様は皆、熱心に耳を傾けている。
――それなのに。
聞くべきことを聞き終えた途端、彼らは決まって早足で去っていった。
そのたびに宿禰様は、しょんぼりと肩を落としておられる。
その背中が、なぜかとても冷たく見えて――胸の奥がざわついた。
どこかで、誰かが。
宿禰様のお姿について、面白おかしく語っているのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
けれど、一昨日来た若い男のお客様は、そうではなかった。
襖戸をわずかに開け、後ろ姿を盗み見ただけだったが、その方は夕方の水浴び直前までいて、冗談を言い合う声が隣室にまで聞こえてきた。
宿禰様もよほど楽しかったのだろう。笑い声は尽きることなく、その日だけは、不思議と地下の空気が軽かった。
「さっきのお方は? 随分とお話が弾んでいたようですけれど」
夕の水浴びの時、思い切って尋ねてみると、引き戸を隔てて穏やかな声が返ってきた。
「ああ、あれは多摩川梓といって、大学時代の悪友です。昨年、事業を思い立ったばかりの――今流行りの青年実業家というやつですよ」
ザザァ~、と水をかける音。
心なしか、そのお声も弾んで聞こえる。
「へえ、多摩川様……お友達なのですね。そういえば今日は、頭巾も外されていて」
「ああ、よく分かりましたね。彼はね、この姿の僕にも以前と変わらず接してくれる、少し変わった奴なんですよ」
その声があまりに嬉しそうで、私まで心がぽかぽか温かくなる。
「そうだ! 次はぜひ、彼に陽毬さんを紹介させてください」
「ええっ、よろしいのですか? 私などを」
「はい、あなたさえよければ。……その」
ザザァ~。
水音の後、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「僕だって、人並みに……陽毬さんのことを自慢してみたいんです。あなたの不名誉にならなければ、ですが」
「そ、そんな……」
夫となる殿方からそんな言葉を向けられて、私はすっかり舞い上がってしまった。
その夜は、いつまでもふわふわとしていて、全く寝付けなかった。
さて、地下の風呂桶は、水を抜いてひっくり返し、よく乾かしておかなければ、すぐに黴てしまう。
使ったお水の残りは、夕食と交換で、配膳を手伝う使用人たちが持ち帰ることになっている。
これにも、色々な人がやってきた。私に気を遣って、色々話しかけてくれる人もいれば、目を合わせない人もいる。中には、病がうつらないものと知りながら、水を避ける仕草をする人も。
最初のうちはそれが腹立たしかったけれど……
ひと月がたった今日では、宿禰様がこれまで抱えてきた孤独を自分の事のように感じてしまう。
だからこそ、私は改めて心に決めた。
宿禰様に、できる限り寄り添おうと。
夕食を終えると、あとはもう眠るだけ。
「それではまた明日。おやすみなさいませ、宿禰様」
「おやすみなさい、陽毬さん。今日もありがとうございました」
深く穏やかな声に見送られ、私は地上二階のお部屋へと帰る。
こんなふうに、私達夫婦の新婚生活は一見、普通とは言えないものだったが。
この結婚は、父から話を持ちかけられた時に抱いた不安や、権藤家への嫌悪感を覆すほど、私にとって大切で幸せなものになっていた。
さらに、それから少し経った頃。
宿禰様は、ひょんなきっかけから、ついに語って下さった。
自身のご病気のこと――そして、なぜこの地下に閉じこもって生きてきたのかを。
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