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「おはようございます」「おはよう、今日も元気ねえ」
畑仕事をしている名前も知らないおばあさんと交わす何気ない挨拶。私の朝はそこから始まる。そしてその一言で私の楽しい一日は終わる。
学校では退屈な授業、つまらない恋愛話しかできない女友達、くだらないことで下品な笑い声をあげる男子生徒たち、時々いやらしい目で私を見る先生。家へ帰ると勉強しなさいと口うるさいお母さん、テレビを見ては芸能人の悪口を言っているお父さん。毎日それの繰り返しを眺める私。
つまらない。本当につまらない。
「あら、髪型変えたの?」おばあさんは驚いた顔で帽子をくいっと上げる。長年伸ばしていた髪をばっさりと切った翌朝だった。理由は特にない。長い髪に飽きただけだ。「気付いてくれたんですか?」「そんなのあなた、毎日顔見てるんだから分かるわよ。似合ってるじゃない。かわいいね」
かわいいね。今までたくさん言われてきた言葉だった。なのに何故だろう。初めてその言葉で嬉しいと思った。私は頰が熱くなるのを感じながら、小さい声で「ありがとうございます」と答えた。おばあさんはにっこりと笑い「いってらっしゃい」と手を振った。
日曜日、何気なく窓を覗くと、おばあさんが畑仕事をしている姿が見えた。豆粒みたいに小さかったが、あのおばあさんだと分かった。腰を折って苗を植えている。昼ごはんに呼ばれるまで私はずっとおばあさんを眺めていた。
受験の季節に入ってから、おばあさんを畑で見かけることはなくなった。ご高齢だったし、まさかお亡くなりになったんじゃ、と心配になったが誰にも聞けなかった。
数ヶ月後の食卓で、それがなぜなのかが分かった。
「近所の田辺さんっているじゃない?」「おう」「認知症がひどくなってきてお子さんが困ってるらしいわよ」「そりゃ大変だな」
母と父が食卓でそんな話をしていたので、思わず口を挟んだ。
「それって畑仕事をしていたおばあさん?」「あら真奈美、あなた知ってるの?近所の畑でよくいたおばあさんよ」「認知症ってなに?」「要するにボケたってことだ。近いうちに自分の名前も分からなくなるんじゃないか」
軽くハハっと笑う父を呆然と眺めることしかできなかった。その間にも会話は続く。
「まあでも俺たちと田辺さんはあまり交流もなかったし関係のない話だな」「でも夜出歩かれたりしたら怖いわ。何するか分からないわよ。真奈美、これからは出来るだけ早く帰ってきなさい。勉強も図書館じゃなくて家に帰ってしたらいいじゃない」
母の言葉に答えず、箸を置いて自分の部屋に戻った。今日初めて苗字を知ったおばあさん。毎日挨拶をしていたと言っても、ほとんど他人だ。なのに両親のあの言い方にひどく心を乱された。体の中がぐにゃぐにゃになったような感覚。初めてだ。親を殴りたいと思ったのは。
私はその日から家でいることがより苦痛になった。だからといって学校にいても、学生の幼稚さと先生の抑えきれていない性欲に気分が悪くなるだけだ。
「おばあさん。おばあさん。どこなの。おばあさん」
家族の中で一番早く起きて早々と家を出て、就業のチャイムが鳴れば逃げ出すように校門を抜ける。朝も夕方も、おばあさんは畑にいない。
あの畑がかろうじて見える場所にカフェがある。放課後はそこで勉強をする日が続いた。店員に顔を覚えられ、大学生であろうアルバイトのスタッフがニヤニヤした顔でスマホを持って話しかけてきたこともあった。私が黙って耳にイヤホンをさすと、翌日からはわざと教科書の上にコーヒーを置かれるようになった。勉強するならよそでやれやと小さい声で言われることもあった。どうでもいい。私が見ているのは店内でも教科書でもないのだから。
畑仕事をしている名前も知らないおばあさんと交わす何気ない挨拶。私の朝はそこから始まる。そしてその一言で私の楽しい一日は終わる。
学校では退屈な授業、つまらない恋愛話しかできない女友達、くだらないことで下品な笑い声をあげる男子生徒たち、時々いやらしい目で私を見る先生。家へ帰ると勉強しなさいと口うるさいお母さん、テレビを見ては芸能人の悪口を言っているお父さん。毎日それの繰り返しを眺める私。
つまらない。本当につまらない。
「あら、髪型変えたの?」おばあさんは驚いた顔で帽子をくいっと上げる。長年伸ばしていた髪をばっさりと切った翌朝だった。理由は特にない。長い髪に飽きただけだ。「気付いてくれたんですか?」「そんなのあなた、毎日顔見てるんだから分かるわよ。似合ってるじゃない。かわいいね」
かわいいね。今までたくさん言われてきた言葉だった。なのに何故だろう。初めてその言葉で嬉しいと思った。私は頰が熱くなるのを感じながら、小さい声で「ありがとうございます」と答えた。おばあさんはにっこりと笑い「いってらっしゃい」と手を振った。
日曜日、何気なく窓を覗くと、おばあさんが畑仕事をしている姿が見えた。豆粒みたいに小さかったが、あのおばあさんだと分かった。腰を折って苗を植えている。昼ごはんに呼ばれるまで私はずっとおばあさんを眺めていた。
受験の季節に入ってから、おばあさんを畑で見かけることはなくなった。ご高齢だったし、まさかお亡くなりになったんじゃ、と心配になったが誰にも聞けなかった。
数ヶ月後の食卓で、それがなぜなのかが分かった。
「近所の田辺さんっているじゃない?」「おう」「認知症がひどくなってきてお子さんが困ってるらしいわよ」「そりゃ大変だな」
母と父が食卓でそんな話をしていたので、思わず口を挟んだ。
「それって畑仕事をしていたおばあさん?」「あら真奈美、あなた知ってるの?近所の畑でよくいたおばあさんよ」「認知症ってなに?」「要するにボケたってことだ。近いうちに自分の名前も分からなくなるんじゃないか」
軽くハハっと笑う父を呆然と眺めることしかできなかった。その間にも会話は続く。
「まあでも俺たちと田辺さんはあまり交流もなかったし関係のない話だな」「でも夜出歩かれたりしたら怖いわ。何するか分からないわよ。真奈美、これからは出来るだけ早く帰ってきなさい。勉強も図書館じゃなくて家に帰ってしたらいいじゃない」
母の言葉に答えず、箸を置いて自分の部屋に戻った。今日初めて苗字を知ったおばあさん。毎日挨拶をしていたと言っても、ほとんど他人だ。なのに両親のあの言い方にひどく心を乱された。体の中がぐにゃぐにゃになったような感覚。初めてだ。親を殴りたいと思ったのは。
私はその日から家でいることがより苦痛になった。だからといって学校にいても、学生の幼稚さと先生の抑えきれていない性欲に気分が悪くなるだけだ。
「おばあさん。おばあさん。どこなの。おばあさん」
家族の中で一番早く起きて早々と家を出て、就業のチャイムが鳴れば逃げ出すように校門を抜ける。朝も夕方も、おばあさんは畑にいない。
あの畑がかろうじて見える場所にカフェがある。放課後はそこで勉強をする日が続いた。店員に顔を覚えられ、大学生であろうアルバイトのスタッフがニヤニヤした顔でスマホを持って話しかけてきたこともあった。私が黙って耳にイヤホンをさすと、翌日からはわざと教科書の上にコーヒーを置かれるようになった。勉強するならよそでやれやと小さい声で言われることもあった。どうでもいい。私が見ているのは店内でも教科書でもないのだから。
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