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ドジョウの女
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泥沼の中は居心地が良かった。底へ近づくほど冷たくて、私の体を守っているかのように泥が私を包み込む。ドジョウだ。私はドジョウなのだ。泥を掻き自由気ままに移動する。ユスリカの幼虫を見つけては見境なく口に入れた。孤独だが毎日が幸せだった。
しかしある時から私が棲む泥沼に人間が足を踏み入れるようになった。とろりと揺蕩う泥の中に網を突っ込み、知性のかけらもなく乱暴にかき混ぜる。なんと品のない生き物なのかしら。呆れた私は人間の脚に絡みつき、泥沼の底まで連れて行った。息のできない可哀想な人間は、底に着くまでに事切れる。暴れなくなったそれを、私たちは当分の食糧とした。味覚がない私にとって、それらはただの一度の手間で大量に手に入れられる食糧という感覚だった。
一人の人間が行方不明になってから、私の住処に人間が訪れることが多くなった。私が喰った人間を捜しているのだろう。それらを空腹になると捕まえ、底に引きずり込んだ。これは一生食い物に困ることはない。
そう考えていたのも束の間だった。私は人間に捕まってしまった。網で縛られ、どこかへ連れて行かれる。泥まみれの私に透明の水をこれ以上ないほどかけ、身体中を擦られた。今度は私が人間に食われるのだろうか。つまらん。
私は数日透明な水にさらされた後、白い布に包まれた。とうとう殺されるのか。そんなことを考えているとき、一人の人間が勢いよく私がいる部屋に入ってきた。私を見るなり大きな声を上げて私に覆いかぶさった。
「冬子、生きていたのね。よかった。よかった」
なにを言っているのか理解できない。
「遅くなってごめんね。ごめんね」
ごめんね...?
「あなたが行方不明になってからね。お父さん毎日あなたを探していたの」
この人間は何を言っているんだ?
「でもごめんね。あなたを探している途中で、お父さんまで行方不明になって...あなたが見つかった沼地でよ」
それは私が初めて喰ったやつのことかもしれない。
「あなただけでも見つかって良かった。良かった。良かった」
その女は泣き崩れた。どうやら私はドジョウではなかったらしい。
数日後、十年前に沼地で行方不明になっていた少女が救出されたという記事が新聞を埋め尽くした。生存本能が少女を沼地に適応する生態に進化させ、彼女の首元にはエラが発見されたそうだ。救出してしばらくは人としての記憶が曖昧だったが、母親と対話することにより徐々に言葉も話せるようになった。彼女が人に近付けば近付くほど、実の父親を殺し、捕食したことに対する罪を自覚することとなる。彼女がまた人で無くなる日は遠くないだろう。そして次はもう人には戻れない。犯した罪を、彼女が手で、口で、胃で、腸で感じた父親の感触を、死ぬまで消すことはできないのだから。
しかしある時から私が棲む泥沼に人間が足を踏み入れるようになった。とろりと揺蕩う泥の中に網を突っ込み、知性のかけらもなく乱暴にかき混ぜる。なんと品のない生き物なのかしら。呆れた私は人間の脚に絡みつき、泥沼の底まで連れて行った。息のできない可哀想な人間は、底に着くまでに事切れる。暴れなくなったそれを、私たちは当分の食糧とした。味覚がない私にとって、それらはただの一度の手間で大量に手に入れられる食糧という感覚だった。
一人の人間が行方不明になってから、私の住処に人間が訪れることが多くなった。私が喰った人間を捜しているのだろう。それらを空腹になると捕まえ、底に引きずり込んだ。これは一生食い物に困ることはない。
そう考えていたのも束の間だった。私は人間に捕まってしまった。網で縛られ、どこかへ連れて行かれる。泥まみれの私に透明の水をこれ以上ないほどかけ、身体中を擦られた。今度は私が人間に食われるのだろうか。つまらん。
私は数日透明な水にさらされた後、白い布に包まれた。とうとう殺されるのか。そんなことを考えているとき、一人の人間が勢いよく私がいる部屋に入ってきた。私を見るなり大きな声を上げて私に覆いかぶさった。
「冬子、生きていたのね。よかった。よかった」
なにを言っているのか理解できない。
「遅くなってごめんね。ごめんね」
ごめんね...?
「あなたが行方不明になってからね。お父さん毎日あなたを探していたの」
この人間は何を言っているんだ?
「でもごめんね。あなたを探している途中で、お父さんまで行方不明になって...あなたが見つかった沼地でよ」
それは私が初めて喰ったやつのことかもしれない。
「あなただけでも見つかって良かった。良かった。良かった」
その女は泣き崩れた。どうやら私はドジョウではなかったらしい。
数日後、十年前に沼地で行方不明になっていた少女が救出されたという記事が新聞を埋め尽くした。生存本能が少女を沼地に適応する生態に進化させ、彼女の首元にはエラが発見されたそうだ。救出してしばらくは人としての記憶が曖昧だったが、母親と対話することにより徐々に言葉も話せるようになった。彼女が人に近付けば近付くほど、実の父親を殺し、捕食したことに対する罪を自覚することとなる。彼女がまた人で無くなる日は遠くないだろう。そして次はもう人には戻れない。犯した罪を、彼女が手で、口で、胃で、腸で感じた父親の感触を、死ぬまで消すことはできないのだから。
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