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第16話──聖女と御稜威の大王

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 ……それは、なにもかも仕組まれたことだった。

 薄暗い牢獄の中で、己に待ち受ける運命がもはや覆しようのないものであることを悟った時、少女は涙した。
 事態の残酷さに魂まで引き裂かれそうだった。
 だって、この結末はつまり──彼の生涯をかけた戦いが全て徒労に過ぎなかったという事実を突きつけ、あらゆる希望を打ち砕く哀しみしかもたらさないものであったから。

 ──全て私のせいだ。

 あの時、無理な進軍をしなければ。忠告を聞いていれば。
 もう一度、彼に会いたいと願わなければ。

 ──ごめんなさい。
 ──ごめんなさい。
 私さえ間違わなければ──貴方に心を寄せたりしなければ。
 貴方がそれに答えてくれる事を期待しなければ──

 彼はこのまま王国屈指の大貴族として、また主君を玉座に導き故国を侵略から救った英雄として、真に偉大な騎士と生涯人々に慕われ、歴史にその名を残す事が出来たのだ。
 しかし、自分が彼に道を踏み誤らせてしまったばかりに、全ては取り返しのつかない事になってしまった。

 彼女の処刑は国家の意思。王が望んだ事。
 それに反して独自に救出の軍を差し向けた事は、すなわち、主君への反逆、数多の民への裏切りに他ならない。
 更に悪い事に、この件には王権すら凌ぐ絶対的支配者である教会が関わっていた。王を蔑ろにしただけでなく、神の教えに背いた罪までも彼には課される事となる。
 ──教会と対立するという事。それはこの時代において身の破滅以外の何ものでもない。

 騎士としての名誉も、人として最低限の尊厳すら奪われて抹殺される──これが誰よりも高潔な生き様を貫いた若者に残された末路だった。

 ──ああ、神よ。何故、これほど貴方の御心と共にあらんとした人が、貶められ、蔑まれて、人としての生を絶たれようとしなければいけないのですか?

 いくら問いかけようとも、神は黙して答えない。
 ゆえに、最期に許された一時を、彼女は己を嘆くためではなく、ただひたすらに祈った。

 ──例えこの身が炎の中へと滅しても、貴方を想う心は共に在り続けましょう。
 ──いつか永劫の輪に捕われた貴方に真の安息が訪れるその日まで。

 彼女はまだ知らない。
 今自分が立っているのは、けっして終焉の舞台などではなく。
 彼と彼女が紡ぐ長い物語の始まりに過ぎないことを。


              ◆◆◆


 ──1431年5月30日。
 怒号や悲鳴、悲喜交々の感情が飛び交う中、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場で一人の女性が炎に包まれた。
 勇ましい逸話の数々から浮かび上がる想像からはほど遠い、清らかな乙女の姿は、たちまち高々と燃え上がる赤色とたちこめる灰色に遮られ、人々の視界から消えてゆく。

「イエス様、イエス様、イエス様────」

 広場の中央。渦巻く熱気と火の粉が爆ぜる音の中、それでもなお聴こえてくるのは、静謐でありながら不思議とよく通る、涼やかな祈りの声。
 それはあまりにも真摯で迷いがなく、彼女に同情を寄せる者には涙を、敵意を持つ者には恐怖を誘うのだった。

「これほど敬虔なキリスト教徒が本当に魔女なのか……?」

 どこからともなく漏れる呟き。

「この方は、本当に聖女だったのではないのか」
「だとしたら……我々はなんと恐ろしい真似をしてしまったのか」

 次々に囁かれる声、声、声。

 彼女の祈りは今まさに終幕へと向かう自らの運命に対する嘆きも、我が身を陥れ、辱めた者達への恨みもなく。
 ただひたすらに、淡々と、まるでここに集う人間達の無知と罪深さへの救済を求めるかのように、天に捧げらていた。

「ああ、御赦しを……どうか御赦しを……」

 その姿のあまりの尊さに、彼女を告発し断罪した処刑人達すら、炎から顔を背け、自らが犯してしまった過ちに慄かずにはいられなかった。
 しかし、今更時は戻らない。
 やがて乙女の喉が灼かれ、呼吸もままならなくなり始めると、偉大なる主へと訴える透き通るように美しい旋律も、次第に途切れがちになり、炎と煙の勢いにかき消されていく。

「………………」

 ふいに。
 これが自らに叶う最後の呼吸と悟ってか、それまで一途に御子の名を言祝いでいた彼女の唇の動きが止まった。

 天を仰いだ瞳に映るのは、はるか遠く虚空の果てまで抜けるように広がる蒼い空。
 しかし、約束の地への解放を目の前にして、彼女の脳裏に浮かぶのは。
 そこに在るはずの神の国ではなく、こちらを穏やかな翠瞳で見つめ返す青年の姿だった。

 今も、自分の為に戦っているであろう愛しい人。
 誰よりも幸せになって欲しかったのに、誰よりも辛い目に合わせてしまった大切な人。

 ──この世界でたった一人、自分の全てを捧げてもいいと思った人。

 『神様』、申し訳ありません。
 私はこの方を……取り返しがつかない程に愛してしまいました。

「……ジル……」

 身を苛む業火の勢いが増した瞬間、一筋の涙と共に、想い人の名が零れ落ちた。
 この瞬間、聖女でも救世主でもない、ありふれた一人の少女に戻った彼女の言葉に気付いた者は、群集の中、誰一人いなかった。

 全ては灰となり燃え尽きて、真実は闇に消える──


              ◆◆◆


 彼女が再び目を開くと、そこはなんとも理解に苦しむ場所だった。

 意識は宙に浮いたまま、世界は上下左右もおぼつかず、ステンドグラスが敷き詰められたような周囲の景色は、一瞬たりとも停滞することなく、さながら『神様』にかつて見せられた万華鏡のように、次々と、細やかに、目まぐるしく切り替わっていく。

 私は確か天に召されたはず……
 ここは、どこ?
 これが『天国』……なのですか?
 それとも……『地獄』……?

「……おや、こんなところで人の魂と出会うとは……随分と面白い事もあるものだ」

 刹那、彼女の疑問に応えるように、目の前の空間に気配が現れる。

 ──それは最初、ただ『眩しい』としか認識出来ない存在だった。

 あまりにも圧倒的で、今脳裏に響く『声』ですら、男なのか女なのか、判然としない。
 自分を保っていないと、あっという間に呑み込まれてしまいそうな、大いなる力の波──

 彼女はこの荘厳とした気配を知っている。
 全身を包み込みながら心に直接響く言葉の数々を──『神託』を幾度となく経験している。
 ……するとこの空間はやはり『天国』で、目の前に現れた存在は──

「確かに私は神──と呼ばれる事もあるが、君の知っている者とは少し違うようだ」

 続いて彼女の脳裏へと響いた声は、はっきり『男性』と認識出来るものだった。

 『声』を認識すると共に、気配が徐々に彼女にとって理解しやすいものへと形を取り始める。
 眩い輝きは人の輪郭を成し、やがて『それ』は一人の青年として姿を顕した。

 なんてきれいなひと──

 初めて青年の姿を目にした彼女の内に湧いた感情は純粋な感嘆だった。

 優しげにも酷薄そうにも見える氷河色をした瞳。
 深い葡萄酒色の髪は長く艶やかで、全てが黄金律で構成された肢体はうっすらと光輝を放っている。

 少なくとも、彼女は自分の想い人以上に美しい、と思える人間にこれまで出会った事はなかった。
 その事実だけでも、目の前の男が彼女の『神様』ではないにしろ、それに似て異なる、何か途方もない存在である事が理解出来た。

「……これで、少しは話しやすくなったかな?お嬢さん」
「え……っ?」

 続く言葉は、『気配』ではなく、力強くはっきりとした『音声』を伴って鼓膜に響いたのだった。

 そして、思わず発した自らの声に更に驚く。
 焼き切れたはずの喉に痛みはない。
 おそるおそる視線を落とすと、その動きにつられて髪が頬をくすぐり、だどりつく先には、何一つ欠けるところも、焦げ付いた痕もみられない、綺麗な形の両手があった。

「……これ……は……」

 不都合を感じる部分はどこにもない。
 あの人に愛されていた頃そのままの……およそ穢れというものを知らず、またあえて触れようともしなかった自分がそこにはいた。

 ……そんな……私は生きて……

「……残念だが、君の本当の身体は、あの処刑場でとうの昔に燃え尽きてしまったよ。
 君は死んだ。その事実は覆らない。
 今の姿は、私の力で在り様を一時的に復元しているのに過ぎない」

 ああ……やはり……
 思わず淡い期待を抱いてしまったが、奇跡が許される身ではない事など、とうに理解していたはずではないか。

 私は神の子とは違う。
 ただ、目的の為に消費され、潰えるだけの存在だ。
 『神様』から頂いた役割を終えて、私は消える。
 人々は私を『聖女』だと、『救世主』だと言ってくれたけれど、そんな大それた存在ではない。
 決して、己の運命を潔く、粛々と享受出来るような賢者ではない。

 だって、この心は今もこんなに──

「ここは世界の裏側、宇宙の果て、虚数空間──まあ、言い方は色々とあるが、『どこでもあって、どこでもない場所』だ。
 輪廻の輪にも戻らず、楽園にも至らず、こんな世界の狭間に留まっているとは……何か現象界に未練でもあるのかね?」

 そう、未練。

 同じ理想を抱いた。
 互いに幸せにしたいと願った。幸せにしようと誓った。
 なのに、私は彼を地獄に置き去りにしたまま、『神様』の下に還ろうとしている。

「……男か」

 全てを見透かすように、氷河色をした瞳が細められた。
 少女の沈黙は肯定と同義だった。
 あるいは、その計り知れない力の一端で、彼女の記憶を読み取ったのかもしれない。

「……なるほど。
 君もいい女だが、よほどいい男だったんだな。そいつも」

 ふと、それまでよりも幾分か和らいだ口調で、この場の主が言った。

「ええ。とても。
 ──他の誰にも渡したくないぐらいに」

 この期に及んで隠す必要もない。
 少女もまた、『神様』にも等しい相手に対し、真っ直ぐに見返して答えていた。
 それが、彼女の中の、何物にも代えがたい『真実』であり──確かにあの世界を生き抜いた証であったから。

「ふむ……君は随分と高徳な魂らしい。そして意志も強い。
 君自身がどう考えているかは知らないが、世界にとって果たした役目が大きいのだろう。
 普通だったら、有無を言わさず引き上げられるか、呑み込まれるところを、振り切ってここにいるのだから」

 にやりと。
 目の前の端正な顔がひどく男臭い笑みを浮かべた。

「──そして、なにより運が強い。
 何と言っても、この私に気に入られたのだからな」

 青年の姿をした『何か』が、更に深く、少女の胸の内を探るように端麗な顔を近づけて、蒼い双眸を覗き込んでくる。

 強い意志を持った視線同士が時空の狭間で交錯する。

 見ていると我知らず深く吸い込まれ、己を失いそうになる氷河色の瞳。それでも少女は相手から目をそらさない。
 彼女は知る由もないが──彼らの同族ですら畏怖する御稜威の王が一柱を前に、世間知らずの小娘が怯む様子は微塵もなかった。

「私が今、君に提示出来る道は3つある」

 楽しげに嗤うそれが、彼女の前に指を突き出す。

「1つ目は当初の予定通り、君の『神様』の下へ戻る事。
 『楽園』に英雄として迎えられ、称えられるといい。下界の些事とは無縁の優雅な暮らしが出来るだろう。
 2つ目は、輪廻の輪に乗って新たな命を得る事。
 かつて生きた時よりもっと平和な時代で、少女らしい生き方を楽しむといい。別の恋を見つける事もあるだろう。あるいは運が良ければ、想い人と再び巡り会う事もあるかもしれない。
 ──そして最後の3つ目。
 英雄として約束された報酬も、新たな生での可能性も放棄して……あくまでも君自身として、男の傍に還る事だ。
 しかるべき時間を経た後、現世へ私が復活する機会を与えてやろう」

 少女の目が見開いた。
 還る──あの人のところへ──そんなことが──

「可能……なのですか?」
「ただし、それには条件がある」

 少女の顔から、こうして会話している最中にあっても、せわしなく切り替わっている周囲の景色に目を移すと、紅の王は言った。
 ……どこか、哀れむような声で。

「……まず、先程も言った通り、君が処刑されるという事実をここで私が覆す事は出来ない。
 君が処刑され、現世を離れなければ、こうして私と出会う事もなかったのだから。
 もっとも、この事実に対する干渉は、それ以上に君たちが住まう星の歴史に生じる影響が大き過ぎる。
 本来、少女の命を一人救ったところで、世界がどうこうなるものではないが、君は歴史における要石のような存在だ。
 そこまでの改竄を行うとなると、さすがに君達の『神様』も黙っていはいないだろう。
 今、ここで彼らと争うのは私としても本意ではない。
 君と想い人が再会出来るよう、世界を刺激しない範囲で道筋をつけてやる事は出来るが、それには少々時間が必要だ。
 だから……君には少し待ってもらう事になる」

「待つ……」

 一体、どれだけ?
 何日?いや何か月?それとも何年?

「そうだな……君達の存在が星の歴史の中に紛れるまで……悲劇の英雄として生を終えたはずの君が、いかに戻った現世で羽目をはずそうと、ただの少女として誰も顧みなくなるまで……再会した二人が、ありふれた恋人達として平和に過ごす事が出来るようになるまで……
 半世紀も生きなかった君にとっては、おそらく途方もない時間になるだろう。
 それだけの時間を、君は、彼を見守りながら過ごす事は出来るか?
 気の遠くなるような年月の末に、想い人がまた君の手を取るという奇跡を、信じて待つ事は出来るか?」

 目の前の存在は、暗に告げている。
 それは決して楽ではない、辛い時間になるぞ、と。
 そもそも私が去った後、彼が変わらず自分を思い続けてくれるとは限らない。
 あるいは、彼の想いが変わらなくても、時の流れの中で彼自身の在り方がかわってしまったら……私自身が耐えられなくなるかもしれない。
 人の心はうつろいやすいもの。
 それでも……

「私は……待ちます。
 私は……あの人と一緒に居たい……
 たとえもう、あの人に触れる事が出来なくても、あの人が触れてくれなくても、私は離れたく……ないのです……」

 誓いの言葉の終わりは切れ切れに、聞き苦しく乱れていた。
 いつしか、少女の蒼い瞳からは、抑えきれない感情と共に、涙があふれ出している。

 これは愛情などではない。ただの妄執だ。
 本当にあの人の幸せを願うなら、私の事など一刻も早く忘れてもらわなければいけないのに。
 やはり私は『神の国』に迎えられる資格などない。
 彼は……この先もずっと私を思い続けてくれると、期待してしまうから。
 その生涯を通じて愛してくれると、半ば確信してしまっているから。
 
 ああ、なんて罪深い。

「──わかった。
 もともと君達二人が出会い、惹かれあう運命が生じる事自体、確率的には奇跡みたいなものだ。
 それを考えたら、これから先の時間など大した障害にはならないだろう。
 凡百の男女には叶わなくても──君達二人なら、きっと大丈夫だ」

 泣きじゃくる少女を見つめる氷河色の瞳は、あくまでも穏やかで優しかった。

「だからもし、永い時を経て、君の想いが変わらず、相手の想いも君に応えるものであれば、その時は必ず力をかそう。
 確かに『糸』を繋いでやる──我が始祖の名に誓ってな」

 本来、神性に『起源』への誓いを立てさせる事がどれだけの意味を持つか、知っていれば彼女は驚いただろう。
 その存在は自分本位な少女の想いを決して責めなかった。
 ただ、偽りなく吐露される感情を『是』とした。

 ──それだけで、彼女は自分の気持ちや罪と向き合える気がして、心強かった。

「そうと決まれば話は早い」

 青年の姿をした神性の手に長い杖のようなもの───少女には死神の振るう大鎌に見えた──が顕現する。
 優雅に宙を薙いだ見えざるものを刈り取る刃が、空間を突き、二人を取り巻いていた世界が静止する。

 少女の姿が柔らかな光に包まれた。

「さあ、もう行くといい。
 君の魂は自由だ。
 君がその想いを遂げようとすることを、誰であろうと私が邪魔させはしない」

 最後に、まだ涙を滲ませている少女の目元を優しく指先で拭うと、氷河色の瞳の主が微笑んだ。
 それは誰もが見惚れてしまうような神々しさで──それでいて親しみやすい、どこか少年のようないたずらっぽい笑みだった。

「……今度泣く時は、大好きな彼氏に拭いてもらえよ」
「は……はいっ!」

 かくして。
 紅き御稜威の王に見送られ、聖女は再び望んで現世へと堕ちていく───
 愛する者が行く修羅の道を、共に見届ける為に。
 再び、彼の腕の中に還る為に。


              ◆◆◆


 外界と少女を隔てていた輝きが消えた後、最初に彼女の目に入ってきたのは、ごく見慣れた石組みの壁だった。
 そこへ触れようとして、思わず差し伸べた指先がうっすらと透けている事に気が付く。
 どうやら今の自分は、かつての記憶と意志だけで己の形を保っている、世界に投影された幻のような存在らしい。

 ようするに幽霊ということですね……

 視覚と聴覚以外の感覚は機能しておらず、まるで夢の中にいるようだった。

 それより……あの人は……どこ……?
 
 壁面に備え付けられた松明の灯は、辺りを包む暗闇を押し返すにはやや頼りなく、生前であれば少女を困惑させたであろうが……肉体を離れ、思念のみの個体となった彼女の意識は、五感を超越した形で空間の全容を捉えていた。

 ここは……牢獄だ……ブーヴルイユ城の地下牢……

 かつて他ならぬ少女──ジャンヌ自身が処刑されるまでの間、イングランド軍によって囚われていた場所である。
 諦念と絶望に澱み、生あるものへの呪詛すら感じられる冷たく湿り気を帯びた空気。
 それは良心ある者の魂を凍えさせ、悪徳に支配された者をより狂乱へと駆り立てる毒気に満ちている。
 現在は深夜なのか、それとも早朝なのか。
 外界から隔絶されたこの場所は、時間の感覚が鈍くなる。砦の中は一見、静寂に微睡んでいるように見えるが、再び戻ってきたこの終幕の地で彼女が感じたのは、安堵ではなく言い知れない不安だった。
 
 なぜ……ここに私は戻ってきたの?
 私は、彼の傍に還りたいと願ったはずなのに……

 何処かに問いかけながらも一つの予感に震える心の片隅で、冷徹な『誰か』の意志が淡々と告げる。

 ──何を言っている?
 ──彼を悪魔の前に残して行った時、こうなる事は、とうに予測出来ていたはず。
 ──全てを承知した上で、お前は戻ってきたのではなかったのか?

「あ……ああ……」

 この時。初めて少女は足下に転がる『それ』に気が付いた。

 人から生じるあらゆる穢れが散乱する石畳。窮鼠が走りまわる不浄の間で。
 腐臭をあげる汚濁に塗れ、横たわる人影を。

 現実を受け入れた途端、蘇ってくる嗅覚に彼女は咽返った。
 戻す胃の中身が何もない事は幸いだった。しかし、鼻腔を突く生理的な嫌悪以上に抑えきれないもの──押し寄せてくる哀しみに胸を詰まらせ、彼女はとうとうその場に崩れ落ちた。天の祝福をそのままに映しこむ、蒼く澄んだ瞳からは次から次へと涙が吹き零れてくる。

 暗がりの中、松明を照り返して浮かび上がる、乱れた長い髪。背を流れ落ち、石畳に広がるそれは、白子のように一筋と余さず色が抜け落ちていた。
 均整のとれた長身を雅やかに覆っていたはずの着衣は原型を留めておらず、申し訳程度に肌に張り付いているだけで、殆どその意味を為していない。
 蒼褪めて白さを増した肌の至る所には、痛々しい傷跡が刻まれ、今もそのいくつかからは血が滲み、布地を赤黒く染めている。

 そして──

 身動ぎ一つしない身体の、胴部からさらに下肢へと視線を動かした彼女は、今度こそ凍りついた。
 無残に裂かれた衣装からのぞく、すんなりと伸びた下肢。そこに遺された暴虐の痕──上腿から下腿にかけて、赤と白とが入り混じった筋が、幾本も流れているのに気がついて。

 嘘だ──
 嘘だ──
 
 慄き、後退りながら彼女は胸の内で絶叫する。

 間違いであって欲しかった。
 悪夢であって欲しかった。
 しかし、意識のみの存在である彼女が夢を見る事は無い。

 そして何より。
 飽くなき拷問に憔悴しきった横顔の目元には隈が落ち、頬骨がうっすらと浮き始めてすらいたが、それでもなお、匂いたつような美貌は見間違えようもなかった。

 
「……ジル」

 現世に戻った彼女を最初に迎えたもの。
 それは再会の喜びではなく、愛した人の残骸だった。
 
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