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第四章 朱い傷痕
4-5 清算
しおりを挟むふぅ、ふぅ……。
白い熱気に潤む彼の唇から、吐息が放たれる。何処か接吻を促すように軽く窄められたその艶めかしい仕草に、思わず目線を奪われていると――。
「朱華ちゃん」
夢想を断ち切るかのように呼び掛けられ、朱華はハッと息を呑んだ。
「はい、あーん」
次いで、一掬いの粥を乗せたスプーンを、ずいと口元に提示される。どうぞ、召し上がれ。無言の圧力でそう訴えてくるヘーゼルの瞳と、今しがた彼の吐息によって温度調節をされた一口の白粥へと視線を泳がせながら、朱華は盛大に逡巡を迎えた。
何故こんな事になったのか……。頭を抱えたかったが、くらくらと目眩のする身体は鉛のように重く、最早動かすのも大儀であった。
現在彼女は帰宅を果たして自分のベッドに半身を横たえているが、傍らにはなんと砂音が居るのだ。熱に浮かされた夢……と思いたい所だが、おそらくそうではない。ここに至るまでに彼に運ばれて来たという記憶も、しっかりと残っている。
そう、発熱に加えて多少の暴力を受けた朱華は、満身創痍だった。ふらふらと覚束無い足取りで今にも倒れ込みそうな彼女に対して、砂音はやはり救急車を呼ぼうと言うものだから、それはやめてくれと懇願した。そんな大事にはされたくない。
それならばと、彼はやおら朱華を抱え上げた。
「おっ、音にぃ!?」
まさかの横抱きに盛大に取り乱す彼女に、砂音は言った。
「タクシーを呼ぼう。それなら、いいよね」
タクシーはまぁ、百歩譲っていいとしても、この体勢は非常に困る。
「おろっ……下ろして! じ、自分で歩けるって!」
「ダメ。そんなふらふらの状態で、一人で歩かせられないよ」
あわあわと訴えるも、すっぱり押し切られてしまう。
――音にぃは本当、意外に強引だ……。
「でも、その……これじゃ、余計に熱上がるっていうか」
距離が近くて、先程からまともに顔を上げられない。しゅうしゅうと湯気を放つ勢いで茹で上がる朱華の様子に、砂音もこれはいけないと判断したらしい。ようやく聞き入れてくれる姿勢を見せたのだが、やはり朱華一人では危なっかしいと、折衷案を取って最終的にはおんぶに落ち着いた。
そのまま、タクシーを拾うまでは砂音の背に負ぶさって運搬されたものだから、周囲の目がそれはそれは痛かった。なんだ、あのバカップル――そんな目で見られていた。気がする。
タクシーも朱華一人で乗るのかと思っていたら、なんと砂音も付いてきた。
――全く、音にぃは心配症なんだから……。
でも、流石に朱華の住むアパートまで到着したら、彼も安心して帰るだろう。――そう思っていたのだが。
気が付いたら、朱華はいつの間にか自分のベッドで眠っており、目を開いたらそこにはまだ砂音が居たのだった。
「朱華ちゃん、タクシーで気絶するように寝ちゃって」
まぁ、散々無理を重ねてきたのだから、さもありなん。
――だからって、何でこのタイミングで!? もうちょっと保てよ、自分!!
勝手に鞄を漁って鍵を探した事、許可なく人の(それも女の子の)部屋に足を踏み入れた事などを謝罪する砂音の言葉を右から左に聞き流しながら、朱華は内心で悶絶したものだ。
幸いと言っていいのか分からないが、彼女の部屋は常に片付いた状態であったから(バイトが遅く、ほぼ寝に帰って来るだけだから汚しようがないとも言う)急な来客を迎えても見られて恥ずかしいものは無い。……あるとしたら、自分の寝顔だが。
ベッドまで運ばれて寝かされたのを想像したら更に悶絶ものだが、とりあえず服装は制服のままだったので、セーフだ。ブレザーと靴下は脱がされていたが……まぁ、セーフだ!!
傷の手当もきちんとされていた。あちこちに絆創膏が貼られ、包帯が巻かれていたが、少々大袈裟なように思える。眠っている間にそのような処置を施された事がまた何ともこそばゆいのだが、それ以上考えてはいけない。また熱が上がりそうだ。
そうして現在、砂音が用意した(近くのコンビニで買ってきたらしい)夕飯ことお粥を供されているという次第だった。
彼がふぅふぅで冷ました粥の乗るスプーンを見つめながら、朱華はまたぞろ慌てて主張した。
「だから、自分で食べられるって! 音にぃ、過保護過ぎ!」
「でも」と反論を皆まで言わせず、砂音の手からスプーンを掻っ攫って粥を口にしてみせる。――ほら、大丈夫だから!
その様子に、ようやく彼の表情にも少し安堵の色が浮かんだ。釣られて朱華もホッとする。良かった……いや待て、そういやこの粥、音にぃの吐息が!!
食べてしまってから、改めてその事実を思い出して脳みそを沸騰させる朱華だった。どうにも忙しい。
「ていうか、音にぃ……自分の分は?」
「あ」
「……忘れてたな?」
朱華の事でいっぱいいっぱいだったのか。有難いやら面映ゆいやら申し訳ないやらでどんな顔をしたら良いか分からずにいると、彼はそんな彼女を宥めるように柔和な笑みを刻んで見せた。
「俺は後で帰ってから食べるから。気にしないで」
「……迷惑、掛けてごめん」
ぽつりと零した謝罪の言葉に、しかし砂音は変わらぬ優しい表情で言うのだ。
「迷惑だなんて、思ってないよ」
その笑みにまた、胸を締め付けられる。それを誤魔化そうと、朱華は話題を変えた。
「音にぃは、何であそこに?」
「街で偶然、朱華ちゃんがあの子達と一緒に居るのを見掛けて。……何だか、様子がおかしかったから」
心配して、来てくれたのか。――音にぃは、優し過ぎだよ。
改めて、そう思う。
――あたしに、その優しさを受ける資格はないのに。
「とにかく、怪我はあまり酷くなさそうで、良かったよ。あとは熱さえ下がれば快方に向かうと思う。俺も、朱華ちゃんが夕飯を終えるのを見届けたら帰るね」
そこまで一気に告げてから、砂音はふと真剣な眼差しを向けた。
「これからは、具合悪かったりしたら、ちゃんと言わないとダメだよ。朱華ちゃん、頑張り屋さんだけど、すぐ無茶するんだから」
何処までも無償に注がれる彼の優しさが、今は痛かった。その瞳から、朱華はつい目を背けてしまう。
「……音にぃは、何も聞かないんだな」
知っている。彼は朱華が聞かれたくない事ならば、無理に聞き出したりなんかしない。でも、その思いやりが、苦しい。いっそ、問い詰められた方が楽だ。――だってもう、音にぃだって、気付いたろ?
「あたしも、アイツらと一緒だよ。……少し前まで、アイツらと同じような事してた」
罪悪感と自己嫌悪に耐えかねて、朱華は自ら語り出していた。それは、彼には知られたくなかった、自分の汚い過去の話――。
砂音と同じ小学校を去り、追われるようにあの町を出ると、父親と二人遠くの町に移った。そこでは、誰も自分達の事なんか知らない。妻に、母親に逃げて棄てられた可哀想な夫と娘だなんて、近所に後ろ指を指される事も無くなった。
それでも、状況は何も変わらない。朱華は相変わらず父親を避け、父親も相変わらず黙りで、家中の会話は途絶したまま。常にギスギスとした空気を纏った朱華は、当然新しい学校にも馴染めず、友人など出来る筈も無かった。
はみ出した朱華は大人の目にも余り、自然と周囲の彼女を見る目は厳しくなっていく。学校にも家にも何処にも彼女の居場所は無かった。抑圧されて、無性に苛苛が募り……父親を見ると、かつての母のように激してしまいそうになった。母のようにはなりたくなくて、かといって、部屋で一人で居ると気が狂ってしまいそうで……。
逃げるように夜の街に飛び出した。煌びやかで騒がしい雑踏の中に居ると、少しだけ孤独が安らぐような気がした。夜の街に居るのは、皆自分と似たようなはみ出し者だ。家庭や社会から掃き出された、居場所のないゴミ屑の集積。――朱華は、その中の一つ。
それぞれがそれぞれ独りぼっちで、疎外感を得る事も無く、気が楽だった。
そうして朱華は、次第に父親の居る家には寄り付かなくなっていった。気詰まりな学校にも、行かなくなった。
それでも、心が満たされる訳ではない。胸の奥は常にぽっかりと穴が空いて隙間風が吹き込むようで、虚しくて寒くて――苛立ちも、同時に罪悪感も、消えなくて。
それら全てから目を逸らすように、突っ掛かってくる奴を相手取り、喧嘩に明け暮れた。
殴って、殴られている間は、何も考えずにいられた。むしろ、何処か安堵すら覚える自分が居た。――そうだよ、あたし悪い子なんだから。誰か。
もっと、あたしを殴ってよ。
我武者羅に藻掻くように暴れて、気が付いたらいつの間にか周囲に人集りが出来ていた。
こんな自分を、何故か慕ってくれる子達。……意味が分からない。でも、嫌じゃない。だけれど、甘える訳にはいかない。一線を引いたまま、適度な距離を保った。――こんなあたしで、ごめん。
何も返す事が出来ないのに、どうしてこの子達は自分の傍に居るのだろう。困惑する日々の中――ある日、父親が死んだ。
「過労死だって」
久々にちゃんと見る父親は、白いベッドの上で。頬は痩け、骨と皮ばかりに痩せ細っていた。
「こんなになるまで必死こいて働いて無茶してたなんて……何も気付かなかった」
それはそうだ。見ないようにしていたのだから。
突然過ぎる出来事に、何か悪い冗談のようにさえ思えた。喪失の悲しみなども湧いてくる訳もなく、親戚の世話の元、ただぼんやりと葬送った。
「母親は、葬儀にも現れなかった」
実は、新しい町に越してから、意外にあっさりと母親は見付かっていた。父親も彼なりに母親の行方を調べていたらしい。改めて話し合いの場を設け、二人は正式に離婚した。
〝男と逃げた〟という噂はあながち間違ってはいなかった。母親は、前の職場の上司と憎からぬ関係になっていたのだ。父親との事を相談している内に心惹かれてしまい、何もかも捨てる覚悟でその上司の元に転がり込んだのだそうだ。
母親はそんな様子だったし、この頃にはもう朱華は荒れていたので、問題児の娘などごめん蒙りたかったのだろう。朱華を引き取るなどという話にはならず、親権はそのまま父親に託された。朱華は、二度母親に捨てられたのだ。
そんな母親の元には勿論行きたくなかったし、このまま親戚の世話になるのも肩身が狭く、朱華は思い切って一人暮らしをする事にした。親戚もそれがいいと金銭の援助もしてくれたが、彼らも素行の悪い朱華と共に暮らすのは、正直嫌だったのだろう。
「それでも、色々と世話を焼いてくれた事は確かだし、あたしは感謝してる」
一人暮らしの為には、金が要る。朱華はそれまでのいい加減な生活を辞め、きちんと働く事にした。作った覚えのない内に出来ていた彼女のチームのメンバー達は、彼女の決意を尊重してくれた。
「引越しの為に荷物の整理してたらさ、見た事のないアルバムが出て来たんだよ」
何の気なしに開いてみたら、赤ん坊の頃の自分の写真が目に飛び込んできた。下にはカラフルなメモが添えられ、彼女の誕生日と体重などの情報が書き込まれている。……母親の字だった。
そのページには、赤ん坊の朱華を抱いた母親と、父親の写真も貼られていた。かつての幸せだった頃の家族の肖像だ。今更それを見ても、朱華の心は何も動かなかった。他所の家族のアルバムを見ているような何処か遠い気分で、ぱらぱらとページを繰る。
『はいはいが出来た!』『たっちが出来た!』『初めてママと呼んでくれた!』
幼稚園の入園式、園の出し物……家族旅行、卒園式、小学校の入学式……それらは、年代順に朱華の成長を彩り、ページを飾っていた。中には、覚えのあるものもあった。
しかし、写真に写る朱華の笑顔は、次第にぎこちなくなっていく。小学校の中頃から……そこから写真の数自体も激減していった。他所の家族のものではない。やはりこれは、自分達家族の関係性を示す縮図だった。
ここらで完全に途絶えるだろう――そう思って次のページを捲ると、朱華は思いがけず目を見張った。写真は終わっていなかった。小学校卒業。中学の制服。中学校の入学式……数こそは少ないし、朱華はいずれも仏頂面だが、写真はまだ続いていたのだ。――ああ、そうだ。
朱華は嫌々だったが、父親が写真を撮ろうと言ったのだ。この時も、この時も。いつもは何も言ってこないくせに、その時だけは譲らない様子で。面倒だし、仕方ないから朱華も撮らせていたのだが……完成を見届けた事はなかった。
それらの写真にもメモが添えられていた。母親のようにカラフルでポップなものではなく、実にシンプルなボールペン字で、几帳面に……父親の字で。
『大きくなったね』
「……何だよ、それ」
物凄く当たり前の事だ。わざわざ書き記すようなものでもない。そのごくありふれた言の葉の文字を、指先でなぞった。凸凹とした感触を指の腹で感じ――朱華は、堪らずに涙した。
自分でもそれとは気付かない内に瞳から溢れて、零れて、止まらなくなり……父親を喪ってからその時初めて、朱華は泣く事が出来たのだ。
「オヤジは……オヤジなりに、あたしとちゃんと家族をやろうとしてたんだ」
不器用で、上手く伝わらなくても。どうにかして、千切れそうな細い糸を繋ぎ止めようとしていた。
「逃げてたのは、あたしの方だった。……会話を放棄してたのは、あたしの方だったんだよ」
今更気付いても、もう遅い。オヤジはもうこの世には居ない。互いを理解し合うチャンスは、二度と巡っては来ない。
「音にぃは、あたしの事〝優しい〟って言うけど……それは買い被りだよ。音にぃが思う程、あたしは綺麗なんかじゃない。自分勝手で、傲慢で……平気で人を傷付ける、最低な人間だよ」
だから今回の事も、当然の報いだ。過去の自分の罪の清算を迫られただけの事だ。
「あたしは、音にぃに優しい言葉を掛けて貰う資格なんか、ないんだよ」
だからもう、それ以上優しくしないでくれ。望みなんか、抱かせないでくれ。――砕かれるだけだと、分かっているから。
いっそ嫌って、軽蔑してくれ。その方が楽になれる。分不相応な夢なんか、見ない方が幸せだ。
――さぁ。
今こそ、その手で砕いて欲しい。
審判を待つ咎人の如く厳粛な面持ちで、朱華は砂音の顔を見上げた。全てを見透かすような澄んだヘーゼルの瞳は、静かに凪いでいた。
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