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第1章 悪夢の遊園地

第5話 ピエロは嗤う

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 目が合うと、ピエロは半面の素顔の方に柔和な笑みを湛えた。

「怪我は無いカナ? お嬢サン」

 語尾の上がる独特なイントネーション。訊ねられ、まりあは半ば放心状態で頷いた。ピエロは更に笑みを深める。目を細め、口端を吊り上げ……そうしていると、もう片側のマスクそっくりの口の角度になった。
 まりあが目を奪われていたら、「おっと」とピエロが一声発し、身体が浮遊感を得る。まりあを抱えたままピエロが高く跳躍したのだと知った時には、その足元をぶぉんっと何かが高速で掠めていった。

 放物線を描いて戻っていく鉛色の物体が向かう先には、紫の熊。どうやら、熊が投じた斧をピエロが跳んで避けたようだ。
 お返しとばかりに、ピエロは空中から片手で熊に何かを投げ付けた。斧よりも小柄な鋼色のそれは、吸い込まれるように熊の手を突き刺す。弾みで熊が斧を取り落とした。ドスンと重たい衝撃が地を揺らす。

「感心しないネェ。こんな可愛らしいお嬢サンを虐めるなんて、サ」

 軽やかに着地を果たし、ピエロが溜息混じりに吐いた。そのまま壊れ物を扱うように、そっと優しい手付きでまりあを地面に下ろす。
 やはり彼がクラウンに違いないと、まりあは確信した。――だって、フルールの言うにはクラウンは〝子供好き〟らしいから。

 ここにいて、まりあはクラウンと思しきピエロの全容を初めて視界に収めた。
 中央が凹んだ大きなシルクハットと、腰から後ろ側に燕尾じみたギザギザの生えた上衣。いずれも赤と青、真ん中から互い違い真っ二つにカラーリングが分かれ、そこに同じくギザギザの黄色い襟、黒いズボンに黄色い靴。
 更には、全ての尖頭に白い‪が付いた、一言で表すなら〝奇抜〟な服装をしていた。ピエロなのだから、ピエロ然としているとも言える。

「大体、前々からキミとは反りが合わないと思っていたんだヨネェ。ここいらで一度決着をつけておいた方が良さそうカナァ」

 熊に向けて言い放ちながら、彼は先程投げたのと同じ獲物を新たに袖内から取り出して構えた。茶色い棒状の握りに、金色の丸い柄頭、同じく金色の鍔。ファンタジーアニメでよく見るような洋剣だが、短い。洒落た造りの短剣ダガーだった。
 距離を隔てて対峙する熊とピエロ。先に動いたのは熊の方だった。分厚い毛皮の手に刺さった短剣を無造作に引き抜くや、斧代わりに飛ばす。その切っ先の指す方向には、まりあ。ピエロの宣戦布告は熊には全く関係ないようだ。

 ピエロもすぐさま反応し、短剣を投げた。標的は熊ではなく、熊の投じた凶器の方。ガキンッと甲高い金属音と共に、刃に刃をぶつけて打ち落とす。落下して地面に突き立った短剣を確認する間も無く、熊は自身の斧を拾い上げては、そちらも投じてきた。
 ピエロは素早く新たな短剣を取り出し、三ついっぺんに投擲する。先程の三倍の金属音が鳴り渡り、まりあの耳をろうした。

 重量級の斧は落としきれないと踏んだか、今度は打ち上げる方針にしたらしい。三つの短剣により上方に進路変更させられた斧は、まりあ達の頭上を通り過ぎ、背後の枯れ木を襲った。
 バキバキと枝を薙ぎ、旋回して律儀に持ち主の元へ戻っていく斧。それよりも、まりあの目はあるものに釘付けになった。

「風船が!」

 引っ掛かっていた枝が刈られ、開放された赤いハートの風船がふわりと上空に舞い上がる。
 まりあの必死の声を聞き、ピエロは即座に地を蹴り、跳んだ。木の中腹を踏み台にして更に高く、枯れ木の頂点を越し、伸ばした指先がギリギリ風船の紐に届くや、それをしっかりと掴み取った。
 トタンッと重さを感じさせない華麗な着地。ピエロは芝居がかった仕草でニッコリ微笑んで腰を折り、まりあに風船を差し出した。

「これ、キミの?」
「あ、ありが――」
「まりあ!」

 鋭く名を呼ばれ、まりあは受け取ろうとしていた手を止める。シフォンの声だ。

(無事だったんだ!)

 咄嗟にそう思うも、そちらを視認する余裕は無かった。ピエロに反対側の手でぐいと引き寄せられ、まりあは息を呑む。傍で鈍い音が聞こえ、顔を上げた。すぐ近くに熊の姿があった。これまでにない速さでの移動。熊が直に振り上げた斧を、ピエロが風船を持つ腕で受け止めていた。

 腕というより、骨だろうか。深々と刺さった斧に怯むことなく、ピエロはそのまま力を込めて刃先を押し返す。振り払った。斧と共に、スッパリ断たれたピエロの腕が宙を飛ぶ。血は出なかった。悲鳴さえも。
 先に落下したのは斧の方だ。硬直するまりあの目前に、続いてピエロの腕がドサリと落ちてくる。風船はその手に握られたまま、留まっていた。

 腕を失ったばかりだというのに、さして痛がる風もなく、ピエロはもう片方の手で取り出した短剣を丸腰の熊の眉間に突き刺した。こちらも出血も悲鳴も無し。

「やっぱり、効かないヨネェ」

 呆れたように呟きながら、ピエロは間を置かず熊の胴体に重い蹴りを喰らわせた。大きな図体が呆気なくその場に倒れ込む。意外な程に軽い衝撃。
 ピエロはその上に馬乗りになり、熊の両手を短剣で地面に縫い留めた。反撃を封じてから、熊の眉間のナイフを思いきり下方に引く。
 ビイイィッ、布を裂くような耳障りな音が立った。

 顔面から腹部の辺りまでをすっぱりと切り開かれた熊の姿は、さながらカエルの解剖実験か手術のそれだった。そこにピエロが無遠慮に手を突っ込み、中身を引きずり出す。
 毛に覆われた分厚い外皮の内側は、柔らかな綿だった。ピエロは次から次へとそれを取り出しては、辺りにばらまいていく。ふわり、ふわり、白雪の如くに大量の綿が周囲を舞い踊る様は、ある種幻想的ですらあった。

「……アハハ」

 ピエロの吊り上がった口端から、笑声が漏れる。最初は、微かに。次第に高揚感を得たのか、最後には高笑いになる。

「アハハハハッ!」

 爛々らんらんと輝く黒曜石の瞳。恍惚と愉悦の表情。狂気的に響き渡るピエロの哄笑にまりあは気圧され、茫然とその光景を眺めていた。

 やがて、全ての内蔵物を出しきるとピエロは手を止めた。紫の熊はすっかり毛皮だけになってしまい、まるで裏返しに敷かれた絨毯のよう。ペラペラの熊を短剣で地面にはりつけにしたまま、ピエロは満足げに鼻を鳴らして立ち上がった。

「これで、ようやく無力化出来たカナ。やれやれ、死なないというのも面倒なものだネ」

 指先に絡まる白い綿をぶんと払い、おもむろにこちらを振り向くピエロ。まりあは、びくりと竦んでしまった。いつの間にか隣に来ていたシフォンが、警戒心をあらわに威嚇して唸り声を上げる。
 ピエロは気にせず歩み寄ってくると、彼女の足元に落ちている自身の腕をひょいと拾い上げた。それが握る赤いハートの風船を、‪それ‬ごとまりあの方へと、今一度差し出す。

「ハイ、もう大丈夫だヨ」

 今は優しげな笑みが刻まれた、ピエロの素顔。先程の狂気のそれとのギャップが凄まじく、まりあは戸惑った。
 何よりも、目前に突き出された腕。努めてその切断面からは目を逸らしたまま、まりあは引き攣り笑いを浮かべて応じた。

「あ、ありがとう……」

 泣き出してもいいような場面だったが、あまりにも現実離れしている所為で恐怖心もまともに働いてはくれないようだ。
 恐る恐る紐に手を伸ばす。指先が触れた、刹那。風船が一層輝きを増したかと思いきや、すぅっと溶けるように光の粒子となって形を失い、まりあの元へと吸い寄せられて消えた。

 周囲の景色が一変した。
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