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本編
遠ざかる手、火花の散る夜
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アイフェスの熱狂から数週間。
「イグナイト」を取り巻く空気は、確実に変わっていた。
音楽番組の出演オファー、雑誌の表紙、SNSのフォロワー数。そのすべてが、彼らの知名度が「Bleach Heart」と共に、新人レースの先頭集団に躍り出たことを示している。
だが、その熱狂とは裏腹に、事務所の会議室の空気は重かった。
「——というわけで、次の活動期、前倒しする」
マネージャーのその一言に、ダンススタジオで振り入れを待っていたメンバーの間に緊張が走った。
「前倒しって……あと一ヶ月しかないじゃないですか」
ユウトが冷静にスケジュール帳を確認しながら、異議を唱える。
「無茶ですよ。レコーディングも、MV撮影も、振り入れも全部?」
「無茶は承知だ。だが、Bleach Heartの次のカムバが、ほぼ同時期にぶつかることがわかった」
その名が出た瞬間、スタジオの温度が数度下がった。
「あいつら、とんでもない物量でプロモーションかけてきてる。今のまま、デビュー曲の余韻だけで食いつないでたら……食われるぞ」
それは、事務所のプロデュース班が下した、「Bleach Heart」の勢いへの「恐怖」と「対抗心」の表れだった。
渡されたデモ音源と、振り付けの構成案を見て、チカは眉をひそめた。
(……なんだ、これ)
デビュー曲の、六人の個性を活かした爽やかさとは、まるで違う。
ビートは重く、アグレッシブ。ダンスも、シンクロ率の高さを要求される、テクニカルで「強い」振りが並んでいる。
「これ……俺たちの色じゃなくないスか?」
コマチが、珍しく素直な不満を口にする。
「ちょっと、Bleach Heartに寄りすぎてない?」
「寄せたんだよ!」
マネージャーの声が荒くなる。
「いいか、今のファンは『強さ』を求めてる! ギラギラしたパフォーマンスに熱狂してるんだ! ここで、いつも通りの『仲良しこよし』を見せても、インパクトで負ける!」
その言葉は、暗に、トキが作り上げてきた「イグナイト」の和やかなイメージを否定するものだった。
チカは、隣に立つトキの横顔を盗み見た。
「……わかりました」
トキは、静かに、だが、力強く頷いた。
「やります。……いや、やってやりますよ。俺たちが、その『強さ』ってやつでも、負けてないってこと、証明しましょう」
その目は、チカが知る「リーダー」の目だった。
「みんな、いいよな!」
「……トキさんが言うなら」
「やるしか、ないっしょ」
ソウタとコマチが頷き、ユウトとロクも覚悟を決めたように息を吐いた。
「チカ」
不意に、トキがチカを見た。
「うん」
チカは、短く頷いた。
あいつが「やる」と決めたなら、自分は、それ以上のクオリティで応えるだけだ。
そこからの日々は、熾烈を極めた。
難易度の上がったレコーディング。タイトなスケジュールで深夜まで続く、ダンスレッスン。
グループ全体の空気は、デビュー前とは比較にならないほど張り詰めていた。
そして、チカには、もう一つ……張り詰めている理由があった。
(……なんだよ、最近のあいつ)
あの日。
焼肉屋で、チカが乱暴に「あーん」をして、弟たちにからかわれた、あの日以来。
トキは、すっかり「元に戻って」いた。
いや、正確には、「手負いの獣」になる前の、「完璧なリーダー」に戻ってしまったのだ。
「チカ、今のターン、軸ブレてるよ。ほら、ここ、俺が支えるから」
「わっ……!」
レッスン中、ふらついたチカの腰を、トキが背後から、ごく自然に支える。
「……」
じろり、とチカが睨んでも。
「あはは、ごめんごめん。でも、支えないと危ないだろ? ほら、もう一回」
その声にも、腰に回された手にも、あの、絡めとるような熱はない。
それは純粋な「サポート」であり、「スキンシップ」だった。
寮の部屋で、チカの手を握りしめ、「いつか話す」と苦しそうに呟いた、あの弱々しい姿は、どこにもない。
ソラの名前が出ても、彼はもう指先を震わせたりはしなかった。
焦燥感に似た苛立ちを感じているのは、チカの方だった。
平和だ。
押し倒されることも、無理やりキスされることもない。
望んでいたはずの、穏やかな日々。
それなのに。
(……やけに遠く感じるのは、なんでなんだ)
あの日、チカは、確かに一歩、踏み込んだはずだ。
「信じろ」と、言ったはずだ。
なのに、トキは、また、あの完璧な「リーダー」の仮面を被り、チカが踏み込んだ分の距離を、きっちりと元に戻してしまった。
それは、チカにとって、あの夜の強引なキスよりも、ずっと残酷な「拒絶」のように感じられた。
深夜一時——
チカは、どうしても寝付けなかった。
新しい振り付けが、納得のいくレベルで体に馴染まない。
そして何より、あの完璧な笑顔で、自分との距離を測り続けるトキのことが、頭から離れない。
(……なんで、あんなに普通でいられるんだ)
あの日、アイフェスの裏で、ソラに「裏切りモン」と罵られた男。
寮の暗闇で、チカにすがり、「いつか話す」と約束した男。
そのすべてを、彼は、あの笑顔の下に、また完璧に塗り込めてしまった。
「……っ、クソ」
チカは、息苦しさに耐えかねて、スウェットのまま、そっと寮を抜け出した。
冷たい夜風が、火照った思考を冷やしてくれる。
あてもなく、近くのコンビニまで歩き、飲み物でも買おうか。
寮から少し離れた、人通りのない自動販売機が並ぶコーナー。そこで、チカは、最も会いたくない人影を見つけてしまった。
「……」
銀髪。派手な私服。
間違いない。「Bleach Heart」のソラだ。
彼は、自販機に寄りかかり、スマホをいじっていたが、チカの足音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「……あァ?」
面倒くさそうにチカを一瞥したソラは、すぐに相手が誰か認識し、ニヤリと口角を吊り上げた。
「なんだ。『イグナイト』の姫君じゃねえか。こんな夜中に、一人でお散歩か?」
「……」
チカは、関わり合いたくなくて、無視して通り過ぎようとした。
あの日、トキとソラが対峙していた時の、あの刺々しい空気。
この男は、トキの「地雷」だ。
「おい、シカトかよ。感じ悪ィな」
腕を掴まれる。
「っ、離せ」
「へえ。トキの前じゃあんなに大人しいのに、俺には随分、棘があんだな」
ソラは、面白そうにチカの顔を覗き込む。
「なあ、姫。お前、トキの『オトモダチ』なんだろ? あいつから、全部聞いてんだろ?」
「……は?」
チカは眉をひそめた。
「……フン、あの意気地なし。さすがに自分の口からは言えねぇか」
ソラは小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
メンバーを——トキを侮辱され、思わずカッと頭に血が上る。
ソラは一瞬の表情の変化に反応し、さらに嘲笑を深めた。
「は。さすが、人たらし。その様子だと、うまくアンタらの懐に入り込んだみてェだな。あの詐欺師は」
「……それ以上、うちのリーダーを悪く言ってみろ」
声を震わせて抗議するも、ソラは意にも介さない。
「あァ? どうしてくれるって?」
「……」
「何にも知らねェくせに、一丁前に庇い立てかよ。あんまり甘く見てると、痛い目見るのはアンタらの方だぜ?」
「あいつは俺たちを裏切ったり、しない」
「信じちゃってるワケ?」
「……ああ」
チカが真っ直ぐに、そう宣言すると、ソラはさっと顔色を変えた。
煽るようなニヤニヤとした笑いが消え、獰猛な目つきを剥き出しにして、苛立ちを隠そうともしない。
ソラは、手にしていた缶を力任せに握り潰す。残っていた中身がポタポタと沁み出す。
その、どこまでも暴力的な感情表現に、チカは無意識に身構えた。
「ハッ……おめでてェな。俺の見立てが悪かったってワケか? ……あんた、思ったより甘ちゃんなんだな。なーんか、ガッカリ」
「……? どういう意味だよ」
「ふん。アイツに聞きなよ」
支離滅裂だ。
チカには、ソラが何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。
これ以上、話していても仕方がない。
チカはその場を離れるべく、身体の向きを変えた。
ソラのしなやかな腕が伸び、チカの肩を掴む。
「……ッ」
思わず、バッ、と振り払う。
その形相を見たソラは、一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた下品な笑いを浮かべる。
「あー、そっか。知ってるぜ。アンタ潔癖症、なんだってな」
「お前に、関係、あるか?」
「別に。……まあ、ただ、その様子だとアイツも、苦戦してんだろうなァ」
「……」
「俺が先にアンタをモノにすれば、あいつも少しは態度を改めるかな? なあ、アンタ、どう思う」
ソラの力が、強引にチカを引き寄せた。
ドン、と自販機の硬い機体に背中を打ち付けられる。
ソラの、汗と、チカの知らない香水の匂いが、鼻をついた。
「……っ、やめろ……!」
ソラの顔が、チカの顔に、覆いかぶさってくる。
恐怖と、純粋な「嫌悪感」で、チカの全身が総毛立った。
(やだ、触るな、汚い……っ!)
必死で顔を背け、ソラの胸を押すが、体格差でびくともしない。
唇が、触れる——――。
「その汚え手ェ、チカから離せ!!!!」
静寂を切り裂く、獣の咆哮。
それが、トキの声だと認識するより早く。
凄まじい勢いで、ソラの体がチカの上から引き剥がされた。
「ぐっ……!?」
ソラが、数メートル先の地面に叩きつけられる。
チカの目の前に立っていたのは、見たこともない形相のトキだった。
息は荒く、肩で息をし、その目は、憎悪と殺意で、真っ赤に充血していた。
「……トキ……?」
「てめェ……っ!」
ソラが、悪態をつきながら立ち上がる。
トキは、チカに構うことなく、ソラに向かって、再び飛びかかった。
「この野郎……っ!!」
振りかぶられた拳。
それは、本気で相手を殴り潰そうとする、容赦のない一撃だった。
(——――ダメだ!!!)
チカは、反射的に動いていた。
ここで、トキが、ライバルグループのセンターを殴ったら?
スキャンダル。活動休止。最悪、解散。
築き上げてきたもの、すべてが、終わる。
「やめろ、トキ!!!!」
チカは、ソラを庇うように、二人の間に飛び込んだ。
ドン、という鈍い衝撃。
チカは、トキの硬い胸板に、全体重でぶつかっていた。
振り下ろされるはずだったトキの拳が、チカの顔の、数センチ手前で、ピタリと止まった。
「……は……っ、はぁ……っ」
トキの、荒い呼吸だけが響く。
その目は、まだ殺意に燃えたまま、信じられない、というように、チカを見下ろしていた。
「……チカ……?」
掠れた声。
「……なんで……っ、そいつを……」
「バカ!」
チカは、トキの胸倉を掴み、必死で叫んだ。
「よそのグループのセンター殴ってどうするつもりだ!? こんなことのために全部捨てる気かよ!?」
チカの、悲鳴にも似た声。
それは、ソラを守るものではなく、ただ、目の前の男の「未来」だけを案じる、必死の叫びだった。
「……あ……」
トキの目が見開かれた。
真っ赤に充血していた瞳から、殺意の熱が、急速に引いていく。
彼は、チカの必死の形相を、今、ようやく理解した。
——――俺を、守ったのか。
その場の空気が、一変する。
トキの怒りが、驚きと、それから、もっと別の熱っぽい感情に変わっていくのを、チカは肌で感じた。
「……は。……あはは!」
不意に、乾いた笑い声が響いた。
地面に座り込んだまま、ソラが、口の端の血を拭いながら、二人を見て笑っていた。
「……なるほどね」
ソラは、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、もうチカではなく、トキだけを、面白そうに、そして、どこか侮蔑するように、見つめている。
「……そういうことかよ」
ソラは、すべてを理解した。
トキの、あの獣のような形相。それは、ただのソラへの怒りじゃない。
もちろん、メンバーを傷つけられそうになった憤りとも、また別のものだろう。
「意外と嫉妬深いんだな」
「……」
トキは、何も答えなかった。
ただ、チカの腕を掴む手に、力がこもる。
「忘れんなよ、トキ。『それ』を最初に見つけたのは、この俺だってことを」
ソラは、吐き捨てるように呟くと、もう一度、今度は値踏みするようにチカを見た。
「せいぜい、大事に守ってやるんだな。……俺に、奪われる前に」
その言葉を残し、ソラは、今度こそ闇の中へと消えていった。
「……っ」
チカは、ソラの最後の言葉の意味がわからず、立ち尽くす。
掴まれた腕が、痛い。
「……帰るぞ」
隣で、地を這うような低い声がした。
チカが顔を上げると、そこには、ソラに向けていた殺意とも、チカの行動に驚いていた戸惑いとも違う、昏く、独占欲に濡れた「狼」の目が、チカを射抜いていた。
冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
寮までの、重く、静かな道のりが始まろうとしていた。
「イグナイト」を取り巻く空気は、確実に変わっていた。
音楽番組の出演オファー、雑誌の表紙、SNSのフォロワー数。そのすべてが、彼らの知名度が「Bleach Heart」と共に、新人レースの先頭集団に躍り出たことを示している。
だが、その熱狂とは裏腹に、事務所の会議室の空気は重かった。
「——というわけで、次の活動期、前倒しする」
マネージャーのその一言に、ダンススタジオで振り入れを待っていたメンバーの間に緊張が走った。
「前倒しって……あと一ヶ月しかないじゃないですか」
ユウトが冷静にスケジュール帳を確認しながら、異議を唱える。
「無茶ですよ。レコーディングも、MV撮影も、振り入れも全部?」
「無茶は承知だ。だが、Bleach Heartの次のカムバが、ほぼ同時期にぶつかることがわかった」
その名が出た瞬間、スタジオの温度が数度下がった。
「あいつら、とんでもない物量でプロモーションかけてきてる。今のまま、デビュー曲の余韻だけで食いつないでたら……食われるぞ」
それは、事務所のプロデュース班が下した、「Bleach Heart」の勢いへの「恐怖」と「対抗心」の表れだった。
渡されたデモ音源と、振り付けの構成案を見て、チカは眉をひそめた。
(……なんだ、これ)
デビュー曲の、六人の個性を活かした爽やかさとは、まるで違う。
ビートは重く、アグレッシブ。ダンスも、シンクロ率の高さを要求される、テクニカルで「強い」振りが並んでいる。
「これ……俺たちの色じゃなくないスか?」
コマチが、珍しく素直な不満を口にする。
「ちょっと、Bleach Heartに寄りすぎてない?」
「寄せたんだよ!」
マネージャーの声が荒くなる。
「いいか、今のファンは『強さ』を求めてる! ギラギラしたパフォーマンスに熱狂してるんだ! ここで、いつも通りの『仲良しこよし』を見せても、インパクトで負ける!」
その言葉は、暗に、トキが作り上げてきた「イグナイト」の和やかなイメージを否定するものだった。
チカは、隣に立つトキの横顔を盗み見た。
「……わかりました」
トキは、静かに、だが、力強く頷いた。
「やります。……いや、やってやりますよ。俺たちが、その『強さ』ってやつでも、負けてないってこと、証明しましょう」
その目は、チカが知る「リーダー」の目だった。
「みんな、いいよな!」
「……トキさんが言うなら」
「やるしか、ないっしょ」
ソウタとコマチが頷き、ユウトとロクも覚悟を決めたように息を吐いた。
「チカ」
不意に、トキがチカを見た。
「うん」
チカは、短く頷いた。
あいつが「やる」と決めたなら、自分は、それ以上のクオリティで応えるだけだ。
そこからの日々は、熾烈を極めた。
難易度の上がったレコーディング。タイトなスケジュールで深夜まで続く、ダンスレッスン。
グループ全体の空気は、デビュー前とは比較にならないほど張り詰めていた。
そして、チカには、もう一つ……張り詰めている理由があった。
(……なんだよ、最近のあいつ)
あの日。
焼肉屋で、チカが乱暴に「あーん」をして、弟たちにからかわれた、あの日以来。
トキは、すっかり「元に戻って」いた。
いや、正確には、「手負いの獣」になる前の、「完璧なリーダー」に戻ってしまったのだ。
「チカ、今のターン、軸ブレてるよ。ほら、ここ、俺が支えるから」
「わっ……!」
レッスン中、ふらついたチカの腰を、トキが背後から、ごく自然に支える。
「……」
じろり、とチカが睨んでも。
「あはは、ごめんごめん。でも、支えないと危ないだろ? ほら、もう一回」
その声にも、腰に回された手にも、あの、絡めとるような熱はない。
それは純粋な「サポート」であり、「スキンシップ」だった。
寮の部屋で、チカの手を握りしめ、「いつか話す」と苦しそうに呟いた、あの弱々しい姿は、どこにもない。
ソラの名前が出ても、彼はもう指先を震わせたりはしなかった。
焦燥感に似た苛立ちを感じているのは、チカの方だった。
平和だ。
押し倒されることも、無理やりキスされることもない。
望んでいたはずの、穏やかな日々。
それなのに。
(……やけに遠く感じるのは、なんでなんだ)
あの日、チカは、確かに一歩、踏み込んだはずだ。
「信じろ」と、言ったはずだ。
なのに、トキは、また、あの完璧な「リーダー」の仮面を被り、チカが踏み込んだ分の距離を、きっちりと元に戻してしまった。
それは、チカにとって、あの夜の強引なキスよりも、ずっと残酷な「拒絶」のように感じられた。
深夜一時——
チカは、どうしても寝付けなかった。
新しい振り付けが、納得のいくレベルで体に馴染まない。
そして何より、あの完璧な笑顔で、自分との距離を測り続けるトキのことが、頭から離れない。
(……なんで、あんなに普通でいられるんだ)
あの日、アイフェスの裏で、ソラに「裏切りモン」と罵られた男。
寮の暗闇で、チカにすがり、「いつか話す」と約束した男。
そのすべてを、彼は、あの笑顔の下に、また完璧に塗り込めてしまった。
「……っ、クソ」
チカは、息苦しさに耐えかねて、スウェットのまま、そっと寮を抜け出した。
冷たい夜風が、火照った思考を冷やしてくれる。
あてもなく、近くのコンビニまで歩き、飲み物でも買おうか。
寮から少し離れた、人通りのない自動販売機が並ぶコーナー。そこで、チカは、最も会いたくない人影を見つけてしまった。
「……」
銀髪。派手な私服。
間違いない。「Bleach Heart」のソラだ。
彼は、自販機に寄りかかり、スマホをいじっていたが、チカの足音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「……あァ?」
面倒くさそうにチカを一瞥したソラは、すぐに相手が誰か認識し、ニヤリと口角を吊り上げた。
「なんだ。『イグナイト』の姫君じゃねえか。こんな夜中に、一人でお散歩か?」
「……」
チカは、関わり合いたくなくて、無視して通り過ぎようとした。
あの日、トキとソラが対峙していた時の、あの刺々しい空気。
この男は、トキの「地雷」だ。
「おい、シカトかよ。感じ悪ィな」
腕を掴まれる。
「っ、離せ」
「へえ。トキの前じゃあんなに大人しいのに、俺には随分、棘があんだな」
ソラは、面白そうにチカの顔を覗き込む。
「なあ、姫。お前、トキの『オトモダチ』なんだろ? あいつから、全部聞いてんだろ?」
「……は?」
チカは眉をひそめた。
「……フン、あの意気地なし。さすがに自分の口からは言えねぇか」
ソラは小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
メンバーを——トキを侮辱され、思わずカッと頭に血が上る。
ソラは一瞬の表情の変化に反応し、さらに嘲笑を深めた。
「は。さすが、人たらし。その様子だと、うまくアンタらの懐に入り込んだみてェだな。あの詐欺師は」
「……それ以上、うちのリーダーを悪く言ってみろ」
声を震わせて抗議するも、ソラは意にも介さない。
「あァ? どうしてくれるって?」
「……」
「何にも知らねェくせに、一丁前に庇い立てかよ。あんまり甘く見てると、痛い目見るのはアンタらの方だぜ?」
「あいつは俺たちを裏切ったり、しない」
「信じちゃってるワケ?」
「……ああ」
チカが真っ直ぐに、そう宣言すると、ソラはさっと顔色を変えた。
煽るようなニヤニヤとした笑いが消え、獰猛な目つきを剥き出しにして、苛立ちを隠そうともしない。
ソラは、手にしていた缶を力任せに握り潰す。残っていた中身がポタポタと沁み出す。
その、どこまでも暴力的な感情表現に、チカは無意識に身構えた。
「ハッ……おめでてェな。俺の見立てが悪かったってワケか? ……あんた、思ったより甘ちゃんなんだな。なーんか、ガッカリ」
「……? どういう意味だよ」
「ふん。アイツに聞きなよ」
支離滅裂だ。
チカには、ソラが何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。
これ以上、話していても仕方がない。
チカはその場を離れるべく、身体の向きを変えた。
ソラのしなやかな腕が伸び、チカの肩を掴む。
「……ッ」
思わず、バッ、と振り払う。
その形相を見たソラは、一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた下品な笑いを浮かべる。
「あー、そっか。知ってるぜ。アンタ潔癖症、なんだってな」
「お前に、関係、あるか?」
「別に。……まあ、ただ、その様子だとアイツも、苦戦してんだろうなァ」
「……」
「俺が先にアンタをモノにすれば、あいつも少しは態度を改めるかな? なあ、アンタ、どう思う」
ソラの力が、強引にチカを引き寄せた。
ドン、と自販機の硬い機体に背中を打ち付けられる。
ソラの、汗と、チカの知らない香水の匂いが、鼻をついた。
「……っ、やめろ……!」
ソラの顔が、チカの顔に、覆いかぶさってくる。
恐怖と、純粋な「嫌悪感」で、チカの全身が総毛立った。
(やだ、触るな、汚い……っ!)
必死で顔を背け、ソラの胸を押すが、体格差でびくともしない。
唇が、触れる——――。
「その汚え手ェ、チカから離せ!!!!」
静寂を切り裂く、獣の咆哮。
それが、トキの声だと認識するより早く。
凄まじい勢いで、ソラの体がチカの上から引き剥がされた。
「ぐっ……!?」
ソラが、数メートル先の地面に叩きつけられる。
チカの目の前に立っていたのは、見たこともない形相のトキだった。
息は荒く、肩で息をし、その目は、憎悪と殺意で、真っ赤に充血していた。
「……トキ……?」
「てめェ……っ!」
ソラが、悪態をつきながら立ち上がる。
トキは、チカに構うことなく、ソラに向かって、再び飛びかかった。
「この野郎……っ!!」
振りかぶられた拳。
それは、本気で相手を殴り潰そうとする、容赦のない一撃だった。
(——――ダメだ!!!)
チカは、反射的に動いていた。
ここで、トキが、ライバルグループのセンターを殴ったら?
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「……は……っ、はぁ……っ」
トキの、荒い呼吸だけが響く。
その目は、まだ殺意に燃えたまま、信じられない、というように、チカを見下ろしていた。
「……チカ……?」
掠れた声。
「……なんで……っ、そいつを……」
「バカ!」
チカは、トキの胸倉を掴み、必死で叫んだ。
「よそのグループのセンター殴ってどうするつもりだ!? こんなことのために全部捨てる気かよ!?」
チカの、悲鳴にも似た声。
それは、ソラを守るものではなく、ただ、目の前の男の「未来」だけを案じる、必死の叫びだった。
「……あ……」
トキの目が見開かれた。
真っ赤に充血していた瞳から、殺意の熱が、急速に引いていく。
彼は、チカの必死の形相を、今、ようやく理解した。
——――俺を、守ったのか。
その場の空気が、一変する。
トキの怒りが、驚きと、それから、もっと別の熱っぽい感情に変わっていくのを、チカは肌で感じた。
「……は。……あはは!」
不意に、乾いた笑い声が響いた。
地面に座り込んだまま、ソラが、口の端の血を拭いながら、二人を見て笑っていた。
「……なるほどね」
ソラは、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、もうチカではなく、トキだけを、面白そうに、そして、どこか侮蔑するように、見つめている。
「……そういうことかよ」
ソラは、すべてを理解した。
トキの、あの獣のような形相。それは、ただのソラへの怒りじゃない。
もちろん、メンバーを傷つけられそうになった憤りとも、また別のものだろう。
「意外と嫉妬深いんだな」
「……」
トキは、何も答えなかった。
ただ、チカの腕を掴む手に、力がこもる。
「忘れんなよ、トキ。『それ』を最初に見つけたのは、この俺だってことを」
ソラは、吐き捨てるように呟くと、もう一度、今度は値踏みするようにチカを見た。
「せいぜい、大事に守ってやるんだな。……俺に、奪われる前に」
その言葉を残し、ソラは、今度こそ闇の中へと消えていった。
「……っ」
チカは、ソラの最後の言葉の意味がわからず、立ち尽くす。
掴まれた腕が、痛い。
「……帰るぞ」
隣で、地を這うような低い声がした。
チカが顔を上げると、そこには、ソラに向けていた殺意とも、チカの行動に驚いていた戸惑いとも違う、昏く、独占欲に濡れた「狼」の目が、チカを射抜いていた。
冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
寮までの、重く、静かな道のりが始まろうとしていた。
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