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「もう一軒行こう、志津馬君」
モモ&ココを辞してすぐ、部長は梯子をする勤め人のような口調で言った。
河岸を変えようと言う上司に対し俺は、
「未成年が行けないところはやめてくださいよ? ていうかもう暗いですし、帰った方が良くないですか?」
顔を上げ、透明な日覆いの先を見ながら提案する。空には雲が垂れこめ、夜の帳は一層深い色に染まっていた。アーケードの外の路地を見てみても、通行人の顔が判別できない程度には夜が深まっている。
「……どうしてお店の中から出た後ってこんなに新鮮な景色なのかしら?」
ハーマイオニーが言った。
中の往来に目をやると、入店する前より人出があることに気づく。テニスバッグを肩にかけた学生。早足のサラリーマン。八百屋で値切り中のおばさん。柴犬に散歩させてもらっているおばあさん。目に映る人のほとんどが、自分の居場所に帰るため行動しているように感じた。
いくら門限が決まってない我が家と言えど、フライパンを食らうだろうか。そう考えてしまうほどには時間が遅い。とは言っても、普段、暗くなると烏のように帰る俺の感覚で遅いなので、普通の学生なら、どこか寄って帰ろうか、と思わなくもない、そんな程度の遅さだ。
だらだら詰まんねえ駄文並べてねえではっきり時間を書けば済むだろうが四流作家が……(今そう思ったあなたはナカーマ?)。
などと雑多なことを考えていると、オネエがやりそうな仕草で近づいてきた。
「今日は……帰りたくない……」
親指を噛むフリをしながら、あからさまな品を作って胸板にそっと手を置いてくる。
「帰れ。今すぐ」
即答した。クネクネすんな。芋虫か。
そんな拒否反応を迷わず口にしたせいか、またぞろ態度が一変した。
「まあまあそう言わず、次が最後だ。行けばすぐ終わるから」
二次会に行くようなノリで背中をたたいてくる。なにそのお酌する時みたいな言葉。ぐいっといけってこと? こうきゅうっと? ……はぁ、わかりましたよ。付き合います課長に。じゃなかった部長に。
「はいはい、じゃあ行きましょうか。……ん?」
ヒ素の入ったスープを、皿の底まで舐める決意を固めていたら、ボーイッシュな美少――美少年が現れた。
美少――美少年は軽く手を上げて、人懐こい笑顔を振りまきながら近づいてくる。行きずりの女子高生や妙齢の女性が、それを見て幾人も振り返った。メスライオン。
図らずも、ミニチュアダックスフント(シェーデットクリーム)が飛びついてくるところを思い浮かべた。遊んで遊んでー! って(こなたPの好き)。
「禎生じゃん。奇遇だね、こんなとこで会うなんて。もしかしてデート?」
弾むように話しかけてくるミニチュアダックス、もとい悠。え、なに? ごめん、ちょっと最後の方、聞き取れなかったんだけど、なんて? ニート? ひでえなお前。一昨日まで部活入らずにソッコー家に帰ってたからって、ニートはないだろうよ。がははははは。
「ちげえよ、一応部活中だ」
ふざけんな、とツッコミを入れる。冗談でもそんな冗談じゃない冗談を言うもんじゃない。だって、もう一度言ったらスクリュードライバーを決めたくなっちゃうから。
「へえ、てことは……」
言いながら部長に顔を向ける。その意図を察し、
「ああ、部長だ」
とりあえず紹介する。
次いで向き直り、
「部長、こいつは悠って言って、俺のクラスメイトです」
と同じく紹介したのだが例に違わず、
「………………」
はい、石です。また石になってます。もう僕は知りません。勝手にしてください。
「悠、この人は、と紹介したいところなんだが……すまん、俺には部長としか言えん」
頭を押さえながら言った。
すると、神妙な顔になって部長を見やり、
「そっか、やっぱり……」
(やっぱり……?)
悠はおもむろに部長に近づいていき、
「すみません紹介が遅れて。僕、春風って言います」
人が良さそうな表情で微笑む。まるで営業スマイル。切り替え速いなお前。一端の営業マンか。ていうか別に紹介遅れてないだろ。普通だよ普通。どこのジェントルメンだ。
「はい、よろしくお願いします……」
珍しく歯切れの悪い調子で部長は答えた。
「いやあ、やっぱり違いますね。近くで見るとさらに映えるっていうか……今気づきました」
よくわからないことを言い出すミニチュア。一人納得し、頷いている。一瞬ナンパでも始めたのかと思ったが、さすがにそれはないだろうと思い直し、声を掛けることにした。
「何言ってんだお前……」
そう声に出すと、申し訳なさそうな笑顔を作り、
「ごめん、ちょっと訊きたいことがあって」
少し話をさせてよ、と言う。どうやらジャーナリストとしての用向きがあるらしい。おそらくは頼んだ案件だろう。それなら少し黙っていた方が賢明かもしれない。
「そうか。じゃあまあ、どうぞ」
成り行きに従いそう言うと、悠は笑顔を作ってから部長に顔を向けた。
「えっと……ありがとうございます」
俯きがちに漏らす。
「七緒さん、ですよね?」
確認するように訊いた。……七緒。部長の苗字だったな。ゆく先々で耳にしたあだ名は、名前から付けられたものだったのだろうか。
それにしても、さすがジャーナリストを自負するだけはある。一日で談話部の部長という情報から名前を調べ上げてくるのだから。俺なんて、はぐらかされてばかりで猫好きくらいしかわからなかった。
と頭を回すくらい無言でいた部長は、やっと動きを見せた。
「……ええ、そうです」
目も合わせず言葉だけで肯定する。
「いつもと髪型違うし、眼鏡掛けてるからよくわかりませんでした」
と話を続けると、
「少し、気分転換しようと思って……」
俯きがちに答える。
普段と髪型が違う。眼鏡を掛けていたからよくわからなかった。普段はポニーテールではなく、眼鏡も掛けていないということ。それはつまり……。
「へえ。部長って、いつもは違う髪型なんですか。どんな髪型なんです?」
ことさら明るく話しかけた。とにかく軽い調子で。
その声に、水を打ったような気持ちの悪い沈黙が場に流れた。どんな言葉を発そうと、もはや取り返しのつかない暴言を吐いたような。
俺は、部長が声を聞き、肩を震わせたのを見逃さなかった。突如、激しい糾弾を受けた咎人のように、小刻みに戦いたのを見落としはしなかった。
俯き、縮こまり、何かを恐れ視線を落としている。悪徳を見咎められ、罪過を暴かれた詐欺師のように。悪事を見破られ、罪咎を問われた犯人のように。
悠は目を見開いている。俺の行動が理解できない、という唖然とした面持ちで。
無理もないだろう。それまで親密にしていた人同士が、いきなり不穏な空気に染まれば何事かと思うもの。悠の反応は当然である。
天使が通り、どうすべきかと考えあぐね苦悩したが、手を差し伸べるらしい本当の天使などここにはおらず、ただただ無言の重圧が肩に伸し掛かるのみだった。それもそのはず、天使は過ぎ去った後であり、およそ不可思議な現象を残していっただけなのだから。
ふと、横顔から雫が垂れ落ちた。地面に落ちたそれは、じんわりと染みを作り、円を描いて広がっていく。波紋のように速くはなくとも、じわじわと確実に辺りを侵して影を落とすように。その様はまるで、ゆっくりと時間をかけて行う絞殺のようだ。
少し過ぎたかもしれない、そう思った。悠に任せて、話し合うだけでよかったかもしれない、と。
罪悪感に苛まれていると、突然、早足で近づいてきた。
「ちょっと……!」
という険のある物言いと表情で、制服の裾をつかみ、そのまま引っ張って行く。
抵抗虚しく、裏路地の入り口までずるずると引っ立てられ、詰め寄るようにして訊かれた。
「いきなりどうしたのさ?」
信じられない、という顔。非難するような。
「いや……あまりに違和感があったから、我慢できずに質問しただけなんだけど……」
言いつつ部長を見た。スカートの裾をつかみ、溢れ出す感情に耐えるように下を向いている。
悠も顔を向け、それからこちらへ戻して、
「どこが?」
と訊いてくる。話が空転しているのにもどかしさを感じながらも、
「どこって……そもそも部長はあんな喋り方じゃないんだって。あんな清楚系お嬢様みたいな。お前は知らないのかもしれないけど、あれはふざけてんだよ」
まっすぐ目を見て答えた。すると今度は射抜くように見、おもむろに口を開いて、
「もしかしてふざけてる?」
なんて言った。至極真面目な顔で。それに少なからず苛立ちを覚え、
「違うって。ふざけてんのはあの人だよ。あの喋り方もおふざけでやってんだからな」
言い返すと、間違いを正す時の表情になり、
「何言ってるんだよ。七緒さんはいつも、さっきみたいな雰囲気じゃないか」
知ってるでしょ? と、まるでその知識を当たり前に有しているように引き合いに出す。
さっきみたいな雰囲気とは、おどおどして、人見知りするような雰囲気のことだろうか。それがいつも、ということは――。
「お前こそ何言ってんだ。部長はもっと偉そうで自分勝手だぞ? 俺がどれだけ部長のおふざけに振り回されたか知らねえだろ」
感情の昂ぶりに任せて言うと、
「やっぱふざけてるでしょ? 禎生。でもそれ笑えない」
全否定された。呆れの混じった声で。
「だからふざけてねえって。ふざけてるのはあの人だ。実際に体験した俺が言うんだから間違いない」
眉根に力を入れて言い返す。
一時視線を合わせると、急に冷静な顔つきになり、
「……冗談じゃなく?」
取り合う気になったらしい。信用を得るべく、視線を合わせ、できるかぎり誠実に返答した。
すると、腕を組んで首を傾げ、難しい顔をする。
「うーん。でも、今日、聞き込みした限りじゃ、そんな話、一度も出てこなかったからなあ……」
「どういうことだ?」
やっと解放されたという感じで、息を吐きながら少し距離を取ると、
「ほとんどの人が、清楚で可憐な美人だって」
「清楚?」
思わず訊き返した。
「あの部長が?」
「うん……」
「あの部長がか?」
「だからそうだって」
いい加減しつこいと言いたいらしく、突き放すように続ける。
「怒ったり、何かに当たるところなんて見たことがないって」
聞き込みの結果だろう。だが矛盾を感じずにはいられず、腑に落ちないことが多い。
「真面目でいつも冷静。相手の話を真剣に聞く人で、教養のある人とか」
令名嘖々。無意識に口が動いた。
「お前こそ冗談だろ」
「なんでさ!?」
心外な顔で声を上げる。
俺は未だに項垂れている部長を見て、
「いや、だってよ……」
口ごもる。ああ言ったものの、こいつが自分の調べたことについて嘘をつくとは思えない。ノートまで作るようなやつだ。収集した情報が虚偽や間違いならいざ知らず、自分から棒に振るなんてことはしないだろう。そう考えると……。
「じゃ、見てみる? 僕のノート」
鞄を掲げて勝利を誇示してきた。ここまで言っておいて嘘でした、なんて言うやつなら頼ったりしない。頭ではわかってるんだ。悠の言ってることが、ほぼ間違いなく事実だってことを。校内の人間から集めた情報なんだから。部長は清楚で、可憐で、美人で、絵に描いたような常識人で、俺が見たものとは正反対。そして名前は七緒水月。それが皆の知ってる事実なんだろう。それでも、そう簡単に信じられるわけがない。俺は今の今まで、そんな人は知らなかったんだから。
「七緒って誰だよ……」
負け惜しみのように言った。
「七緒さんは七緒さんだよ。校内で評判の女子」
聞きながらまた部長の方を見る。あの部長はふざけているわけじゃない。じゃあ今までの振る舞いは何だったのか。評判ってことは大多数の人が知ってるってことだ。なら、単に俺が知らなかっただけってことなのか。
「……禎生?」
ひとしきり無言でいたせいか、名を呼ばれた。
視線を戻し、
「とりあえず、今日調べた事を聞かせてくれ。詳しく」
そう頼むと、部長を意識し始めた。一瞬だけ尻目に見て、
「……場所変えたほうが良くない? それに、今日だけじゃ大したことはわからなかったけど」
本人がいることを気にしているらしい。
「じゃ、見せてくれ。自分で読むから」
頼むと、戸惑いの表情を浮かべたが、それでもノートを取り出してくれた。
「いいけど……少し落ち着いたら?」
その言を無視してノートを受け取り、開いて、指の腹で捲っていった。
「どのへん?」
「最初の方だよ」
悠には目もくれず、ページを探す。
七緒……七緒……あった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
氏名 七緒水月〈ななおみづき〉
クラス 1ーC
成績 上の上(正確な順位は調査中)
身長 163cm(目測)
体重 調査中
スリーサイズ 調査中
誕生日 8月25日
髪型 ロング
家族 父と母(兄弟・姉妹は調査中)
趣味 読書(休み時間はいつもそうしているらしい)
特技 調査中
癖 調査中
備考 コンタクト装用(学校ではコンタクト。家では眼鏡)・学級委員を担当
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(……え?)
プロフィールを見ていたら、気になる一文を目の当たりにした。
「えっと……これ、ホント?」
それを指さして訊く。
「勝手に調べたものだから公式じゃないけどね。でも公式くらいの自負は持ってるよ」
(部長が……? いや、でも……)
と呆気に取られていたら、低い声で話し始めた。
「これといって深い付き合いの友達はいないみたい。付き合ってる人もいないらしいよ。先生からの評判は品行方正・文武両道・才色兼備とかベタなのばっかだね。生徒からは、いい人・家柄が良さそう・どんな人にも平等で好印象・清楚で可憐・嫁にほしい・彼女になってほしい・クンカクンカ? したい・美人・レベル高すぎて比べられそうだから友達にはなりたくない・美人でも調子に乗ってないからまだまし。……今のところこれくらいかな」
続けて、中学の時も同じように有名だったこと、加えて、数日かければさらに多くの情報を集められることを話した。
時々刻々と情報が入り、空で言うのに感心しながらノートを返して、
「じゃ、ホントにホントってこと?」
やっぱり信じられそうにない、と訊くと、目の端でこちらを見やり、
「何回訊く気?」
キレ気味に返答してきた。ここまで感情を露わにしているのを見るのは初めてだ。だがそれは、悠の言っていること、ノートの内容が事実であることの裏付けとも取れ、俺の見てきた部長が、普段の七緒水月とかけ離れていることの事実も示唆している。
現段階でわかったことは二つ。格好(髪型・眼鏡)が違う。雰囲気・素行が違う。い ずれも、普段と、俺の見た彼女の相違点だ。
そこで浮かぶ疑問は三つ。なぜ格好・素行が変わったのか。なぜ変わらなければならなかったのか。変わったのは意図的か否か。
あと不明な点は……。
「禎生、ちょっと中に入ろうよ」
突然、言いだした。モモ&ココを指して。
「なんで?」
「いいから」
質問を無視して店の方へ向かう。
どうやら、二人だけで話がしたいらしい。
後ろ暗いものを感じながら、後に続いた。
◆
店の片隅。
子猫や子犬がショーケースの中で塞ぎ込んでいるように見えるくらいには、先ほど出会った時に比べ、俺たちを包む空気は沈んでいた。
悠は、丸まって目を閉じている猫を見ている。
ふと、神妙な面持ちで、
「談話部なんだけど……なかった」
驚くべきことを抜かした。
「は!? いやさっきお前――」
「談話部のことは、新設される部を三枝先生に訊いたとき教えられたんだけど、今日、生徒会に訊いたら、そんな部はない、って言われたんだ。それで三枝先生に確認したら、七緒さんが作ろうとしてる部だった、勘違いしてた、って謝られた」
「三枝先生?」
問い返すと、こちらに向き直り、
「同好会も、そんな名前のものはないって」
疑念に満ちた顔色で続ける。談話部が存在しなかったことが気になるのだろう。だが俺は先生の方が気になった。
先生がそう言ったということは、入部を報告した時、何も言わなかったのはどういうわけなのか。部が存在しないことをわかっていて報告を受けたのか。だとしたら、それはなぜだ。
「僕、禎生が七緒さんにお願いされて同好会設立の会員候補になったのかと思ったんだけど、その様子だと違ったみたいだね」
予想と事実の相違を確認しようとしているらしい。
「ああ、自分から部員になるって言った」
頷き、考えた。
入部届は部長に手渡した。それで部がないとすると、部長は届を提出しなかった、そもそも提出する気など始めからなかった、ということになる。俺は存在しない部への入部届を出したということ。それを先生に報告すれば、部がないことは知れるはず。ということは、やはり先生は、わかっていて報告を受けた、そういうことだろう。
また、部長が嘘が露見しないよう動いていたのだとすれば、俺が先生に報告することを阻止しようとしないのはおかしい。このことから、部長は報告のことを知らなかったのだと推測できる。
しばらく黙っていると、「ねえ」と言った。
「僕、考えてみたんだけど……禎生、だまされてるんじゃない? 七緒さんの普段を考えるとそうは思えないけどさ。でも、今日禎生が見た七緒さんはいつもと違ったんでしょ? だったら、それが七緒さんの本性で、禎生は、その七緒さんにだまされてるって、そう考えられないかな?」
懇懇と言い、身を案じるように見つめてくる。もしかしたら悠は、俺がだまされたことを少なからず自分のせいだと思っているのかもしれない。
「お前の言う、普段の部長が猫かぶってると?」
「うん。僕なりの推論でしかないけど……」
つまり、部長は悪い人物で、俺を利用している、と言いたいらしい。
「禎生に頼まれて部長さんのことを調べている時、七緒さんと会って話したんだ。その時も、あの髪型でメガネかけててさ。七緒さんだと知らずに話しかけたんだ。で、質問した。『談話部について調べてるんですけど、七緒水月さんのことどう思いますか?』って。こういう時、普通ならどう答えると思う?」
「まあ、私が七緒ですけど、とか」
自分のことを訊かれれば、そう答えるのが普通だろう。
「だよね。けど、七緒さんは、そう言わなかった。『興味ありません』って言っただけで、自分だとは言わなかったんだよ」
訴えかけるように力説する。それを見ていると、このことも嘘偽りじゃないと思えてくる。
「なんで嘘ついたんだ?」
それだけじゃない。部長は髪型を変え、眼鏡を掛けてまで正体を隠そうとした。なぜそこまでする必要があったのか。
「わからない。わからないけど、あまり褒められたことじゃないよね」
だましきるなら別だが、校内で名の知れている部長はそうはいかない。すぐにばれるだろう。なら、折を見て正体を明かす気でいた、ということなのか。
「部を作るために俺をだましたってことか」
でも、部を作るためにだましたのに、自分から辞めていいだなんて言うだろうか。他に目的があるならわかるが。
絡まった糸を、なんとか解いて端緒を開こうとしていると、
「理由はわからないけど、辞めた方がいいんじゃない?」
窺うように言ってきた。それを聞いて思う。……辞める、か。部長には辞めてもいいと言われたが、どうするべきか。客観的に見れば、辞めるべきかもしれないが……。
「だまされてると思うなら、早く辞めた方がいいよ。言いにくいなら、僕が七緒さんに言うこともできるけど……」
保護者のごとく心配する悠を見て、図らずも笑いそうになってしまった。
「いや、大丈夫だ。それくらいは自分で言える」
そこまでされてしまったら、ただのヘタレだ。それに心配しすぎだろう。
答えると、「そっか」と少し肩を落とした様子になるも、
「とりあえず、あまり待たせるのも悪いから戻ろうか」
いつもの表情でそう言った。
◆
部長のところへ戻ってすぐ、悠が前に出た。
「すみません。待たせてしまって」
愛想笑いを作り、腰の低いところを見せる。
部長は悠の顔を見て、
「いえ、大丈夫です……」
しおらしく笑う。スカートの前で軽く手を握り、ほんのりと赤い目を垂れさせている。
それを確認してか、悠はぎこちなく喋りだした。
「えーっと……、禎生って変わってるから、相手するの大変でしょう? さっきもあんなこと言ったりして……」
「そんなことありません」
様子見の言葉に、軽く首を振って否定する。すると気まずそうな顔で、
「そ、それならいいんですけど……。ま、まあ、禎生のことで何かあったら、僕に相談してください」
悠は部がないこと、部長が正体を偽ったことを知らないつもりで話を進めているようだ。俺が自分でなんとかする、と言ったからだろう。
一思案していると、
「仲がいいんですね」
人形のような端正な笑み。その顔が、また泣き出しそうに見えたのは、自分だけだろうか。
「ははは……、それほどでもないですよ。ただの取引相手みたいなものだし。……じゃあ、僕、親に買い出し頼まれてるんで」
距離感のある照れ笑いを見せ、こちらに顔を向けた。
「じゃあまた」
ごめんね、と言うように手を挙げる。
「お、おう……」
そのせいか少し上ずってしまった。
返事をすると、悠は背を向けて歩き始める。
「さようなら」
首筋に風を感じながら、人混みに紛れていく影をひとしきり見つめた。
お互い顔を合わせることもなく、地面を見つめたり、よそを向いたりする。それを数十秒は続けたかという頃、遂にこちらが耐え切れなくなって、口を開いた。
「えっと……部長、これからどうします? もう遅いですし、帰りますか?」
口が錆びているのかと思った。それだけ、目の前のことが受け入れられていない、ということかもしれない。
部長はゆっくりとこちらを向き、どこか思いつめた様子で見上げてきて、
「はい……悪いんですけど、今日はこれで帰ります。……ごめんなさい」
謝りながら頭を下げてくる。それを見て、
「わかりました。じゃあここで」
仕方ないか、そう思いながら答えると、
「……ごめんなさい、さようなら」
今度は慌てたふうに言って、頭を上げる前に歩き始めた。今まで全く違和感のなかった後ろ髪を揺らしながら。まるでそれを引かれ、無理矢理に振り解いて行くように。
俯いたまま逃げるように足早に去って行き、そのまま人混みに紛れて見えなくなってしまう。
アーケードの日覆い越しに低い空を見つめ、ふう、と一つ息を吐いてから、
「どうすっかなあ……」
杳として明かりの差さない鈍色《にびいろ》に柵のような蟠りを覚えて、独り言ちた。
モモ&ココを辞してすぐ、部長は梯子をする勤め人のような口調で言った。
河岸を変えようと言う上司に対し俺は、
「未成年が行けないところはやめてくださいよ? ていうかもう暗いですし、帰った方が良くないですか?」
顔を上げ、透明な日覆いの先を見ながら提案する。空には雲が垂れこめ、夜の帳は一層深い色に染まっていた。アーケードの外の路地を見てみても、通行人の顔が判別できない程度には夜が深まっている。
「……どうしてお店の中から出た後ってこんなに新鮮な景色なのかしら?」
ハーマイオニーが言った。
中の往来に目をやると、入店する前より人出があることに気づく。テニスバッグを肩にかけた学生。早足のサラリーマン。八百屋で値切り中のおばさん。柴犬に散歩させてもらっているおばあさん。目に映る人のほとんどが、自分の居場所に帰るため行動しているように感じた。
いくら門限が決まってない我が家と言えど、フライパンを食らうだろうか。そう考えてしまうほどには時間が遅い。とは言っても、普段、暗くなると烏のように帰る俺の感覚で遅いなので、普通の学生なら、どこか寄って帰ろうか、と思わなくもない、そんな程度の遅さだ。
だらだら詰まんねえ駄文並べてねえではっきり時間を書けば済むだろうが四流作家が……(今そう思ったあなたはナカーマ?)。
などと雑多なことを考えていると、オネエがやりそうな仕草で近づいてきた。
「今日は……帰りたくない……」
親指を噛むフリをしながら、あからさまな品を作って胸板にそっと手を置いてくる。
「帰れ。今すぐ」
即答した。クネクネすんな。芋虫か。
そんな拒否反応を迷わず口にしたせいか、またぞろ態度が一変した。
「まあまあそう言わず、次が最後だ。行けばすぐ終わるから」
二次会に行くようなノリで背中をたたいてくる。なにそのお酌する時みたいな言葉。ぐいっといけってこと? こうきゅうっと? ……はぁ、わかりましたよ。付き合います課長に。じゃなかった部長に。
「はいはい、じゃあ行きましょうか。……ん?」
ヒ素の入ったスープを、皿の底まで舐める決意を固めていたら、ボーイッシュな美少――美少年が現れた。
美少――美少年は軽く手を上げて、人懐こい笑顔を振りまきながら近づいてくる。行きずりの女子高生や妙齢の女性が、それを見て幾人も振り返った。メスライオン。
図らずも、ミニチュアダックスフント(シェーデットクリーム)が飛びついてくるところを思い浮かべた。遊んで遊んでー! って(こなたPの好き)。
「禎生じゃん。奇遇だね、こんなとこで会うなんて。もしかしてデート?」
弾むように話しかけてくるミニチュアダックス、もとい悠。え、なに? ごめん、ちょっと最後の方、聞き取れなかったんだけど、なんて? ニート? ひでえなお前。一昨日まで部活入らずにソッコー家に帰ってたからって、ニートはないだろうよ。がははははは。
「ちげえよ、一応部活中だ」
ふざけんな、とツッコミを入れる。冗談でもそんな冗談じゃない冗談を言うもんじゃない。だって、もう一度言ったらスクリュードライバーを決めたくなっちゃうから。
「へえ、てことは……」
言いながら部長に顔を向ける。その意図を察し、
「ああ、部長だ」
とりあえず紹介する。
次いで向き直り、
「部長、こいつは悠って言って、俺のクラスメイトです」
と同じく紹介したのだが例に違わず、
「………………」
はい、石です。また石になってます。もう僕は知りません。勝手にしてください。
「悠、この人は、と紹介したいところなんだが……すまん、俺には部長としか言えん」
頭を押さえながら言った。
すると、神妙な顔になって部長を見やり、
「そっか、やっぱり……」
(やっぱり……?)
悠はおもむろに部長に近づいていき、
「すみません紹介が遅れて。僕、春風って言います」
人が良さそうな表情で微笑む。まるで営業スマイル。切り替え速いなお前。一端の営業マンか。ていうか別に紹介遅れてないだろ。普通だよ普通。どこのジェントルメンだ。
「はい、よろしくお願いします……」
珍しく歯切れの悪い調子で部長は答えた。
「いやあ、やっぱり違いますね。近くで見るとさらに映えるっていうか……今気づきました」
よくわからないことを言い出すミニチュア。一人納得し、頷いている。一瞬ナンパでも始めたのかと思ったが、さすがにそれはないだろうと思い直し、声を掛けることにした。
「何言ってんだお前……」
そう声に出すと、申し訳なさそうな笑顔を作り、
「ごめん、ちょっと訊きたいことがあって」
少し話をさせてよ、と言う。どうやらジャーナリストとしての用向きがあるらしい。おそらくは頼んだ案件だろう。それなら少し黙っていた方が賢明かもしれない。
「そうか。じゃあまあ、どうぞ」
成り行きに従いそう言うと、悠は笑顔を作ってから部長に顔を向けた。
「えっと……ありがとうございます」
俯きがちに漏らす。
「七緒さん、ですよね?」
確認するように訊いた。……七緒。部長の苗字だったな。ゆく先々で耳にしたあだ名は、名前から付けられたものだったのだろうか。
それにしても、さすがジャーナリストを自負するだけはある。一日で談話部の部長という情報から名前を調べ上げてくるのだから。俺なんて、はぐらかされてばかりで猫好きくらいしかわからなかった。
と頭を回すくらい無言でいた部長は、やっと動きを見せた。
「……ええ、そうです」
目も合わせず言葉だけで肯定する。
「いつもと髪型違うし、眼鏡掛けてるからよくわかりませんでした」
と話を続けると、
「少し、気分転換しようと思って……」
俯きがちに答える。
普段と髪型が違う。眼鏡を掛けていたからよくわからなかった。普段はポニーテールではなく、眼鏡も掛けていないということ。それはつまり……。
「へえ。部長って、いつもは違う髪型なんですか。どんな髪型なんです?」
ことさら明るく話しかけた。とにかく軽い調子で。
その声に、水を打ったような気持ちの悪い沈黙が場に流れた。どんな言葉を発そうと、もはや取り返しのつかない暴言を吐いたような。
俺は、部長が声を聞き、肩を震わせたのを見逃さなかった。突如、激しい糾弾を受けた咎人のように、小刻みに戦いたのを見落としはしなかった。
俯き、縮こまり、何かを恐れ視線を落としている。悪徳を見咎められ、罪過を暴かれた詐欺師のように。悪事を見破られ、罪咎を問われた犯人のように。
悠は目を見開いている。俺の行動が理解できない、という唖然とした面持ちで。
無理もないだろう。それまで親密にしていた人同士が、いきなり不穏な空気に染まれば何事かと思うもの。悠の反応は当然である。
天使が通り、どうすべきかと考えあぐね苦悩したが、手を差し伸べるらしい本当の天使などここにはおらず、ただただ無言の重圧が肩に伸し掛かるのみだった。それもそのはず、天使は過ぎ去った後であり、およそ不可思議な現象を残していっただけなのだから。
ふと、横顔から雫が垂れ落ちた。地面に落ちたそれは、じんわりと染みを作り、円を描いて広がっていく。波紋のように速くはなくとも、じわじわと確実に辺りを侵して影を落とすように。その様はまるで、ゆっくりと時間をかけて行う絞殺のようだ。
少し過ぎたかもしれない、そう思った。悠に任せて、話し合うだけでよかったかもしれない、と。
罪悪感に苛まれていると、突然、早足で近づいてきた。
「ちょっと……!」
という険のある物言いと表情で、制服の裾をつかみ、そのまま引っ張って行く。
抵抗虚しく、裏路地の入り口までずるずると引っ立てられ、詰め寄るようにして訊かれた。
「いきなりどうしたのさ?」
信じられない、という顔。非難するような。
「いや……あまりに違和感があったから、我慢できずに質問しただけなんだけど……」
言いつつ部長を見た。スカートの裾をつかみ、溢れ出す感情に耐えるように下を向いている。
悠も顔を向け、それからこちらへ戻して、
「どこが?」
と訊いてくる。話が空転しているのにもどかしさを感じながらも、
「どこって……そもそも部長はあんな喋り方じゃないんだって。あんな清楚系お嬢様みたいな。お前は知らないのかもしれないけど、あれはふざけてんだよ」
まっすぐ目を見て答えた。すると今度は射抜くように見、おもむろに口を開いて、
「もしかしてふざけてる?」
なんて言った。至極真面目な顔で。それに少なからず苛立ちを覚え、
「違うって。ふざけてんのはあの人だよ。あの喋り方もおふざけでやってんだからな」
言い返すと、間違いを正す時の表情になり、
「何言ってるんだよ。七緒さんはいつも、さっきみたいな雰囲気じゃないか」
知ってるでしょ? と、まるでその知識を当たり前に有しているように引き合いに出す。
さっきみたいな雰囲気とは、おどおどして、人見知りするような雰囲気のことだろうか。それがいつも、ということは――。
「お前こそ何言ってんだ。部長はもっと偉そうで自分勝手だぞ? 俺がどれだけ部長のおふざけに振り回されたか知らねえだろ」
感情の昂ぶりに任せて言うと、
「やっぱふざけてるでしょ? 禎生。でもそれ笑えない」
全否定された。呆れの混じった声で。
「だからふざけてねえって。ふざけてるのはあの人だ。実際に体験した俺が言うんだから間違いない」
眉根に力を入れて言い返す。
一時視線を合わせると、急に冷静な顔つきになり、
「……冗談じゃなく?」
取り合う気になったらしい。信用を得るべく、視線を合わせ、できるかぎり誠実に返答した。
すると、腕を組んで首を傾げ、難しい顔をする。
「うーん。でも、今日、聞き込みした限りじゃ、そんな話、一度も出てこなかったからなあ……」
「どういうことだ?」
やっと解放されたという感じで、息を吐きながら少し距離を取ると、
「ほとんどの人が、清楚で可憐な美人だって」
「清楚?」
思わず訊き返した。
「あの部長が?」
「うん……」
「あの部長がか?」
「だからそうだって」
いい加減しつこいと言いたいらしく、突き放すように続ける。
「怒ったり、何かに当たるところなんて見たことがないって」
聞き込みの結果だろう。だが矛盾を感じずにはいられず、腑に落ちないことが多い。
「真面目でいつも冷静。相手の話を真剣に聞く人で、教養のある人とか」
令名嘖々。無意識に口が動いた。
「お前こそ冗談だろ」
「なんでさ!?」
心外な顔で声を上げる。
俺は未だに項垂れている部長を見て、
「いや、だってよ……」
口ごもる。ああ言ったものの、こいつが自分の調べたことについて嘘をつくとは思えない。ノートまで作るようなやつだ。収集した情報が虚偽や間違いならいざ知らず、自分から棒に振るなんてことはしないだろう。そう考えると……。
「じゃ、見てみる? 僕のノート」
鞄を掲げて勝利を誇示してきた。ここまで言っておいて嘘でした、なんて言うやつなら頼ったりしない。頭ではわかってるんだ。悠の言ってることが、ほぼ間違いなく事実だってことを。校内の人間から集めた情報なんだから。部長は清楚で、可憐で、美人で、絵に描いたような常識人で、俺が見たものとは正反対。そして名前は七緒水月。それが皆の知ってる事実なんだろう。それでも、そう簡単に信じられるわけがない。俺は今の今まで、そんな人は知らなかったんだから。
「七緒って誰だよ……」
負け惜しみのように言った。
「七緒さんは七緒さんだよ。校内で評判の女子」
聞きながらまた部長の方を見る。あの部長はふざけているわけじゃない。じゃあ今までの振る舞いは何だったのか。評判ってことは大多数の人が知ってるってことだ。なら、単に俺が知らなかっただけってことなのか。
「……禎生?」
ひとしきり無言でいたせいか、名を呼ばれた。
視線を戻し、
「とりあえず、今日調べた事を聞かせてくれ。詳しく」
そう頼むと、部長を意識し始めた。一瞬だけ尻目に見て、
「……場所変えたほうが良くない? それに、今日だけじゃ大したことはわからなかったけど」
本人がいることを気にしているらしい。
「じゃ、見せてくれ。自分で読むから」
頼むと、戸惑いの表情を浮かべたが、それでもノートを取り出してくれた。
「いいけど……少し落ち着いたら?」
その言を無視してノートを受け取り、開いて、指の腹で捲っていった。
「どのへん?」
「最初の方だよ」
悠には目もくれず、ページを探す。
七緒……七緒……あった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
氏名 七緒水月〈ななおみづき〉
クラス 1ーC
成績 上の上(正確な順位は調査中)
身長 163cm(目測)
体重 調査中
スリーサイズ 調査中
誕生日 8月25日
髪型 ロング
家族 父と母(兄弟・姉妹は調査中)
趣味 読書(休み時間はいつもそうしているらしい)
特技 調査中
癖 調査中
備考 コンタクト装用(学校ではコンタクト。家では眼鏡)・学級委員を担当
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(……え?)
プロフィールを見ていたら、気になる一文を目の当たりにした。
「えっと……これ、ホント?」
それを指さして訊く。
「勝手に調べたものだから公式じゃないけどね。でも公式くらいの自負は持ってるよ」
(部長が……? いや、でも……)
と呆気に取られていたら、低い声で話し始めた。
「これといって深い付き合いの友達はいないみたい。付き合ってる人もいないらしいよ。先生からの評判は品行方正・文武両道・才色兼備とかベタなのばっかだね。生徒からは、いい人・家柄が良さそう・どんな人にも平等で好印象・清楚で可憐・嫁にほしい・彼女になってほしい・クンカクンカ? したい・美人・レベル高すぎて比べられそうだから友達にはなりたくない・美人でも調子に乗ってないからまだまし。……今のところこれくらいかな」
続けて、中学の時も同じように有名だったこと、加えて、数日かければさらに多くの情報を集められることを話した。
時々刻々と情報が入り、空で言うのに感心しながらノートを返して、
「じゃ、ホントにホントってこと?」
やっぱり信じられそうにない、と訊くと、目の端でこちらを見やり、
「何回訊く気?」
キレ気味に返答してきた。ここまで感情を露わにしているのを見るのは初めてだ。だがそれは、悠の言っていること、ノートの内容が事実であることの裏付けとも取れ、俺の見てきた部長が、普段の七緒水月とかけ離れていることの事実も示唆している。
現段階でわかったことは二つ。格好(髪型・眼鏡)が違う。雰囲気・素行が違う。い ずれも、普段と、俺の見た彼女の相違点だ。
そこで浮かぶ疑問は三つ。なぜ格好・素行が変わったのか。なぜ変わらなければならなかったのか。変わったのは意図的か否か。
あと不明な点は……。
「禎生、ちょっと中に入ろうよ」
突然、言いだした。モモ&ココを指して。
「なんで?」
「いいから」
質問を無視して店の方へ向かう。
どうやら、二人だけで話がしたいらしい。
後ろ暗いものを感じながら、後に続いた。
◆
店の片隅。
子猫や子犬がショーケースの中で塞ぎ込んでいるように見えるくらいには、先ほど出会った時に比べ、俺たちを包む空気は沈んでいた。
悠は、丸まって目を閉じている猫を見ている。
ふと、神妙な面持ちで、
「談話部なんだけど……なかった」
驚くべきことを抜かした。
「は!? いやさっきお前――」
「談話部のことは、新設される部を三枝先生に訊いたとき教えられたんだけど、今日、生徒会に訊いたら、そんな部はない、って言われたんだ。それで三枝先生に確認したら、七緒さんが作ろうとしてる部だった、勘違いしてた、って謝られた」
「三枝先生?」
問い返すと、こちらに向き直り、
「同好会も、そんな名前のものはないって」
疑念に満ちた顔色で続ける。談話部が存在しなかったことが気になるのだろう。だが俺は先生の方が気になった。
先生がそう言ったということは、入部を報告した時、何も言わなかったのはどういうわけなのか。部が存在しないことをわかっていて報告を受けたのか。だとしたら、それはなぜだ。
「僕、禎生が七緒さんにお願いされて同好会設立の会員候補になったのかと思ったんだけど、その様子だと違ったみたいだね」
予想と事実の相違を確認しようとしているらしい。
「ああ、自分から部員になるって言った」
頷き、考えた。
入部届は部長に手渡した。それで部がないとすると、部長は届を提出しなかった、そもそも提出する気など始めからなかった、ということになる。俺は存在しない部への入部届を出したということ。それを先生に報告すれば、部がないことは知れるはず。ということは、やはり先生は、わかっていて報告を受けた、そういうことだろう。
また、部長が嘘が露見しないよう動いていたのだとすれば、俺が先生に報告することを阻止しようとしないのはおかしい。このことから、部長は報告のことを知らなかったのだと推測できる。
しばらく黙っていると、「ねえ」と言った。
「僕、考えてみたんだけど……禎生、だまされてるんじゃない? 七緒さんの普段を考えるとそうは思えないけどさ。でも、今日禎生が見た七緒さんはいつもと違ったんでしょ? だったら、それが七緒さんの本性で、禎生は、その七緒さんにだまされてるって、そう考えられないかな?」
懇懇と言い、身を案じるように見つめてくる。もしかしたら悠は、俺がだまされたことを少なからず自分のせいだと思っているのかもしれない。
「お前の言う、普段の部長が猫かぶってると?」
「うん。僕なりの推論でしかないけど……」
つまり、部長は悪い人物で、俺を利用している、と言いたいらしい。
「禎生に頼まれて部長さんのことを調べている時、七緒さんと会って話したんだ。その時も、あの髪型でメガネかけててさ。七緒さんだと知らずに話しかけたんだ。で、質問した。『談話部について調べてるんですけど、七緒水月さんのことどう思いますか?』って。こういう時、普通ならどう答えると思う?」
「まあ、私が七緒ですけど、とか」
自分のことを訊かれれば、そう答えるのが普通だろう。
「だよね。けど、七緒さんは、そう言わなかった。『興味ありません』って言っただけで、自分だとは言わなかったんだよ」
訴えかけるように力説する。それを見ていると、このことも嘘偽りじゃないと思えてくる。
「なんで嘘ついたんだ?」
それだけじゃない。部長は髪型を変え、眼鏡を掛けてまで正体を隠そうとした。なぜそこまでする必要があったのか。
「わからない。わからないけど、あまり褒められたことじゃないよね」
だましきるなら別だが、校内で名の知れている部長はそうはいかない。すぐにばれるだろう。なら、折を見て正体を明かす気でいた、ということなのか。
「部を作るために俺をだましたってことか」
でも、部を作るためにだましたのに、自分から辞めていいだなんて言うだろうか。他に目的があるならわかるが。
絡まった糸を、なんとか解いて端緒を開こうとしていると、
「理由はわからないけど、辞めた方がいいんじゃない?」
窺うように言ってきた。それを聞いて思う。……辞める、か。部長には辞めてもいいと言われたが、どうするべきか。客観的に見れば、辞めるべきかもしれないが……。
「だまされてると思うなら、早く辞めた方がいいよ。言いにくいなら、僕が七緒さんに言うこともできるけど……」
保護者のごとく心配する悠を見て、図らずも笑いそうになってしまった。
「いや、大丈夫だ。それくらいは自分で言える」
そこまでされてしまったら、ただのヘタレだ。それに心配しすぎだろう。
答えると、「そっか」と少し肩を落とした様子になるも、
「とりあえず、あまり待たせるのも悪いから戻ろうか」
いつもの表情でそう言った。
◆
部長のところへ戻ってすぐ、悠が前に出た。
「すみません。待たせてしまって」
愛想笑いを作り、腰の低いところを見せる。
部長は悠の顔を見て、
「いえ、大丈夫です……」
しおらしく笑う。スカートの前で軽く手を握り、ほんのりと赤い目を垂れさせている。
それを確認してか、悠はぎこちなく喋りだした。
「えーっと……、禎生って変わってるから、相手するの大変でしょう? さっきもあんなこと言ったりして……」
「そんなことありません」
様子見の言葉に、軽く首を振って否定する。すると気まずそうな顔で、
「そ、それならいいんですけど……。ま、まあ、禎生のことで何かあったら、僕に相談してください」
悠は部がないこと、部長が正体を偽ったことを知らないつもりで話を進めているようだ。俺が自分でなんとかする、と言ったからだろう。
一思案していると、
「仲がいいんですね」
人形のような端正な笑み。その顔が、また泣き出しそうに見えたのは、自分だけだろうか。
「ははは……、それほどでもないですよ。ただの取引相手みたいなものだし。……じゃあ、僕、親に買い出し頼まれてるんで」
距離感のある照れ笑いを見せ、こちらに顔を向けた。
「じゃあまた」
ごめんね、と言うように手を挙げる。
「お、おう……」
そのせいか少し上ずってしまった。
返事をすると、悠は背を向けて歩き始める。
「さようなら」
首筋に風を感じながら、人混みに紛れていく影をひとしきり見つめた。
お互い顔を合わせることもなく、地面を見つめたり、よそを向いたりする。それを数十秒は続けたかという頃、遂にこちらが耐え切れなくなって、口を開いた。
「えっと……部長、これからどうします? もう遅いですし、帰りますか?」
口が錆びているのかと思った。それだけ、目の前のことが受け入れられていない、ということかもしれない。
部長はゆっくりとこちらを向き、どこか思いつめた様子で見上げてきて、
「はい……悪いんですけど、今日はこれで帰ります。……ごめんなさい」
謝りながら頭を下げてくる。それを見て、
「わかりました。じゃあここで」
仕方ないか、そう思いながら答えると、
「……ごめんなさい、さようなら」
今度は慌てたふうに言って、頭を上げる前に歩き始めた。今まで全く違和感のなかった後ろ髪を揺らしながら。まるでそれを引かれ、無理矢理に振り解いて行くように。
俯いたまま逃げるように足早に去って行き、そのまま人混みに紛れて見えなくなってしまう。
アーケードの日覆い越しに低い空を見つめ、ふう、と一つ息を吐いてから、
「どうすっかなあ……」
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