毎夜の問いかけ

白銀きな子

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ケホケホ。

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 んん、失礼、喉の調子が。お水を、お水をください……ありがとう、もう、大丈夫。

 毎晩見る、夢の話をします。
 姿形は正確にはわかりません。黒くてウネウネ、伸び縮みする影が私に問いかけるのです。

 「覚えているか、覚えているか」と。

 その声がした途端に、体を動かせなくなるのです。指先一つ、曲げることすら叶いません。目が覚めるのをひたすら待つことしかできないのです。そう、毎晩です。

 「覚えているか」と問われても、身に覚えもないのです。

 ええ、ソレがいつから現れるようになったのかも定かではありません。
 どうにも私は、幼い頃の記憶が曖昧でして。他の人と比べようがないので、本来そんなものなのかもしれませんが。

 私は、両親に訊いてみました。私は何か忘れてはいないか、と。なにかそう、大事なことを。藁にもすがる気持ちでした。

 が、両親は口を揃えて、「そんなわけないだろ」と。取り合ってくれませんでした。
 その時の2人が慌てていたように見えたのは、気のせいだったのでしょうか。……いいえきっと、気のせいではなかったのでしょう。

 例の影はいつも、私の夢に現れました。

 渓流、湖、川、そして海。……私の夢の舞台にはいつも水がありました。そして、両親と私の姿がありました。どうやら昔に行ったことのある場所のようでした。私はあまり、覚えていないのですけれど。

 ある日、両親と海に行った時の夢を見ました。正確には、まだ私が幼い頃の家族の風景を、今の私は遠くから見ていました。眩しい朝方の海。浜になにか打ち上げられているのを、父が発見しました。

「これ、──じゃないか!?」

 肝心なところを、波音が打ち消します。

「嘘でしょう!? ……こんなに美味しそうだなんて……」

 母が驚嘆の声をあげました。に一目で魅せられているようでした。

 幼い私の目には、父の大きな背中で見えなかった。けれど遠巻きに見ていた今の私には、が見えました。
 美しい。あまりにも美しい。……父が抱き上げていたのは、人魚でした。


 それから、暗転。次に視界が開けた頃には、夕食の場面に切り替わっていました。豚肉とも鶏肉とも違う、かと言って魚とも似つかわしくない「なんらかの肉」を、私たちは口に運んでいました。笑顔で、とても美味しそうに。

 ……ん、んんっ。お水を。お水をください。

 ありがとうございます。

 聞いたことはありませんか? 人魚の肉を食べると不老不死になると。ええ、そうです。有名ですよね。

 父は病を抱えていました。不治の病です。余命宣告も受けておりました。
 おおかた、人魚の肉を食べて生きながらえようとしたのでしょう。
 けれど一人で生きながらえても意味はない。だから家族を巻き込んで、永遠の命を得ようとした。


 ……想像力がないというのは本当に致命的なことです。たとえ人魚の美しさに、心奪われていたのだとしても。


 不老不死。つまり、老いることも死ぬこともない。……病を治すわけでは、ないのです。

 老いることはありません。歳を重ねることはありません。けれど父の病はそのままに。食事もろくに取れず、毎日のように口から血を吐いて、上半身と下半身が引き裂かれるような痛みに耐えているのです。
 衰弱しきって骨と皮だけになった父の顔に、かつての若々しさなどあろうはずもありません。

 終わりはありません。だってあの日、肉を食べてしまったのですから。
 終わりは来ません。永遠に苦しむ環の中に、自ら入ってしまったのですから。


「覚えているか、覚えているか」


 ……あれは、あの影は、あの時の人魚なのでしょうか。

 だとしたら、「思い出した」と答えたらどうなるのか。死ぬだけならまだいい。けれどもしそうじゃないとしたら?
 想像するだに恐ろしくて、恐ろしくて。

 答えるのを先延ばしにし続けています。もう、あの日からどれくらいの月日が経ったのでしょうか……。


 ……んん、ん。失礼、喉の調子が……。
 まだ取れないのですよ、あの日のうろこが。


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