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1、波瑠と久乃

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「おかあたん、おかあたん。おくすりのんでくだしゃい。」と幼い女の子が両手一杯に持った赤や黄色など様々な葉っぱをお母さんの布団の上へパラリと落とした。

「はい、お医者様わかりました」と言いながらお母さんはその葉っぱをいくつかつまむと飲んだふりをする。

この親子のいつもの光景だ。

「ありがとう久乃、お薬飲んで元気を出さなきゃね。」とお母さんが微笑む。
「おかあたん、げんきなる?」と美しい大きな瞳を輝かせ聞き返す娘。
「おくすり、げんきなる?」と覗き込んでくる我が娘を母はふわりと抱きしめ

「久乃は優しい子、良い子ね。いつもお薬ありがとうね。久乃のお薬飲んで元気になったわ。ほら見てごらん」と寝巻きを捲り腕をあらわにして力拳を作るが、その腕は青白く折れてしまいそうなほど細かった。

久乃と呼ばれる女の子が10歳の頃にとうとう母親は帰らぬ人となった。

母親は久乃の父親と死別してから女の細腕1つで久乃を育てて来たが、元々心臓に奇形があり久乃を生んでからは病気に対する抵抗力がだんだん低下していった。

だから死亡理由は流感、つまりは風邪だ。

久乃は母親が亡くなると父方の祖母に引き取られ預けられた。祖母の名前は波留と言った。

波留は借家住まいであったが、資産があるのか悠々自適の生活をしていた。そしていつもシャンと背筋を伸ばし優美でこ綺麗な粋なお婆さんであった。彼女が長キセルで喫煙を楽しんでいる姿はまるでフランス絵画のよう。と周りの借家のご近所さんたちは事あることにそう話した。

またこの借家は長屋であったため壁一枚を隔てたお隣さんがいた。お隣さんは母子家庭の親子で、お母さんが朱美さん、その息子が亮と言った。亮は確か歳は10の頃だったか?

亮はこの波留のことが大好きで「俺、大きくなったら波留と結婚する!!」とよく抜かしていた。

波留はたばこの煙を燻らせながら「あっはは~、馬鹿をお言いでないよ。一人前の良い男になったら考えてあげる」と笑いながら良く亮を窘めていた。

波留は久乃に対して自分が今までの人生で得てきたものを全て叩き込む為、とても厳しく育てた。

波留に資産があったので勉強はもちろんの事、バイオリンや料理に裁縫、英会話まで習い事は多岐に渡った。元々久乃は賢い子だったし、波留は厳しいばかりでは無かった為、(例えば裁縫の出来が良かったり、バイオリンが上手く演奏できたりした時なんかは頭を撫でながら、久乃良くやったね。といってくれる事もあったのよ)
だからどんだけ厳しくされてもおばあちゃん、おばあちゃんと懐いていた。

そんな久乃のたった一つの楽しみは「薬の配合」だった。薬の原材料を入手し(時には野原に生えている事もある)手元の野草図鑑を見ながら『薬草』と書かれている草を集めて調合して、こっそりとお茶にして波留に飲ませていたのだ。もちろんそんな素人が配合した薬草にそんな効果がある訳はなく、偶然にも波留が元気になると嬉しかったしその様子を見てまた頑張ろうと思えるのだった。

そんな波留も久乃が18歳の時にあえなく他界した。原因は突然の心臓発作だった。

久乃は気丈に葬儀を出すとしばらくは嘆き悲しみショックを受けていたが、大家さんがここを建て替える事も有り退去を余儀なくされた。

久乃はこの場所に特に思い入れは無かった。また大した友人も居なかったので久乃はすぐに海外へ長期留学を決めた。すでに朱美さん親子は引っ越していた。


バンバンバン、と埃をはたきながら久乃が波留の私物を片している。埃がたまった物も多く掃除半分、片付け半分だ。古い書類などは劣化が激しくぼろぼろなのも多い。心の中で『おばあちゃん全部残してあげられなくてごめん』と謝りながらゴミ袋にせっせと詰めて行った。

「おばあちゃん机も片付けるね。だから開けるよ?」と一言断ってから古びた波留の机を開けた。使い込まれたペンや物差しに交じって、見慣れない言葉が書かれたメモがたくさん出て来た。そう言った訳の分からない物は次々とゴミ袋に詰めて行く。



机の一番下の引き出しには古い日記があった。鍵が掛かっていたが何とか開けられるようだ。
立て付けが悪く開くのに苦労したが、開いて見てみると何て書いてるのか全然わからない。日本語でも無ければもちろん英語でもない。でも何だか大切そうにしまってあったので、処分するには忍びなかった。綺麗に表紙を布で拭き久乃のカバンに詰めこんだ。

この日記の他にも久乃と二人で撮った写真や波留の若い頃の写真なども手元に残しカバンに入れた。波瑠おばあちゃんは若い頃から本当に綺麗な人だったんだ。と久乃はあらためて思った。

このお家の大家さんのご厚意で要らない物は置いて行って良い事になっている。まとめて処分してもらえるらしい。久乃は粗大ゴミやぱんぱんに詰まったゴミ袋を玄関に集めて置いた。

ーーーーもういい。要らない物は全て置いて行こう。どうせもうこれから先は自分一人だ。


大家さんの指示で出て行く時は鍵は閉めなくていいと言われた。なので手荷物を持つと大家さんの所へ挨拶に行った。留学先に既に大半の荷物は送付済みだ。

「こんにちは~、大家さん」と大家さんの家の玄関の扉を開けると、奥から恰幅の良い女性が右足を引きづりながら出て来た。大家さんは数年前から足を痛めていて日常生活なら差し支えないが、重たい物を運んだり扉の修繕などはもう無理だった。「あら、久乃ちゃんお片付け終わった?」と大家さんが話した。

久乃は鍵を大家さんに渡しながら、「はいお陰様で。大家さん長い間ありがとうございました。私はこれから日本を離れます。どうか大家さんもお元気でいて下さいね。」そう話すと

初老の大家さんは「ごめんなさいね、本当はもう少し置いてあげたかったんだけど、息子が丁度良いからって建て替えを決めたのよ。もう私も年だしね。息子には逆らえないわ。」と謝ってくれた。


「では飛行機の時間がありますのでそろそろ失礼します。」とお辞儀をし大家さんの家を後にした。大家さんは久乃が見えなくなるまでと手を振り見送ってくれた。

回覧板やお裾分けを届けたりした時に必ずと言って良いほど、オヤツをくれたりお駄賃をくれたりと大家さんに久乃は良く可愛がって貰っていた。

長屋の近くまでタクシーを呼びそこから空港へのシャトルバスに乗るために最寄りの駅へ向かった。シャトルバスはちゃんと時間通りにやって来たが、シャトルバスが時間通りに空港に到着することは永久に無かった。

空港に着く直前、急カーブを曲がり損ねた大型トラックが追突し、乗員乗客全員死亡と言う大惨事に見舞われた為だ。



久乃は死ぬ直前、誰かに呼ばれた気がした。



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