放課後の旋律~君と僕の秘密の放課後~

七転び八起き

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 八月の半ば。
 いぶきはバスに揺られていた。

 窓の外に、高級住宅街が広がっている。大きな門、広い庭、立派な家が並んでいた。

 バス停に着いて、降りる。

 唯川が、そこに立っていた。

「暑いな」

「うん」

 二人は並んで歩き出した。

 住宅街の道を進んでいく。木々が道を覆って、木漏れ日が地面に落ちている。

「ここだ」

 唯川が立ち止まった。

 いぶきは門を見上げた。高い塀、綺麗な庭、大きな家。

「すごいな……」

 いぶきが呟くと、唯川は少し苦笑した。

「見た目だけだよ」

 門を開けて、玄関へ向かう。
 ドアを開けると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 現れたのは唯川そっくりな女性だった。
 お母さんだ。

 彼女はいぶきを見て、少し驚いた顔をする。

「はじめまして」
 いぶきが頭を下げた。
「柏木いぶきです。悟史くんにピアノ教えてもらってます」

 母親の目が、わずかに見開かれた。
 それから、ゆっくりと微笑んだ。

「……そう。いらっしゃい」

「お邪魔します」

 母親は唯川を見て、小さく頷いた。唯川は視線を逸らした。

 ***

 唯川に導かれて、いぶきはある部屋に入った。

 ドアを開けると、真っ白な壁紙の空間にグランドピアノがあった。窓際に置かれていて、教室にあるピアノとは違う存在感を放っていた。

 唯川はピアノの蓋を開けた。

「座って」

 いぶきは座った。

 唯川が鍵盤に触れて、音を確かめるように弾いた。澄んだ音が響く。

「今日は、前回の続きだ」

 いぶきは楽譜を開いて、弾き始めた。
 音が部屋に満ちていく。
 唯川は黙って聴いていた。

 曲が終わる。

「……いいな」
 唯川が小さく言った。
「上達してる」

「ありがとう」

 沈黙が落ちた。

「……あのさ」

 唯川が口を開いた。
 いぶきが顔を向ける。

「前に、嫌なことがあったって言ったの、覚えてるか」

「……うん」

 唯川は鍵盤を見つめた。
「中学生の時、ピアノのコンクールに出たんだ」

 いぶきは黙って聞いていた。

「落選した。その時弾いたのが、別れの曲だった」

 唯川の瞳は、揺れている。

「コンクールで落選することなんて初めてじゃなかった。でもあのコンクールは俺の人生を左右する重要なものだった」

「それから、弾けなくなった。人前で」

「でも、ピアノを弾くのはやめられなかった。だから音楽室で弾いていた」

 唯川はいぶきを見た。

「でも、柏木が来た」

「おまえは、俺にピアノを習いたいって言った」

「……うん」

「最初はのりきじゃなかった」

「でも、お前が頑張るのを見てたら、また前に進もうと思えた」

 いぶきは鍵盤を一つ押した。
 それが小さく響いた。

「よかった」

 窓の外で、風が吹いた。カーテンが揺れる。

「……ありがとう」

 唯川が小さく言った。

 いぶきは微笑んだ。

「こちらこそ」

 ***

 夕方。
 いぶきが帰る時間になった。

 玄関で靴を履いていると、母親が現れた。

「また来てね」
 母親が微笑む。

「はい。ありがとうございました」

 唯川がバス停まで送ってくれた。
 バスが来るまでの間、ベンチで二人で座った。

 その時、唯川の手がいぶきの手に重なった。
 応えるかのように、いぶきは握り返した。

 バスが来て、いぶきが乗り込む。

「じゃあ、また」

「うん」

 バスが動き出す。

 唯川の姿が、遠ざかっていった。
 その時、いぶきはある決心をしていた。

 自宅には向かわず、駅の近くの楽器屋に向かった。
 楽譜を探していた。

 その楽譜はあった。

 それをいぶきは買って家に帰った。
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