あなたと秘密の吉原で

蝶々

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銀嶺の章

弐 花明かり 1

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外からは陽気な声が鳴り響き、夜だというのにそれは賑やかで綺羅びやかな光景が広がる。
…ここは『吉原』。遥か昔に栄えたとされるこの場所は現代では過去のこととされている。
ならば、何故この場所は今存在しているのか?
それはここが…神により作られた秘密の楽園だから
そう言われている。
けれどこれも…一つの言い伝え。昔話。
だから…何が本当なのか。誰も知らないのだろう。


「柳様、この子を…ここに置くつもりですか?」
そばですやすやと眠る少女を見ながら青髪の男が話す。その男は少女の傷ついた手の状態を見ると少し苦い顔をし、近くにあった救急箱を手に手当を始めた。少女を起こさないようにそっと触れるも深く眠る少女は起きる様子もなく静かに寝息をたてていた。
「…そうですね。彼女がそれを望むのなら」
柳とよばれるその人は眠る少女の頭を撫でながらそう答えた。
「望むなら…ですか」
若草色の髪をかきあげながら、優しく少女を撫でるこの人は我らが主とする…この店の店主だ。先程まで追われていたであろう仕事も終えたようで机には綺麗に整理された書類が山積みになっている。
「…柳様、この子は…『あの子』なんですよね?」
「…」
返ってきたのは無言の返事。けれど、その無言の返事と顔はその答えを肯定しているのだと…そういうことなのだろう。
俺は…俺達はこの子を知っている。昔…この場所でこの吉原の街で。だけど…それは本当にしばらく昔の話で、こうして成長した彼女と再び再会するとは思っても見なかった。それも…ここまでボロボロになった状態で…俺達はこの子の、こんな姿を願って『あの時』送り出したわけではなかったというのに。この気持ちは恐らく、この人も身にしみて感じているのだろう。そう思いながら、柳様の顔をみた。優しい表情の中には悲しみが混じっているようで…俺は顔をそむけた。
「いったい何がここまでこの子を追いつめているんでしょうね…こうして夢の中でまで泣き続けなければならないなんて…」
その声に俺は彼女を見る。ようやく眠ったと思っていた彼女は…またもや悪夢にうなされ涙を流し続けていた。
「望むなら…私はこの子をここに置いても構わないとそう思っています。あなたも『彼らも』反対はしないでしょうし。それに…こんな状態になった原因がこの子がいた場所にあると言うのなら…そこに戻すのはあまりにも…」
その言葉の先を柳様が言うことはなかった。けれど言いたいことはなんとなく分かったから…俺も問いかけることはなかった。彼女がいた場所がこれほどまでに彼女を傷つけたのならば…それなら、俺達が彼女をその場所から奪っても良いのではないだろうか。『あの時』とは違って…
だけど…もしも、もしも彼女が『帰る』ことを望むのなら俺達は止めることができるだろうか。
「柳様、俺達は…この子のこんな姿を願って…あの時送り出したわけじゃありません…」
「…分かっていますよ。私だってそうなんですから。『あの時』はこの街で生きることが…この子の幸せに繋がるとは思えなかった。あちらの世界でこの子を待っている人たちがいたはずだから…」
『あの時』…この子は言っていた。大好きな人たちがいるんだと…だから自分は戻りたいのだと。
「でも…もしもあちらの世界の方が生きづらい場所になったのだとしたら。私はこの手を離すつもりはありません」
そう言って柳様は彼女の手を優しく握った。かつて潰してしまいそうなほど柔く小さかった手は…時を経て大きくなっていた。けれど…自分たちに比べれば小さいことに変わりなかった。悪意に満ちた大人たちの手に触れれば…簡単に壊れてしまいそうなほどに。
「…全ては彼女しだいですね。柳様」
「はい。…夜天、私は彼女が戻って来てくれて嬉しい。そう言ったら呆れますか?」
柳様は目をつむるとそう言った。
「いえ…俺だって嬉しいですよ」

今日の花街もいつも通りのにぎわいでカラカラと…芸者たちの声や音が夜の街に鳴り響く。その明るさに霞んだ夜空も負けじと藍色の美しい景色を映し出す。かつて俺がここに来たときに…柳様がつけてくれたこの名前。あの時もとても美しい夜空で、それになぞらえてつけられた夜の空…『夜天』。
それは俺が主とする大切な方から貰った名前。
そして大切な君がつたない言葉で…可愛らしい声で呼び続けてくれたこの名前。
君は俺達のことを覚えているだろうか。あの時を覚えているだろうか。俺達にとって『吉原の花明かり』とそう呼ばれるまでになったあの時のことを。
俺達の忘れられない大切な記憶を…
「『吉原の花明かり』…彼女、そう呼ばれていることを知らないでしょうね」
俺はボソッとつぶやいた。
「懐かしいですね…この子は私達にとってかけがえのない宝物です。手離してからしばらく…この店は本調子がでなかったくらいに」
懐かしいと笑うその人は…それは愛おしそうに彼女を見ては撫でる。俺達は再び戻ってきたこの子を果たして手放すことはできるだろうか。俺達の願いは叶わず…ボロボロに傷つき戻ってきた彼女を前に。
再び手放すという選択肢はあるのだろうか。
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