見てはいけない

aika

文字の大きさ
上 下
2 / 3

赤いスカートの女(2)

しおりを挟む


休日。朝早く目が覚めてしまった。
昨夜から降り続く雨は、世界を陰鬱な色に沈ませている。
雨が金属に跳ね返る音が、一定間隔で耳に届き、妙に意識を研ぎ澄ませてゆく。
頭が空っぽになったような、無の感覚に、心が凪いでいる。


休日はいつも恋人と過ごしていた。
家に一人という状況に嫌気がさし、買い物に出かけることにする。

錆のせいか、鍵がスムーズに廻らず、いつもガチャガチャと乱暴な手つきになる。
古びたアパート。家賃が安く、貯金をするには最適の物件だ。
木造2階建。夏は暑く、冬は寒い。

「久しぶりね、最近仕事忙しいのかい?」
隣の部屋に住むひとり暮らしの年配女性。いつも気さくに声をかけてくれる、面倒見の良い人だ。

早くに両親を亡くした私にとって、母年代の女性の言葉は、それがどんなにありふれていて特別な内容ではなくても、ありがたく心に染みた。
「ええ。最近は残業続きで。」
「夜遅いんだろう。帰り道気をつけないと。変な事件も多いしねぇ。隣町であんな事件があったから、あんたが心配でねぇ。」
「事件?何かあったんですか?」
「ニュース見てないのかい?隣町の山で、女性が殺された事件。連日大騒ぎだったんだよ。」
「山麓町ですか?」
「そうさね。知らなかったかい?」

不穏な予感に胸がざわざわと波打つ。
ゴロゴロと遠くで唸り声を上げる、雷のせいだろうか。
隣町の山麓町は、彼が暮らす町だ。何度も足を運んだ、馴染みの町。


気づくと私は、導かれるように山麓町まで歩いてきてしまった。
彼との思い出を巡るには、まだ少し傷が深い。
この町は彼との思い出一色で塗り固められている。それ以外のことを考える余白がまるでない。
来たことをすでに後悔しながら、彼の部屋の前まで来てしまった。

雨の夜、彼の部屋へ会いに来たことがあった。
もう何十年も前のことのように、セピア色にコーティングされている。昔見たドラマのワンシーンのように、実感が伴わないただの映像みたいだ。
彼とのことは全て夢だったかのように、思う。過ぎ去りし時の残酷さ。

いけないとは思いつつも、セキュリティーロックの無い、彼のアパートの敷地へ足を踏み入れる。
2階の、端から2番目の部屋。
表札は外され、中に人の気配はない。
私と別れた後、彼は引っ越して行った。行き先は知らない。
もう一度彼に会いたくて、別れた後にここへ来た。
すでにもぬけの殻。
窓から見える、がらんとした部屋を見て涙が止まらなかった。
あの時、私と彼との思い出は、永遠に色を失ったのだ。

またここに来ることになるとは。
自分の愚かさに自嘲しながら、階段を降りる。
「こんにちは。」
陰鬱な雨の景色の中、からりとした明るい声が届いて、驚く。振り返ると、馴染みの顔がそこにあって、私は急にあの頃に引き戻された気持ちになった。

「朱音さん、こんにちは。」
朱音さんは、彼の部屋の隣に住むOLさんだ。
とても明るくオープンでお酒好き。彼の会社の先輩と飲み仲間という偶然も重なって、仲良くしてもらっていた。
「今日はどうしたの?・・彼、先月引っ越したわよ。」
「知ってます。・・・なのに、ふらっと来てしまって。私、馬鹿ですよね。」
惨めで、恥ずかしくてたまらない。
優しく、面倒見の良い彼女に気を遣わせてしまうことは避けたかった。

「彼、会社も辞めたでしょう。」
「え?そうなんですか?」
それは初耳だった。
彼はてっきり新しい彼女と暮らすために引っ越したのだとばかり思っていたのだ。
「あなたたちいつ、別れたの?」
彼女が珍しく深刻そうな表情を浮かべたので、身構える。
「先月の初めです。」
朱音は何かを思い出そうとしているような、遠い目をしながら黙り込んだ。
「彼の様子がおかしいのは気づいていた?」

別れる前、彼はどんな様子だっただろうか。
お互い仕事で忙しく、すれ違いの日々だった。
思い出そうとすればするほど、穏やかだった二人の時間は遥か彼方へ遠ざかり、
暴言や嘘を重ね、開き直ったような傲慢な態度の彼ばかりが迫ってくる。
彼はまるで別人になってしまったようだった。

「おかしいというのは?別れる前しばらくは、お互い多忙でなかなか会えずにいたので・・・。いつ頃のことですか?」
言い訳がましい口調になる。彼は何か悩んでいたのだろうか?


「それがね、、」
彼女は言いにくいことをどう切り出そうか、と逡巡しているように見えた。
「夜中に突然悲鳴をあげたり、壁を叩いたり・・・幽霊が出た、と言ってね。」
彼女の言葉の内容が、予想とかけ離れていたので、私は返答に困った。

「幽霊・・・?」
「そう。彼女が、毎晩部屋に来るって。」
「彼女が・・・」
「だから私心配してたのよ。あなたが自殺したんじゃないかって。」
「私は死んでません。」
「わかってる。だから今日顔見て安心しちゃった。」
彼は私を裏切った罪の意識から、そういう悪夢を見たんじゃないか、とそれが朱音さんの見解だった。
「彼、本当に浮気していたの?あなた以外の女性の姿は一度も見たことないって、彼の同僚も言っていたわ。」
私もよ、と彼女は首を傾げながら、付け加えた。

今日は散々な休日だ。こんなところへ、来なければ良かった。
新たな不穏の種を得てしまった。

「彼女が毎晩部屋に来る。」

彼の言葉。

「彼女」は、私じゃない。あの赤いワンピースの女性の方だ。
喫茶店で笑い合う、彼と彼女。映画のワンシーンのように何度も私の心に浮かんでは消えていく。
あの、女だ。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

僕とメルと君の探し物屋

児童書・童話 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

映画感想 七月

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:177pt お気に入り:1

統治・内政物のテンプレ(´・ω・`)

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:71pt お気に入り:24

もう実家には帰らない。私の人生は私のものだ。

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

Blackheart

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:5

漫才:東京ジャンキー

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

視線

ホラー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

処理中です...