勘違い集団の地獄巡り

kuri

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一章・王の誕生

景観詐欺

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 彼が居る地点から最寄りの街に向かうには、基本的に徒歩になる。
 馬があれば更に速く到着出来るものの、維持費は消して安くはない。それだけの出費を出せる程に彼は裕福ではなかったし、マリン本人も必要とは感じてはいなかった。
 持ち物には往復分の食料と、少しの賃金。普段であればこれに売り物となる野菜が存在するのだが、今回は時期がズレている為持っていくことはない。
 また、一応の自衛として大型のナイフを腰に差す。
 未だ人間を相手にした戦いは行っていないが、肉食動物とは格闘の経験があるのでまったく役に立たないということもないだろう。
 それに今回は一人ではない。彼が困らない事態でもエリンが困る事態は多々起きる筈だ。
 その時の備えをしておくのは至極当然であるし、エリンもエリンで自分が現状においてまったく役に立たない事を理解しているので何も言わない。

 ただ、エリンの本音としてはその肉厚なナイフに恐怖を感じてしまった。
 実際に彼女に対して刃を振るう訳ではないと解っていても、それでももしもの可能性を考えてしまう。
 こればかりは慣れてもらう他にない。最早彼女は貴族である事を捨てると決めたのだから。
 近い将来で彼女自身が解決しなければならない揉め事も確実に起こる。
 相手が庶民である限り、女同士の陰口合戦程度では済まされないのだから。暴力沙汰になる事も加味して、彼女は今後生活せねばならない。
 そして、その貴族を捨てる最初の一歩としてエリンは自身の格好を変えた。
 
 それは彼の使わなくなった衣服を用いて作られた、彼女なりの庶民の格好である。
 基本的に継ぎ接ぎであるものの、上は薄汚れた白のノースリーブシャツ。下は錆色のフレアスカートであり、彼女が準備する間に作った衣服だ。
 時間にして二日。未だ完全回復とは言い難い彼女が作ったにしてはその衣服は酷く完成度が高い。
 基本的に継ぎ接ぎとなるとバランスが崩れやすくなる。異なる配色の布のせいで色のバランス崩壊が起こるのだ。
 そうならなかったのは、一重にマリンがあまり多色の服を着なかったからである。
 白や錆色は彼が商店で格安で買えた品物であり、体格の肥大化に伴い服のサイズが合わなくなった。
 それを家に置いていた応急処置用の針と糸で服を作り上げる姿は、彼にとっても見事としか思えない。

「器用なんだな」

「母に教わりまして、こういう事には自信があるんです」

 微笑みを浮かべる彼女の姿は、不覚にも彼の目を見開かせた。
 その姿は可憐で、家庭的だ。貴族でなければ或いは恋に落ちてしまっていたかもしれない。
 本来、裁縫を貴族が出来るというのはおかしな話だ。貴族が積極的に学ぶ事は領地経営や作法等であり、決して直接的に技術を学ぶようなことはない。有り得るとするならば剣術や魔術くらいなものだ。
 家庭的な側面なんて貴族社会では何の役にも立たない。恋人に送るハンカチ一つでさえ、貴族は専門店で購入するのが常である。
 全部一から作れ、とはマリンは言わない。それが出来ない人間は庶民の中でも無数に存在し、だからこそ裁縫が職として存在しているのだから。
 けれども、それで貴族がする価値が無いと切り捨てるのは間違いだろう。せめて一言でも此方を労ってくれるのならばと思う者も多く存在する。
 
 平民の中では極々普通の恰好をした二人は、殆どの荷物をマリンが持って家から出る。
 完全な空き家となってしまうが、マリンの家の周辺には村も人が住む家も存在しない。動物が巣にしようとしても度重なるマリンの罠によって殆どが処理されていた。今はもう森の深くにまで行かなければ襲撃をかける動物も存在しない。
 道中はほぼ平坦だ。
 森とは離れた道を選択する事によって一面に平原が広がり、それは街に到着するまで続く。
 平原に生息する動物は基本的に草食だ。温和な牛や兎が平原の中で動き回り、そんな風景は非常に長閑である。
 その生活振りは人間と比較するととても平和で、彼が羨望を感じる事も一度や二度ではない。
 エリンにとってはその風景は見慣れたものではなかった。空腹状態での移動は満足に周辺を見る余裕を奪い、今この時になって初めて自身が歩んだ場所を見れたのである。

「長閑ですね……」

「ああ……羨ましいばかりだ。俺もあんな風に平穏に暮らせたならと思うよ」

「――私も、そう思います」

 家族や親しい者全てを殺された男。
 貴族の腐敗に耐えられずに逃げた女。
 二人共に、その根底にあるのは現在の世に対する怒りだ。どうしてもっと世の中は平穏にならないのかと思う気持ちは二人の中に強く存在している。そして、その怒りは大小に差はあれども平民のほぼ全てが抱えていると言っても過言ではない。
 その怒りが最終的には人格の歪みを生み、狂人を多く発生させるのだ。
 今の世の中において九割の人間に狂人としての側面が生まれ、少しの切っ掛けによって容易く人間としての道理を捨てるような事態が起こり続けている。
 犯罪率も年々増加傾向にあり、貴族が守るのは自身の家が含まれる領内の街だけだ。
 なので大半の人間は街に住み、日々貴族に頭を下げて暮らしている。それが何の事態の改善にならないとしても、平民にとってはそうするしか他にないのだ。

 鳥のようになれたのなら。
 兎のようになれたのなら。
 きっとそれは出来ないのだ。今を変えられる王者の中の王者が生まれない限り、変化は訪れない。
 それが起きるのは一体何年後だろうか。一年、十年、百年、はたまた星が壊れるまで訪れないかもしれない。
 未来を予見する魔法使いはいないのだ。彼等は超常現象を起こす事が出来ても、現在に関する内容しか干渉出来ない。過去や未来を操作するのは神の域であるからこそ、魔法使いは半ばその領域を目指してはいなかった。
 二人は長閑な風景を見ながら足を進める。夜になればエリンには寝かせ、マリンは只管に起き続けた。
 会話らしい会話はほんの僅か。元々マリン自身があまり話しをする方ではなかったからこそ、二人の間は静けさに満ちる時間の方が多かった。
 それでも決して悪い雰囲気にはならなかったのだ。
 少なくとも、貴族という世界を知っていたエリンにとっては心優しい穏やかな静けさに満ちていた。
 
 食料は全て貴族の頃よりランクは落ちる。
 護衛もいないので襲われれば殺される確率は高い。
 マリンが資金を殆ど持っていないので何を用意するにしても質は高くなく、並べれば並べる程悪環境である。
 これが気にならないと思えるのは、一重にマリンの人柄だ。エリンはその人柄に父親を想像し、思いの外それが合致してしまっている事実に苦笑してしまった。
 それを見たマリンがどうしたと尋ね、慌ててエリンが何でもないと告げる。
 マリンはそのエリンの様子に何か隠しているのかと疑念を抱きながらも、しかし確かめる手段が無い為に先に進む。
 その背中をエリンは見て思うのだ。大きな背中だと。
 エリンの父親は骸骨のような男だ。痩せ細った身体は骨と皮だけのようであり、笑い声は骨がぶつかり合っているような音で、不気味極まりない。
 
 頼りになる姿とは到底見えず、あるのは公爵家の当主としての権力だけだ。
 確かにその権力は強大であるものの、言ってしまえばそれだけ。その身分が無くなってしまえば只の痩せぎすの男になってやがて骸を晒す事になるだろう。
 そんな男を見ていたからこそ、マリンの背中は余計に大きく見えてしまうのだ。
 街に到着するまで、エリンはその背中を見続けた。その瞳に籠った感情は――彼女すら明確に理解していない。
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