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序章

第一話 朝

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男が最初に見たのは森の木になる美しい実だった。

薄い水色とピンクのコントラストが本当に芸術的な、細長い楕円形の形をした、今まで見たことのない宝石のような透き通った果実。

それがポツポツの木の周りになっている。

現代の森とそう変わりない森の風景の中に異色の果実が混ざり、それは真っ白のキャンパスの上に落とされた絵の具のように、存在感を放っている。

「これ、、、食べれるのか、、、?」

その異色の宝石を手に取ろうとした瞬間、また別の存在感が男の視界を横切った。

「!?」

黒く、丸みを帯びた見た目。

その中にまた宝石のような綺麗な黄色を放つ目。

そこにいたのは美しい黒猫だった。

美しく、彫刻のように整った毛並み。

それに目を取られていると、黒猫は何と話し始めた。

『ハンダ』

男が人間以外の生物が喋ったことに驚くよりも先に、黒猫は体の形を変えていた。

かの猫のいた場所にはもうその姿はなく、そこには人間で言う14歳くらいの少女が立っていた。

小柄で、美しい白い肌。それでいて、先ほどの黒猫のように美しい毛並みを持った肩まで伸びる髪の毛。

少女は、背を向けている。

顔はわからない。

『私を、、、』

そういいつつ、頼るような目で少女はこちらを振り返った。

その光景を最後に、男が見たのは美しい果実でも、美しい猫でも、美しい少女でもない、築37年のボロアパートの寂れ切った天井だった。

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ピピピピ

世の中のどの音よりも大嫌いで、存在すら不愉快に感じるスマホのアラーム音。

今朝はその音を耳にするのは3回目だ。

危険を感じたとき、人間の頭はよく動くもので、その違和感に気づくのは直後のことだった。

「やべえ!寝坊!」

時刻は午前7時47分。

そう焦りながら叫んだ男はハンダ。24歳。

現代社会のモブ的な存在。一般企業の会社員。

彼のモブさには定評があり、高校時代には学校用務員のおじさんに

“お前は本当に存在がモブみてえだな”

と言われるレベルである。

流石に小さい頃からいじめられたことで鍛え上げられた精神をもつハンダでもこの言葉は心に刺さった。

そんなハンダは今、遅刻の危機に迫られている。

「急げ急げ急げ!」

と、いそいそと口にしながらハンダは玄関の鍵を開け、外に出た。

ドアのレールに足を引っかけたが、一時期やっていた体幹トレーニングのおかげで転倒によるタイムロスを削減できた。

アパートのボロボロの階段を駆け下り、自転車置き場に急ぐ。

通勤はいつも自転車である。

時間に余裕のある時は自転車の切り替えは4にして穏やかに通勤するのだが、今日という日は違う。切り替えを6にし、前のめりになり、足の力を全て振り絞った。

道ゆく人はハンダをみて笑ったり、心配したりしていた。

しかし、ハンダはそんな人々を気に留める余裕すらない。

必死に漕ぎ続け、何とか始業時刻の8時の2分前、58分に会社の駐車場に到着した。

自転車を駐車場の脇に止め、急いで会社の入っているビルに駆け込む。

フロントのエレベーターが目に入る。

「あっ待って!」

エレベーターの扉が滑らかな音を立てながら閉まってゆく。

「くそっ」

その直後、ハンダは死に物狂いで階段を登り始めた。

オフィスはビルの7階。

その高さを普段運動をしない社会人が急いでかけ登れば、もちろん無事には済まない。

現時刻7時59分。

ハンダはオフィスの出口で膝に手をつき、激しく息を切らしていた。

遅刻1分手前。

今日遅刻をすれば新卒であるにも関わらず4度目の遅刻である。

震える足を何とか支えながら周囲を見る。

白いシャツに身を覆った人々が忙しそうに駆け足で移動し、コピー機やシュレッダー、電話の音が間髪なく鳴り響く、ごく普通の想像容易いオフィス。

のはずだった。

そこにあったのは白い服に白い帽子、白いズボンを着た清掃員が忙しそうに動き回る異様な光景。

「あ」

その時、昨日の上司のシライさんの言葉を思い出した。

「明日は清掃の方々が入りますので、始業時間は変更なく、リモートでの会議となります。」

ハンダの額には無数の冷や汗、清掃員がハンダに気づくと同時に彼は目にも止まらぬ速さで家に戻って行った。
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