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導きの時

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 部長が給湯室を去っても、私はしばらくそこから動けずにいた。
 右手首を飾る金の輪っか。
 その鈴の形を確かめるように、左の手のひらで強く握りしめる。
 ――大丈夫、ちゃんとここにある。
 猫宮さんの不思議な世界と、私の平凡な毎日を繋ぐ証。
 ――大丈夫、大丈夫。
 だって、私には考えがあるんだから。
 そう心の中で言い聞かせてみても、さっきの部長の様子が脳裏から離れない。
 ――私も、あんなふうに、いつか猫宮さんを忘れてしまうの?
 出会った衝撃も、学んだことも、十二支たちや他のお客様たちのこと。
 あそこで起きたこと全部。
 この恋心も泡のように消えてしまうかもしれないと思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。

「あなたなら、迷える仔羊の道標になれると思うのですがね」

 渋く深みのある声音が、俯く私に舞い降りた。
 徐に顔を上げたそこには、ここにいるはずのない人物が立っていた。
 かっちりとした銀灰のスーツに、それと同じ色合いの髪をオールバックにまとめている。
 自社である大手銀行に勤務しているはずなのに、どうしてここに。

「み……未國さん? わ、わざわざこんなところに。なにかご用があるなら、電話でもいただければ」

 十二支の一人でもあり、取引先のトップでもある彼に、思わず仕事モードの反応が出る。
 けれど未國さんは私の言葉に耳を傾ける素振りもなく、美しい姿勢で黙していた。
 優しげな糸目からうっすら覗く光は、私を通してもっと遠くの、違うなにかを見据えているようだった。
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