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導きの時

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 ――怖い?
 今更。
 ――ならなぜ立ち止まる?
 わからない。
 仕事に明け暮れながらも、休日を楽しみながらも、常に心のどこかにあった空虚感。
 足りないなにかが、私を引き止めていたような気がした。
 右の手首を触るくせ。
 まるで、なにかがそこにあったように。
 ――リーーン。
 音が鳴る。
 感覚が生まれる。
 私には行くべき場所がある。
 忘れていた、清らかな鈴音が、近づいてくる。
 懐かしく、現実味を帯びる。
 追い求めていた輪廻の先。
 景色が変わる。
 青々とした草原くさはらが、色とりどりの煌びやかな花々で彩られた頃――。
 後ろから抱きしめる二つの腕があった。
 私の白い着物に窮屈に添えられた茜色の袖。
 華奢ながらも力強いそれは、微かに震えていた。

「ちづちゃん」

 どうして忘れていたのだろう。
 姿が見えなくても、いつも私に勇気をくれたあなたを。
 頬を伝うあたたかなものに指先で触れると、四十前から目立つようになった老化の刻みが消えていた。
 あなたと出会った頃の私に。
 迷子になっていた私を、招いてくれた、あの頃に。

「――猫宮さんっ……」

 振り返り、抱きしめる。
 変わらない、あの時の香り。
 優しく、穏やかな空気。

「猫宮さっ……ごめんなさいっ、私、私……あなたを、忘れて……」

 今度は正面から腕に閉じ込めて、猫宮さんは小さく首を横に振った。
 言葉はなくても「いいんだよ」と、そう答えてくれているのがわかった。
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