アオハルのタクト

碧野葉菜

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序曲(オーヴァチュア)

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 今思えば一目惚れやった。
 絹のように繊細な黒髪に、ガラス玉に似た瞳、透き通った白い肌。 
 幼稚園の年長になりたての春、先生に呼ばれて前に出た一人の女の子。集まったみんなの視線を一身に受けながら、どこか遠くを見ている。
 挨拶が恥ずかしいんやない。滑らかな肌は赤くなってへんかったし、桜色のワンピースを着た細い体も、全然震えてへんかった。ひらりと舞う、春を代表する花びらを背景に、やけに大人びた表情で立っている。誰に声をかけられてもにこりともせず、遊戯室の隅で絵本ばかり読んでいる。
 だから俺は声をかけた。あんまりつまらなそうやから、楽しいことを教えるつもりで。一緒に遊ぼうって言うたら「外遊びは嫌」と返されたから、これ幸いにと家に誘った。
 折れそうな腕を引っ張って、一階のリビングに連れていくと、窓際で存在感を放つグランドピアノを披露した。
 黒い長四角の椅子に飛び乗り、白い鍵盤に指を合わせる。間違えんよう、選んだんはショパンの「子犬のワルツ」。子供の手でも弾きやすい、一番得意な曲やった。
 演奏を終えると、そばでぼんやりと立つ彼女にピアノのよさを語った。難しいけど楽しい、上手く弾けると気持ちええんやって。
 興味なさそうな彼女を強引に椅子に座らせ、楽譜の説明をした。先生になった気分で、ドレミの順番や、鍵盤を弾く流れを教えた。
 まだ帰ってほしくなくて、留めるための飴を探しにキッチンに向かうと、母さんがオレンジジュースとクッキーを出してくれた。こぼさんよう気をつけてトレーにのせていると、ポロンポロンって、拙い音が耳に届く。
 ピアノを弾いてることに気づくと、嬉しくなってキッチンを飛び出す。そしてリビングに着く頃には、音の拙さは消えていた。
 純白の床に映える漆黒のピアノ。それと同じ色の髪、すらりと伸びた手足。鍵盤の上を流れるように動く指が、滑らかで心地いい音色を奏でる。春の陽気に照らされた瞳は、楽譜を見てへんかった。
 トレーが手からすり抜けて、ガチャンと音を立て足元を濡らす。
 あの美しく残酷な光景を、一生忘れない。
 俺が好きになった女の子は、天才やった。
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