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犬歯
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学園で問題を起こした翌日、ノアはローズ校があるバークシャー州に来てくれた。オリマーが連絡したらしい。ノアは顔を合わせるなり、秀麗な眉をひそめた。
「怪我をしたとは聞いたが、一体学園で何が?」
「話したく、ない」
親も兄弟もいないこの土地で、兄のようなノアが駆けつけてくれたことは心底嬉しかった。その顔を見ただけで、本当は泣きたくなるほどほっとしていた。もう少し子供であったなら、その胸に飛び込んで泣きたいくらいだった。
けれど、今は素直になれなかった。トーマスに言われたことも、逆上して暴力を振るったことも、本当はノアに知られたくなかった。
視線を逸らせば、ノアは無理に聞き出そうとすることなく、咲良の手を握り歩き出した。繊細に見えて、自分より一回りは大きなノアの手は温かかった。人の多い駅前を通り抜け、学園や繁華街とは反対川に歩いていく。
数年前にはノアの母校でもあったローズ校の周辺は馴染深いものなのだろう。静かな遊歩道は次第に人気がまばらとなり、落ち着いた雰囲気となった。雨の降った後のアスファルトの道は濡れていて、空気は澄んでいた。
「その腫れた唇についても、聞かせてはくれないのか」
正面を向いたまま語りかける声に、黙っていることが出来なかった。甘えたかったのかもしれない。それまで引き結んでいた口を開いた。
「同級生に、」
「うん」
「みんなの見ている前で口に指を突っ込まれた。オメガならしゃぶるのは好きだろう、と……」
「相手のアルファはどうなった?」
「一ヶ月の停学だ。そのままサマーバケイションたから、しばらく会わずにすむ」
ノアは秀麗な眉を顰めたが、驚きはしなかった。たぶん、事件の内容は知っていたのだろう。咲良がオメガだと言われたことも、驚いた様子はない。やはり気がついていたのだろうか。
前を見つめたまま、何も言わないノアに、今度は咲良のほうが不安になる。
「何故、相手は退学にならなかった?」
「ただの喧嘩で、大げさだ……」
咲良は自嘲するように笑った。
学園の対応は迅速だった。トーマスも咲良も、当日のうちに謹慎処分で寄宿舎に帰された。今日になってトーマスはそのまま一ヶ月の停学が命じられ、咲良には登校を許可する連絡が届いた。だが、平日は寄宿舎で過ごし、週末には帰省するウォークリーボーダーである咲は寄宿舎ではなく、駅前にある自分のアパルトメントに帰ってきていた。今更登校する気力もなく、今日はこのまま学校を休むもうと決めたところに、ノアから連絡があって、こうして会うことになった。
「本当は俺だって、相当の処分が下ってもおかしくなかった。オリマーや、……友人が庇ってくれなかったら、たぶん」
あの孤高のアルファが何を思って咲を庇ったのかは良く分からない。でも、そうでなければ、オメガで日本人の咲は、かなり不利な立場に追いやられただろう。
最も、反省もする気はないが。
手を繋いでいたノアが不意に足を止めた。物思いに沈んでいた咲良の手が引かれた。つられるように足を止めれば、白魚のような優美な手が咲の頬を包んだ。青い瞳が咲良の瞳を覗き込む。吸い込まれそうな深い青だった。
その手はトーマスがしたように咲の口へと延ばされ、親指がすっ……と、唇を撫でた。振り払おうと思えば振り払えた。けれど、拒もうとは思わなかった。ノアの真意を探して、その目を見つめ返す。
薄い皮膚をなぞる指先は、花弁に触れるように繊細に、腫れた唇を撫でた。痺れるような甘さが皮膚を走る。思わず、誘うように唇を開いていた。至近距離でお互いの視線が交わる。ノアの指が咲の口を侵し、まろやかな犬歯を撫でた。
咲の中で微睡んでいたオメガが不意に頭を起こした。それは不愉快な感情ではなかった。痺れるような甘さに身体が浸されていく……。
けれど、一度目覚めたオメガは時期ではないと、そのまま崩れ落ち落ち、また眠りの世界へと戻っていった。咲良を包んでいた官能と緊張は途切れた。
咲良は犬歯を撫でる指先に甘く噛みつけば、ノアは擽ったそうに肩をすくめて笑った。そのノアの口には穏やかな顔には不釣合な獰猛な犬歯が覗いていた。噛まれれば、容易く皮膚を裂くだろう……。アルファの証である、発達した犬歯だ。
咲良の口から指を引き抜いたノアは片手で咲の腰を抱き寄せた。唇に触れるだけのキスを落とす。触れ合ったのは一瞬なのに、じん……、と痺れるような感覚を唇に残した。
「咲のそばにいられればよかった」
「そんなこと……、」
無理に決まっている。そんな事より、こうして会いに来てくれたことが嬉しかった。なのに気持ちが大き過ぎると、かえって上手く言葉にならない。
「なんで……、ノアはそんなに優しいんだ。あんまり甘やかさないでくれ。……困る」
じわじわと口づけられた実感に、顔が赤くなる。顔を隠そうと、繋いだ手とは別の手で顔を覆えば、その手もやんわりと捕まえられてしまった。もう一度、今度は額に唇が落とされ、鋭利な犬歯が皮膚に押し当てられた。
「……なぜ?、君が俺の運命だからだ」
犬歯を覗かせた薄い唇が微笑む。
もし……、発情期が来たら……。
相手は誰でもいい。適当なアルファに噛んでほしいと考えていた。結婚はしなくていい、子供も望まない。発情期を制御するにはアルファと番う他ない。それならば、なるべく早く適当なアルファと関係を持ち噛んでもらうのが最善だ。その上で、そのアルファのそばを離れる。そう考えていた。
咲良はアルファに保護されなくては生きられないほど、無力なオメガではない。
けれど、今は。ノアがいい。
ただ一度きり、誰かに抱かれるならノアがいい。ノアのものにしてほしい。未だに発情期もないのに、そう思った。
「怪我をしたとは聞いたが、一体学園で何が?」
「話したく、ない」
親も兄弟もいないこの土地で、兄のようなノアが駆けつけてくれたことは心底嬉しかった。その顔を見ただけで、本当は泣きたくなるほどほっとしていた。もう少し子供であったなら、その胸に飛び込んで泣きたいくらいだった。
けれど、今は素直になれなかった。トーマスに言われたことも、逆上して暴力を振るったことも、本当はノアに知られたくなかった。
視線を逸らせば、ノアは無理に聞き出そうとすることなく、咲良の手を握り歩き出した。繊細に見えて、自分より一回りは大きなノアの手は温かかった。人の多い駅前を通り抜け、学園や繁華街とは反対川に歩いていく。
数年前にはノアの母校でもあったローズ校の周辺は馴染深いものなのだろう。静かな遊歩道は次第に人気がまばらとなり、落ち着いた雰囲気となった。雨の降った後のアスファルトの道は濡れていて、空気は澄んでいた。
「その腫れた唇についても、聞かせてはくれないのか」
正面を向いたまま語りかける声に、黙っていることが出来なかった。甘えたかったのかもしれない。それまで引き結んでいた口を開いた。
「同級生に、」
「うん」
「みんなの見ている前で口に指を突っ込まれた。オメガならしゃぶるのは好きだろう、と……」
「相手のアルファはどうなった?」
「一ヶ月の停学だ。そのままサマーバケイションたから、しばらく会わずにすむ」
ノアは秀麗な眉を顰めたが、驚きはしなかった。たぶん、事件の内容は知っていたのだろう。咲良がオメガだと言われたことも、驚いた様子はない。やはり気がついていたのだろうか。
前を見つめたまま、何も言わないノアに、今度は咲良のほうが不安になる。
「何故、相手は退学にならなかった?」
「ただの喧嘩で、大げさだ……」
咲良は自嘲するように笑った。
学園の対応は迅速だった。トーマスも咲良も、当日のうちに謹慎処分で寄宿舎に帰された。今日になってトーマスはそのまま一ヶ月の停学が命じられ、咲良には登校を許可する連絡が届いた。だが、平日は寄宿舎で過ごし、週末には帰省するウォークリーボーダーである咲は寄宿舎ではなく、駅前にある自分のアパルトメントに帰ってきていた。今更登校する気力もなく、今日はこのまま学校を休むもうと決めたところに、ノアから連絡があって、こうして会うことになった。
「本当は俺だって、相当の処分が下ってもおかしくなかった。オリマーや、……友人が庇ってくれなかったら、たぶん」
あの孤高のアルファが何を思って咲を庇ったのかは良く分からない。でも、そうでなければ、オメガで日本人の咲は、かなり不利な立場に追いやられただろう。
最も、反省もする気はないが。
手を繋いでいたノアが不意に足を止めた。物思いに沈んでいた咲良の手が引かれた。つられるように足を止めれば、白魚のような優美な手が咲の頬を包んだ。青い瞳が咲良の瞳を覗き込む。吸い込まれそうな深い青だった。
その手はトーマスがしたように咲の口へと延ばされ、親指がすっ……と、唇を撫でた。振り払おうと思えば振り払えた。けれど、拒もうとは思わなかった。ノアの真意を探して、その目を見つめ返す。
薄い皮膚をなぞる指先は、花弁に触れるように繊細に、腫れた唇を撫でた。痺れるような甘さが皮膚を走る。思わず、誘うように唇を開いていた。至近距離でお互いの視線が交わる。ノアの指が咲の口を侵し、まろやかな犬歯を撫でた。
咲の中で微睡んでいたオメガが不意に頭を起こした。それは不愉快な感情ではなかった。痺れるような甘さに身体が浸されていく……。
けれど、一度目覚めたオメガは時期ではないと、そのまま崩れ落ち落ち、また眠りの世界へと戻っていった。咲良を包んでいた官能と緊張は途切れた。
咲良は犬歯を撫でる指先に甘く噛みつけば、ノアは擽ったそうに肩をすくめて笑った。そのノアの口には穏やかな顔には不釣合な獰猛な犬歯が覗いていた。噛まれれば、容易く皮膚を裂くだろう……。アルファの証である、発達した犬歯だ。
咲良の口から指を引き抜いたノアは片手で咲の腰を抱き寄せた。唇に触れるだけのキスを落とす。触れ合ったのは一瞬なのに、じん……、と痺れるような感覚を唇に残した。
「咲のそばにいられればよかった」
「そんなこと……、」
無理に決まっている。そんな事より、こうして会いに来てくれたことが嬉しかった。なのに気持ちが大き過ぎると、かえって上手く言葉にならない。
「なんで……、ノアはそんなに優しいんだ。あんまり甘やかさないでくれ。……困る」
じわじわと口づけられた実感に、顔が赤くなる。顔を隠そうと、繋いだ手とは別の手で顔を覆えば、その手もやんわりと捕まえられてしまった。もう一度、今度は額に唇が落とされ、鋭利な犬歯が皮膚に押し当てられた。
「……なぜ?、君が俺の運命だからだ」
犬歯を覗かせた薄い唇が微笑む。
もし……、発情期が来たら……。
相手は誰でもいい。適当なアルファに噛んでほしいと考えていた。結婚はしなくていい、子供も望まない。発情期を制御するにはアルファと番う他ない。それならば、なるべく早く適当なアルファと関係を持ち噛んでもらうのが最善だ。その上で、そのアルファのそばを離れる。そう考えていた。
咲良はアルファに保護されなくては生きられないほど、無力なオメガではない。
けれど、今は。ノアがいい。
ただ一度きり、誰かに抱かれるならノアがいい。ノアのものにしてほしい。未だに発情期もないのに、そう思った。
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