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靴
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私の朝は暗い、冷えた、靴箱の中で始まる。
私は靴です。正確には血と涙と汗を流して働いているサラリーマンの履いている靴です。今年の春でかれこれ五年は共に戦っている。
狭い部屋から目覚まし時計の音が響く。しかし彼は起きません。目覚まし時計は暫く鳴り響いた後、ピタリと止みました。私も二度寝しようかなぁと思ったところで彼の慌ただしい音が聞こえます。
「やっばい、遅刻だ!」
どうやら寝坊をしたみたいです。
こうして彼の慌ただしい今日も始まりました。昨日の夜はどうやら雨が降っていたみたいで、コンクリートの地面は湿っています。ゴツゴツしていてとても痛いのです。
こうしてみると私たちが始めて出会った頃を思い出します。五年前のあの日、靴屋で私たちは出会いました。私はその頃の最新モデルで、彼は新入社員でこれから共に過ごす靴を探していました。
お互いにこれからの未来に希望を持ち、無限の可能性を秘めていました。初めは朝の通勤列車(これは今でも慣れる事はありませんが)、初見では絶対に迷うであろう乗り換えなど会社に行くだけでも靴底がすり減る思いでした。彼の会社はそこそこの企業ですがまだまだ平社員なのです。けれども五年も付き合っている私からすれば、彼は仕事は普通にこなしますし、周りの同僚や先輩からも好かれている方だと思います。しかしイマイチ出世しないのです。彼は。
「僕はお金とか、名誉とか、そうゆうのはいいんだ。周りからはよく無欲だと言われるよ。」とよく飲み会の場で言っています。
彼のそういったところが私も好きなのですが、人間という生き物が無欲でいられるということが、本当にあるのでしょうか?靴として生を受けた私としては残念ながら理解する事が出来ません。
私達は、主人の足を守り日々の生活の一部になり支え続ける、その事に尽くし、生きていくのです。いつか壊れて用済みになる、その日まで。
度重なるデスクワーク、職場に鳴り響くキーボードの無機質な音。絡み合う無数のリズムは一つの音楽のようだ。
彼の仕事は基本的にデスクワークなので、職場につけば、私の役目は基本的にありません。暗くて、狭くて、そして暇です。やる事すれば、寝るくらいしか思いつきません。ウトウトしていると、彼の仕事はどうやら終わったようです。帰りの支度を始めました。移動している時にちらりと時計を見たところ、十時を指していました。今日はいつもより早い。
「今日のご飯はどうしようか。」
彼の独り言を聞ききながら帰ります。私はカレーというものを食べて見たいな。靴だけど。
夜の電車は朝よりは静かで人も多くはない。私はこの時間帯の電車に乗るのが好きだ。朝の電車はひたすら混んでいて、電車の揺れに耐えながら乗るので周りを見る余裕はない。しかしこの時間帯は座る事ができるので落ち着いて周りを見る事ができる。
一日の仕事の疲れを漂わせる人もいれば、夜はまだまだこれから!と言わんばかりの雰囲気の若者もいる。電車のスピードに乗り、景色が流れる。住宅街が、電柱が、木が。
この電車にはいろんな人が何処かに行こうと、もしくは帰ろうとして乗っている。そして、彼らを影から支えるのが私達の役目。今日も彼らは靴を履いている。
家に着く。流石に彼の顔にも疲労の色が見える。しかしそれでも、彼は私を磨いてくれるのだ。毎日玄関だけ明かりがついた家の中で。寂しい雰囲気と、私を磨く一定のリズムが、今日の一日の終わりを告げる。そのおかげで私は五年間休みなく彼を支える事が、彼の足として働く事ができる。
「いつもありがとな。これからもよろしく。」
(ええ。こちらこそ、これからもよろしくお願いします。)
そうしてまた同じ毎日が何度も、何度も。桜が咲き、散り、みんなの着る服が薄くなったり厚くなったり、そういった季節の移り変わりが何度も訪れ、周りの人々の履く靴も変わっていった。職場で出会った知り合いもいつに間にか変わっていく。私は彼を支え続ける。いつまでも、どこまでも。
そうして二年の時が過ぎました。
時間と一緒に私と彼の生活は変わっていきました。
まず、出世とは無縁のはずだった彼がまさかのスピード出世、取締役に見事に就任したのです。彼は一気に会社を大きくし、そしてお金持ちになりました。そして、その彼を支えてくれる女房も出会うことができました。彼の今までの努力が実を結んだのです。
私は彼の靴として七年近く彼を支えてきた事に誇りを持ちます。
彼は変わりました。強くなりました。
私は古くなりました。弱くなりました。
家は大きくなり、身に付けるものも段々と豪華なり、靴箱には最新の、綺麗な靴が増えていき、私は靴箱の奥に押しやられました。出番もなく、暗い靴箱の中で過ごす日も少なくはない。けれど、私にも彼女ができたのです。それは彼が今の女房と出会った時に彼女が履いていたハイヒールです。彼女も私と同じ境遇に置かれていたことで、仲良くなることができました。
私達は、主人の足を守り日々の生活の一部になり支え続ける、その事に尽くし、生きてきました。
彼から必要とされていない今は、寂しく悲しいかな、けど、私には彼女がいる。成長していく彼を、この先の未来がある彼を、これからは靴箱から見守っていきたいと、今はそう思う。
ーー二年後ーー
冬の、夜の玄関はとても冷えていて、もちろん靴箱の中も寒くて、たまったもんじゃあありませんでしたが、何とか乗り越え、最近は春の予感を感じるようになり、夜もだいぶ楽に過ごせるようになりました。
やはり時間が過ぎるのは早く、この二年の間で物事は大きく変わりました。彼らは今、とても忙しそうで、そして幸せそうです。
赤ん坊の泣き声が家中に響き渡ります。彼らは子供を授かりました。
そう遠くはない未来、この靴箱にも子供用の靴ーーー私たちにも子供が授かれそうです。
私は靴です。正確には血と涙と汗を流して働いているサラリーマンの履いている靴です。今年の春でかれこれ五年は共に戦っている。
狭い部屋から目覚まし時計の音が響く。しかし彼は起きません。目覚まし時計は暫く鳴り響いた後、ピタリと止みました。私も二度寝しようかなぁと思ったところで彼の慌ただしい音が聞こえます。
「やっばい、遅刻だ!」
どうやら寝坊をしたみたいです。
こうして彼の慌ただしい今日も始まりました。昨日の夜はどうやら雨が降っていたみたいで、コンクリートの地面は湿っています。ゴツゴツしていてとても痛いのです。
こうしてみると私たちが始めて出会った頃を思い出します。五年前のあの日、靴屋で私たちは出会いました。私はその頃の最新モデルで、彼は新入社員でこれから共に過ごす靴を探していました。
お互いにこれからの未来に希望を持ち、無限の可能性を秘めていました。初めは朝の通勤列車(これは今でも慣れる事はありませんが)、初見では絶対に迷うであろう乗り換えなど会社に行くだけでも靴底がすり減る思いでした。彼の会社はそこそこの企業ですがまだまだ平社員なのです。けれども五年も付き合っている私からすれば、彼は仕事は普通にこなしますし、周りの同僚や先輩からも好かれている方だと思います。しかしイマイチ出世しないのです。彼は。
「僕はお金とか、名誉とか、そうゆうのはいいんだ。周りからはよく無欲だと言われるよ。」とよく飲み会の場で言っています。
彼のそういったところが私も好きなのですが、人間という生き物が無欲でいられるということが、本当にあるのでしょうか?靴として生を受けた私としては残念ながら理解する事が出来ません。
私達は、主人の足を守り日々の生活の一部になり支え続ける、その事に尽くし、生きていくのです。いつか壊れて用済みになる、その日まで。
度重なるデスクワーク、職場に鳴り響くキーボードの無機質な音。絡み合う無数のリズムは一つの音楽のようだ。
彼の仕事は基本的にデスクワークなので、職場につけば、私の役目は基本的にありません。暗くて、狭くて、そして暇です。やる事すれば、寝るくらいしか思いつきません。ウトウトしていると、彼の仕事はどうやら終わったようです。帰りの支度を始めました。移動している時にちらりと時計を見たところ、十時を指していました。今日はいつもより早い。
「今日のご飯はどうしようか。」
彼の独り言を聞ききながら帰ります。私はカレーというものを食べて見たいな。靴だけど。
夜の電車は朝よりは静かで人も多くはない。私はこの時間帯の電車に乗るのが好きだ。朝の電車はひたすら混んでいて、電車の揺れに耐えながら乗るので周りを見る余裕はない。しかしこの時間帯は座る事ができるので落ち着いて周りを見る事ができる。
一日の仕事の疲れを漂わせる人もいれば、夜はまだまだこれから!と言わんばかりの雰囲気の若者もいる。電車のスピードに乗り、景色が流れる。住宅街が、電柱が、木が。
この電車にはいろんな人が何処かに行こうと、もしくは帰ろうとして乗っている。そして、彼らを影から支えるのが私達の役目。今日も彼らは靴を履いている。
家に着く。流石に彼の顔にも疲労の色が見える。しかしそれでも、彼は私を磨いてくれるのだ。毎日玄関だけ明かりがついた家の中で。寂しい雰囲気と、私を磨く一定のリズムが、今日の一日の終わりを告げる。そのおかげで私は五年間休みなく彼を支える事が、彼の足として働く事ができる。
「いつもありがとな。これからもよろしく。」
(ええ。こちらこそ、これからもよろしくお願いします。)
そうしてまた同じ毎日が何度も、何度も。桜が咲き、散り、みんなの着る服が薄くなったり厚くなったり、そういった季節の移り変わりが何度も訪れ、周りの人々の履く靴も変わっていった。職場で出会った知り合いもいつに間にか変わっていく。私は彼を支え続ける。いつまでも、どこまでも。
そうして二年の時が過ぎました。
時間と一緒に私と彼の生活は変わっていきました。
まず、出世とは無縁のはずだった彼がまさかのスピード出世、取締役に見事に就任したのです。彼は一気に会社を大きくし、そしてお金持ちになりました。そして、その彼を支えてくれる女房も出会うことができました。彼の今までの努力が実を結んだのです。
私は彼の靴として七年近く彼を支えてきた事に誇りを持ちます。
彼は変わりました。強くなりました。
私は古くなりました。弱くなりました。
家は大きくなり、身に付けるものも段々と豪華なり、靴箱には最新の、綺麗な靴が増えていき、私は靴箱の奥に押しやられました。出番もなく、暗い靴箱の中で過ごす日も少なくはない。けれど、私にも彼女ができたのです。それは彼が今の女房と出会った時に彼女が履いていたハイヒールです。彼女も私と同じ境遇に置かれていたことで、仲良くなることができました。
私達は、主人の足を守り日々の生活の一部になり支え続ける、その事に尽くし、生きてきました。
彼から必要とされていない今は、寂しく悲しいかな、けど、私には彼女がいる。成長していく彼を、この先の未来がある彼を、これからは靴箱から見守っていきたいと、今はそう思う。
ーー二年後ーー
冬の、夜の玄関はとても冷えていて、もちろん靴箱の中も寒くて、たまったもんじゃあありませんでしたが、何とか乗り越え、最近は春の予感を感じるようになり、夜もだいぶ楽に過ごせるようになりました。
やはり時間が過ぎるのは早く、この二年の間で物事は大きく変わりました。彼らは今、とても忙しそうで、そして幸せそうです。
赤ん坊の泣き声が家中に響き渡ります。彼らは子供を授かりました。
そう遠くはない未来、この靴箱にも子供用の靴ーーー私たちにも子供が授かれそうです。
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