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イレモノ
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「板垣、お前もこの仕事を始めて確か二年ぐらいだったか。お前は出来るやつだ。そろそろ大きな仕事を任せてみても良いかもな。」
電話の呼び出し音、それに応える職場の人。紙にこすらせるペンの音、禁煙が進んでいるの世の中なのに今時職場でタバコなんて吸っている人もいる。
「はい。ありがとうございます。是非やらせてください。」僕は喜んで仕事を引き受ける。僕は記者を始めて二年。
「そういえばお前は歳はいくつだっけか。」
「二十三です。」僕は答える。
僕が記者を始めたきっかけは、大学一年の時に知り合った僕にとって二人目の彼女にあった。同じ文学部で、取っていた講義が大体一緒で、それで一緒にいる時間が多く、自然とそうなった。
彼女とはよく好きな小説の話をした。僕は村上春樹や太宰治などを読むのに対して彼女はライトノベルを好んで読んでいた。
「ライトノベルか。僕も読んだことはあるけどね、ストーリーの展開とか、アイディアとかは面白いと思うんだけど、文体が軽薄すぎて逆に読み辛い時もあるんだよね。」僕は困ったような顔をして言う。
「想像は創造を生むけど、妄想は虚無しか生まない。」
「でも、ライトノベルの全てがそうゆう作品ばかりではないのよ。」
そう言って彼女はオススメの本を僕に貸してくた。僕もオススメの本を貸した。こうして彼女と本の話をする事は僕にはとても楽しかった。
大学二年生の頃、僕は一つの悩みを抱えていた。いや、正確にいえばずっと前から心に抱いていたものの、今その壁に衝突した、と言う事だろう。
僕にはやりたい事がない。
これまで普通の小学、中学、高校生活を送ってきていた。友人が多いわけでも少ないわけでもなく、クラスの中心でもカーストの底辺にいたわけでもない。極めて普通の人生だった。大学も県内の一般的な大学に入った。
僕はこの普通に飽きてしまった。
その事を僕はベットの上で彼女に打ち明けた。
「板垣君はこのありふれた現状を打破したいんだねきっと。」彼女は僕の隣で微笑みながら答えてくれた。
「そうなのかもしれない。」僕は俯きながらそう言う。彼女の胸が目の前にあった。
「んー、板垣君は聞き上手だからなぁ。そうだ、記者とかはどう?色々な人に色々な話を聞いて自分の世界を広げるのよ。」
僕は彼女の言葉に衝撃を受けた。その一言で僕の目指すべき道はある程度決まってしまったように思われた。
それから僕は大学を中退した。僕は中退する前日に彼女に話した。
「そう、板垣君の決めた事なら私は何も言わないよ。けど、一つだけ言わせて。この世界は卵よ。もし何かを変えるには殻を破らなければならないわ。」彼女はとても真剣な表情をしていた。
そうして僕は大学を中退した。もともと大学でやりたいこともあるわけもなく、やりたいことを見つけた自分にとって大学はもうすでに用済みだった。彼女とは別れた。初めは連絡を取り合っていたが会う事は全く無かったため次第と連絡は途切れた。彼女の言っていた殻を破くという事はきっとそうゆう事だったのだろう。
そうして僕は何とかこの会社で記者として働いている。僕に任された仕事は一年前、当時十七歳の高校生の伊藤裕一が学校の教室で男女合わせて三人を殺したという事件の取材をする事だった。
「しかしまあ、何とも酷い事件だよな。」と田崎先輩は苦虫でも噛んでいるかのような顔をして言った。田崎先輩のお子さんは二人いて、十六と十四の男の子らしい。
まだ世間には公表されていない。理由は犯人である彼がまだ未成年であること、さらにその犯人の証言によると人の頭部が容器に見えるらしいのだ。生徒の無残な死、犯人の異常さも相まったせいで警察は慎重になっている。
「早速明日からここで取材をしてきてくれ。まあ記事は警察が公表してから出すわけだし、面会は全部で四回だ。お前はその子の話を聞いてくるだけでいいみたいなもんだから。あんまり肩に力入れんなよ。」と言いながら面会場所が書いてあるメモを渡した。
翌日、僕は昨日渡されたメモを元に向かった場所は少年院だった。彼は一時的にここで拘留されているらしい。地下鉄を降りて十分ほど歩いた先にそれはあった。今は十一月だからなぁ段々と風は冷たくなっていく。
「板垣さんですね。どうぞこちらへ。」看守だろうか、ガタイのいい男に面会室まで二人で歩く。廊下は白を基調としていて、植物など生活を彩る様なものは一切置いてはいなかった。
「ここです。」看守が低い声で言った。僕は彼にお礼を言って部屋に入る。ドアを開けて入ると一枚のガラスを隔てた向こうに彼、伊藤裕一が座っていた。学校で、みんなが席についている中転校生が一人教室に入ってきた時の興味を孕んだ視線。そんな目で彼は僕を見つめていた。
「初めまして。君が伊藤裕一君だね?僕は板垣大輔。しばらく君について取材させてもらいます。でも、今日は初めてだしそんなに聞くようなことはしないよ。」と僕は彼に警戒心を抱かせないように出来る限りの笑顔で言った。
そうですか。と彼は少しばかりの微笑を僕に向けた。それは顔に貼り付けたような、予め用意されていたような笑顔だった。これで十八歳か。
僕は咳払いをする。
「確か裕一君は前の裁判で人の頭部が容器に見えると言っていたね。それと、今回の事件が何か関係があるのかな?」彼の恐らく存在するであろう闇の部分を刺激しない様に、それでいて少しでも核心に近づける様に僕は慎重に言葉を選ぶ。子供の頃に遊んでいた黒ひげ危機一髪の様に。
裕一君は俯いて黙っている。部屋は沈黙に包まれている。
「板垣さんが言っているように、俺は確かに人の頭部が容器に見えます。でも、それが今回の事件に直接関わっている事については今思うとあまり関係ないと思います。」彼は僕の目を直接見ずに少し俯いて、そう言った。
「そもそも、容器に見えてしまう病気はどうゆうものなのかな?」
「この病気になったのは確か十二年前ぐらいだから小学校一年生ぐらいの時ですかね。朝目覚めたら急に容器に見えるんです。人の顔が。人の性格も一人一人違うように、容器の形も人によって違うみたいなんです。花瓶に見えたり、ある人はフラスコのような物に見えたりするんですよ。」裕一君は何度も聞かれたことであろう質問に対して笑顔でスラスラと言葉を並べ、答える。
「容器の種類も違えば形も違ってきたりもします。例えば、花瓶の人は形がとても綺麗で、美しかったです。実際に性格も素晴らしい人でした。それに対してフラスコの人は形が原型を保っていなくて本当にフラスコなのかすらはっきりしない程でした。その人の性格は捻じ曲がってて最悪でした。俺が見ている容器の形はどうやら、その人の性格を表しているようです。」
「ちなみに、僕はどんな顔をしているのかな?」と僕は聞いてみる。
「あーそれは知らない方がいいですよ俺も貴方の顔についてはあまり言いたくはないです。」とケタケタ笑いながら答える。
「それに俺は人の感情まで見ることができます。ええ。『見える』んです。感情を読もうと目を凝らすと、容器が透明になるんです。感情は色の付いた液体で、色の付き方で感情がある程度判断できるんです。例えば怒っている時は赤色になったり、悲しい時は青色、緊張している時はオレンジ色だったりします。逆に落ち着いている時は緑色です。嬉しい時は桃色、混乱していると大体三色ぐらいの色が混ざってグチャグチャになります。」僕は急いでメモを取る。
僕が悪意は何色かと聞いたら彼は黒だと答えた。
「時間です。」と看守が遮る。
「じゃあまた今度だね。今日はありがとう。」と僕は礼を言う。彼は薄い膜のような笑顔を貼り付けてこちらを見ていた。
僕は会社のデスクで一週間前に伊藤裕一君にした取材を元に記事を書いていた。彼の笑い声の残滓は僕の鼓膜に深い余韻を残している。
「お疲れ。彼はどうだったか?」と言いながら田崎先輩が缶コーヒーを両手に持って後ろから声をかけてきた。僕は先輩に礼を言って、缶コーヒーを受け取る。
「物静かなこというか何というか、あれだけの事件を起こしていて全くといって平凡というか。」
「んー何だか難しいな。」先輩が頭を掻きながら言う。
「裕一君のように、性格が普通に見える人間に限って何考えてるのか分からないですからね。」僕はコーヒーを飲みながら言う。
「次に彼との面会はいつだ?」
「えーっと、三日後ですね。」手帳を鞄から手帳を手繰り寄せ予定を確認する。
「そうか。じゃあ頑張れよ。」と言い僕の肩をバシンと叩いて仕事に戻っていった。肩の痛みは僕の中枢神経系を刺激し、自然と僕を高揚させた。
白を基調とした四畳の部屋に、窓が一枚。そこからは朝日が差し込んでいるが四本の鉄格子のせいで、入り込む月の光は途切れて俺の足先を照らし出す。壁に掛けられた小さな時計は四時二十三分を指している。眠れない夜は続く。三角座りをして、目をつぶってみる。軽薄な景色は直ぐに闇に包まれる。闇の中で想像する。自分をここじゃない何処かに意識を移動させる。
そうすると俺は教室にいる。自分は椅子に座り、クラスメイト達と同じ授業を受ける。俺はふと、席を立つ。教室の後ろに置いてあるだいぶ大きめの花瓶を両手で持つ。当然みんなの視線一気に集める。俺は気にせずに一人の男に近づく。俺を虐めていた三人の中の一人だ。目鼻立ちがしっかりしていて、美男子でクラスの人気者、イジメグループでも中心にいた人物だった。彼はしかめっ面をして俺のことを見上げている。俺は彼によく蹴られ、買い出しに行かされていた。
「ちょっとぉ、何やってんのよ裕一。」隣の席に座っていた彼の彼女が俺に声をかけてくる。俺が虐められている時は彼女は後ろでニタニタ笑いながら写真を撮っていた。
俺はなんの躊躇もなく、まるで朝の通学路を歩くような清々しさで、持っていた花瓶を目の前にいた彼に力強く振りかざした。その時の強く、鈍い感触が俺の想像を黒く塗りつぶす。
俺は静かに目を開けた。目の前に広がる景色は変わりはなく、小さな時計は休むことなく時を刻み続ける。時計は四時三十五分を指していた。夜はまだ長い。
目覚まし時計が鳴り響く。目覚まし時計は少し遠くにある。僕はまるでゾンビのように呻きながら這って止めに行く。今は六時三十分。今日は裕一くんとの二回目の取材になる。十一時に取材する予定だからまだ時間はある。
朝の番組を見ながら朝食を胃に収めていく。テレビの中でお天気お姉さんが今日は全国的に雨模様だといい、美人キャスターがニュースを読み上げる。ニュースは殺人、天皇陛下のご退位について、スポーツになど様々なジャンルを報道する。その大半は僕にとってどうでもいいようなニュースだったりもする。中国のパンダの可愛い映像を見た後に家を出る。
時刻は十時半。僕は前回と同じ少年院にいる。
「お久しぶりです。二週間ほどでしょうか。」と前と同じ看守が生真面目な顔で言う。面会場所も前と同じ。前と違う所を挙げるとしたら、もう十二月に入って寒さがより一層厳しくなったことぐらいだ。
裕一君がいる部屋の前に立つ。僕の鼓膜には未だ彼の笑い声が、網膜には別れ際の表情がこびりついてまだ剥がれない。
「ひとつよろしいでしょうか。」看守がドアノブに手をかけようとした僕に言ってくる。
「なんでしょうか。」僕は微笑む。
「彼は貴方と面会した翌日からよくうなされていることがあります。夜泣きはそこらへんの赤ん坊よりも酷い時があるほどです。貴方の仕事のことはよく存じているつもりです。ですが、出来ることなら彼を救ってあげてください。」
僕は頷いてノックをしてから部屋に入る。裕一君は壁に寄りかかっていた。目の下は以前会った時よりもクマが深くなったような気がする。
「どうもこんにちは。お久しぶりですね。」と気怠そうに立ちながらこちらに向かってくる。
「調子は良くないみたいだね。」と僕は椅子に座り、彼と目を合わせながら言った。
「ええ。実は最近悪い夢ばかり見ていて。睡眠不足なんですよ。」
「どんな夢を見ていたんだい?」
「俺があの三人を殺した時の夢です。」と僕と視線を合わせずに言う。
「正直言って、とてもスッキリしています。あの三人は死んで当然のクズだったから。」とまたにやけながら言う。
「その三人はどう言う人だったのかな?」暫く無言の時間が続いた。
「・・・あいつらはクラスの中心人物でした。」そう言った彼の顔は苦虫を噛み潰したような、そんな表情をしていた。
「男が二人に女が一人。全員成績トップで常に上位を占めている優等生でした。三人のうちの一人の佐藤大地は五人の中でも特に優秀で、顔は綺麗に形作られてはいるけど、何処か怪しい雰囲気を薄いベールのように纏っているような壺で、リーダー気質に溢れている、将来有望な人物でした。両親は公務員で常に完璧を求められていたようです。奴は親の高い期待に常に答える反面、ストレスの発散が俺に向いていました。二人目は運動神経抜群の益田陽一。彼の所属しているラグビー部は何度も全国大会に出場しています。ガタイが良くて、彼には良くサンドバックにされていました。顔は茶色に濁った、昔の有名な人が作った豪快な作風の漂う陶器みたいなものでした。最後に佐藤大地の彼女の赤崎依子。とても形が整われた、何のくすみも汚れも無いツルリとした陶器をしていてモデルもやっているみたいです。彼女には俺がいじめられている様子をクラスのグループラインに晒された時もありました。」
「それで君はいじめに耐えられなくなって彼らを殺したのか。」
「本当は全員殺してやりたかったですけどね。」またにやける。
それから裕一君は大きく息を吐き、椅子に寄り掛かって少しだけ、でも楽しそうに笑う。
板垣さん。なんだい。少しだけ、自分の話をしてもいいですか。もちろん。
死が、転がっていたんです。と彼は最初にそう言った。
「まるで切っていたジャガイモが手を滑らせて排水溝までゴロゴロと転がっていくみたいに。転がり終わったら排水溝の溝に入ったまま。ただそこにあるだけなんです。俺は教室で彼らを殺した時にそんな感じに思えたんです。」
僕は黙って聞いておく。でも、彼が話の続きをしようとした時に看守に時間だと止められてしまった。
「じゃあこの話は手紙に書いてでもしようと思います。俺が忘れなければ。」と少し残念そうに言った。僕は静かに部屋を出た。外は雪が降っていた。風はない。
裕一君との取材が終わった後僕は会社の自分のデスクにいた。壁にかかっている時計は十五時三十六分を指していた。僕はこれまでの取材のメモをまとめていた。
「おっだいぶ進んでるじゃないか。と田崎先輩が後ろから覗き込んでいる。
「死が転がってるってか。だいぶ面白いことを言うじゃないか。それでこの親に取材っていう枠はなんだ?」とパソコンの画面を指して言う。
「裕一君の親に明日取材しにいくんです。なかなかアポが取れなくて。やっとできます。」今のところは記事は順調に進んでいる。
「そうか。いよいよ大詰めだな。頑張れよ。」また肩をバシンと力強く叩いてくれる。
今日の分の仕事は終わり、時計を見るとそろそろ二十時を回そうなので帰ることにした。
外は前に裕一君に取材した時よりもさらに冷え込んでいる。会社から家までは歩いて通勤している。歩いている道中は裕一君のことを考えていた。顔が容器に見える病気、それは親しい人からしたらどうんな気分なんだろうか。一人の人間に全てを見抜かれる、もしかしたら自分でも気づかなかった一面も知られているのかもしれない、感情だって彼の前では筒抜けに違いない。人は自分とは異質なものは排除したがる傾向にある。殺された三人は彼の異質さに気づき、恐れ、そして排除しようといたのかもしれない。ふと上を見たら蒼い空は灰色の雲に遮られていた。そろそろ雪が降りそうだ。
裕一君の両親と会う日も僕はいつも通りの時間帯に目覚まし時計で目が覚めた。朝食のパンにブラックのコーヒーを胃に納め、温かいお湯で髭を剃って十時二十分に家を出た。両親の家は僕の家からはだいぶ遠く、予め呼んでおいたタクシーで移動した。裕一君の父親は浩一さん、母親は由香里さんという名前だった。タクシーの運転手(寡黙で真面目そうな雰囲気で眼鏡をかけていた)にメモに書いてある住所を伝える。運転手はハイ、と返事だけをしてそのまま車を発進させた。道路は比較的空いていた。左から右に流れていく景色を見ていると僕の思考も時間も、加速して流れていくような、奇妙な感じがした。
大体三十分くらいで夫婦の家に着いた。僕は支払いを済ませてタクシーを出る。クリーム色の壁に、赤い色の屋根は少しばかり色褪せていた。庭は綺麗にされていて花壇には様々な種類の花が少し古ぼけた家を誤魔化すように咲いていた。インターホンを押し、僕であることを伝える。すぐにドアが開き由香里さんが出てきた。由香里さんはくっきりとした目鼻立ちをしていて美しい印象を持ったがどこかやつれているように見えた。
「どうぞお入りください。」としゃがれた声で言った。夫婦の家は二階建てで大分広い家だった。僕はリビングに通され、待っていると温かいお茶が出た。それを飲んでいると二階から浩一さんが降りてきた。お互いに名刺を交換する。浩介さんは建築関係の会社の社長をやっていた。この家も自分で建てたそうだ。
僕と夫婦は対面する形で座っている。僕は今回の事件を起こす前に裕一君に何か変化はあったのかを聞いた。由香里さんは首を横に振りそういった変化は感じられなかった、むしろどこかしら明るい感じがしたと言った。
「今でもあの子が人を殺しただなんて信じられません。」と由香里さんが虚ろな目をして言った。
「裕一には何があったんでしょうか。そんな、殺してしまうくらいいじめられていたのなら一言、たった一言言ってくれるだけでよかったのに!」由香里さんはポロポロと目から涙をこぼしていた。
「君のせいじゃない、裕一だってまだ若い。これから支えて生きていこう、三人で。」と浩一さんが慰めている。
僕はふと壁にかかっている時計を見た。時刻は十二時に差し掛かろうとしていた。落ち着いた由香里さんが取り乱したお詫びにお昼を食べていかないかと言ってくれたのだが、あくまで仕事で、取材に来たのだから食事はまた今度の機会にして欲しいと言ったら真面目ね、と由香里さんが微笑みながら必ずよ、と言った。
裕一君が自殺したと田崎先輩から言われたのは四時二十分ぐらいのことだった。舌を噛み切って死んでいたらしい。肝心の記事の件は取材は二回しかやっていなかったが、由香里さん達に取材してあったおかげで中止ではなく規模を縮小して載せる事になった、と田崎先輩は申し訳なさそうに言った。僕はそれを聞かされて真っ先に思ったのは残されていった由香里さんと浩一さんのことだった。きっとこの事はもう知らされているだろう。夕暮れで赤く染まった広いリビングで、裕一君を愛していて、絶望していなかったあの二人は一体何を思うのだろう。僕には見当がつかなかった。
裕一君が自殺してから三日後、僕は彼の葬式に来ていた。会社は休んだ。葬式はとても小規模で由香里さんと裕一さんはもちろん、あとは親戚ぐらいしかいなかった。彼はクラスメイトを殺した。当たり前と言ったらそうだった。
葬式が終わった後僕は由香里さんにある一通の手紙を渡された。
「祐一があなた宛に書いた手紙です。」いわゆる僕に対しての遺書だった。由香里さんは前に会った時よりもやつれているように見えた。僕は礼を言ってその場を後にした。
僕はそのまま家に帰った。時刻はそろそろ三時になろうといていた。僕はコーヒーをいれ、手紙を読んだ。
遺書 板垣さんへ
いつか板垣さんに手紙を書くと言っていましたが、それがこんな形になってしまった事をとても申し訳なく思います。どうすることにもできなかったのです。俺の自殺は朝が来て、太陽が昇り昼になり、そして沈んで夜が来るようにとても当たり前で自然な事だったように感じるのです。もちろん誰にも、当事者である俺でさえも逆らう事も止めることも出来ませんでした。
取材が中途半端になってしまったことも申し訳ないと思っています。まだあなたにお話できていないことがいくつかありました。ですからこの手紙で一つだけ、お話したいと思います。あなたと会う時から、いやもっと大分前のクラスメイトを殺す前から俺は人の顔が容器に見えなくなっていたのです。俺は目が付いていてそれは忙しなく動いていて、鼻は匂いを嗅ぎ、口は言葉を発していました。
つまり、俺は普通の人間に戻ることができたのです。それと同時に俺は困惑しました。人の感情が分からなくなりました。目の前の人間が一体どんな事を思い俺に接しているのか分からないのです。そしてその「分からない」が俺をとても不安にさせるのです。今まで俺は人の感情は色だけで知ることができました。人の顔はあらゆる情報を伝えてくれると俺は知りました。悪意や嘲笑、侮蔑。
俺の殺人の動機はただ彼らのいじめに耐えられなかったからです。あいつらは俺を裸にさせ教室に入れたのです。もちろんクラスのみんなに見られました。それだけでも耐えられなかったのに俺は更なる地獄を見ました。クラスの全員が同じ様な、ニタニタした様な表情をしていました。誰も助けてくれない、みんな俺を犠牲にして、あの三人と同じ側に立って、ただ見ているのです。そこに「罪悪感」が混じっていれば俺はまだ、ああこいつらは俺と同じように力が無いだけなんだ、と思って我慢することができたと思います。でも、俺はもう人の感情が見ることができないから、クラスメイト達が本当に「罪悪感」を感じているのかわかりませんでした。「分からない」という不安が俺の身体を、思考を黒く染めて、彼らを殺してしまいました。これもまたとても自然的なことでした。
とりあえずこれで話す事はありません。あなたの記事の助けになればと思います。あなたと話すのは、なんだかとても楽しかった。
もういろいろ疲れたので書くのを、やめますね。
この手紙を読み終えた時、随分前に付き合っていた彼女の言葉をふと思い出した。
世界は卵だ。もし何かを変えるのであれば、その殻を破らなければならない。
コーヒーはすでに冷め、真っ赤に染まった夕日が僕の部屋を燃やしていく。
彼女が今どこで何をしているのかは知らないし、随分と彼女には酷いことをしてしまったと、今更ながらに思った。
電話の呼び出し音、それに応える職場の人。紙にこすらせるペンの音、禁煙が進んでいるの世の中なのに今時職場でタバコなんて吸っている人もいる。
「はい。ありがとうございます。是非やらせてください。」僕は喜んで仕事を引き受ける。僕は記者を始めて二年。
「そういえばお前は歳はいくつだっけか。」
「二十三です。」僕は答える。
僕が記者を始めたきっかけは、大学一年の時に知り合った僕にとって二人目の彼女にあった。同じ文学部で、取っていた講義が大体一緒で、それで一緒にいる時間が多く、自然とそうなった。
彼女とはよく好きな小説の話をした。僕は村上春樹や太宰治などを読むのに対して彼女はライトノベルを好んで読んでいた。
「ライトノベルか。僕も読んだことはあるけどね、ストーリーの展開とか、アイディアとかは面白いと思うんだけど、文体が軽薄すぎて逆に読み辛い時もあるんだよね。」僕は困ったような顔をして言う。
「想像は創造を生むけど、妄想は虚無しか生まない。」
「でも、ライトノベルの全てがそうゆう作品ばかりではないのよ。」
そう言って彼女はオススメの本を僕に貸してくた。僕もオススメの本を貸した。こうして彼女と本の話をする事は僕にはとても楽しかった。
大学二年生の頃、僕は一つの悩みを抱えていた。いや、正確にいえばずっと前から心に抱いていたものの、今その壁に衝突した、と言う事だろう。
僕にはやりたい事がない。
これまで普通の小学、中学、高校生活を送ってきていた。友人が多いわけでも少ないわけでもなく、クラスの中心でもカーストの底辺にいたわけでもない。極めて普通の人生だった。大学も県内の一般的な大学に入った。
僕はこの普通に飽きてしまった。
その事を僕はベットの上で彼女に打ち明けた。
「板垣君はこのありふれた現状を打破したいんだねきっと。」彼女は僕の隣で微笑みながら答えてくれた。
「そうなのかもしれない。」僕は俯きながらそう言う。彼女の胸が目の前にあった。
「んー、板垣君は聞き上手だからなぁ。そうだ、記者とかはどう?色々な人に色々な話を聞いて自分の世界を広げるのよ。」
僕は彼女の言葉に衝撃を受けた。その一言で僕の目指すべき道はある程度決まってしまったように思われた。
それから僕は大学を中退した。僕は中退する前日に彼女に話した。
「そう、板垣君の決めた事なら私は何も言わないよ。けど、一つだけ言わせて。この世界は卵よ。もし何かを変えるには殻を破らなければならないわ。」彼女はとても真剣な表情をしていた。
そうして僕は大学を中退した。もともと大学でやりたいこともあるわけもなく、やりたいことを見つけた自分にとって大学はもうすでに用済みだった。彼女とは別れた。初めは連絡を取り合っていたが会う事は全く無かったため次第と連絡は途切れた。彼女の言っていた殻を破くという事はきっとそうゆう事だったのだろう。
そうして僕は何とかこの会社で記者として働いている。僕に任された仕事は一年前、当時十七歳の高校生の伊藤裕一が学校の教室で男女合わせて三人を殺したという事件の取材をする事だった。
「しかしまあ、何とも酷い事件だよな。」と田崎先輩は苦虫でも噛んでいるかのような顔をして言った。田崎先輩のお子さんは二人いて、十六と十四の男の子らしい。
まだ世間には公表されていない。理由は犯人である彼がまだ未成年であること、さらにその犯人の証言によると人の頭部が容器に見えるらしいのだ。生徒の無残な死、犯人の異常さも相まったせいで警察は慎重になっている。
「早速明日からここで取材をしてきてくれ。まあ記事は警察が公表してから出すわけだし、面会は全部で四回だ。お前はその子の話を聞いてくるだけでいいみたいなもんだから。あんまり肩に力入れんなよ。」と言いながら面会場所が書いてあるメモを渡した。
翌日、僕は昨日渡されたメモを元に向かった場所は少年院だった。彼は一時的にここで拘留されているらしい。地下鉄を降りて十分ほど歩いた先にそれはあった。今は十一月だからなぁ段々と風は冷たくなっていく。
「板垣さんですね。どうぞこちらへ。」看守だろうか、ガタイのいい男に面会室まで二人で歩く。廊下は白を基調としていて、植物など生活を彩る様なものは一切置いてはいなかった。
「ここです。」看守が低い声で言った。僕は彼にお礼を言って部屋に入る。ドアを開けて入ると一枚のガラスを隔てた向こうに彼、伊藤裕一が座っていた。学校で、みんなが席についている中転校生が一人教室に入ってきた時の興味を孕んだ視線。そんな目で彼は僕を見つめていた。
「初めまして。君が伊藤裕一君だね?僕は板垣大輔。しばらく君について取材させてもらいます。でも、今日は初めてだしそんなに聞くようなことはしないよ。」と僕は彼に警戒心を抱かせないように出来る限りの笑顔で言った。
そうですか。と彼は少しばかりの微笑を僕に向けた。それは顔に貼り付けたような、予め用意されていたような笑顔だった。これで十八歳か。
僕は咳払いをする。
「確か裕一君は前の裁判で人の頭部が容器に見えると言っていたね。それと、今回の事件が何か関係があるのかな?」彼の恐らく存在するであろう闇の部分を刺激しない様に、それでいて少しでも核心に近づける様に僕は慎重に言葉を選ぶ。子供の頃に遊んでいた黒ひげ危機一髪の様に。
裕一君は俯いて黙っている。部屋は沈黙に包まれている。
「板垣さんが言っているように、俺は確かに人の頭部が容器に見えます。でも、それが今回の事件に直接関わっている事については今思うとあまり関係ないと思います。」彼は僕の目を直接見ずに少し俯いて、そう言った。
「そもそも、容器に見えてしまう病気はどうゆうものなのかな?」
「この病気になったのは確か十二年前ぐらいだから小学校一年生ぐらいの時ですかね。朝目覚めたら急に容器に見えるんです。人の顔が。人の性格も一人一人違うように、容器の形も人によって違うみたいなんです。花瓶に見えたり、ある人はフラスコのような物に見えたりするんですよ。」裕一君は何度も聞かれたことであろう質問に対して笑顔でスラスラと言葉を並べ、答える。
「容器の種類も違えば形も違ってきたりもします。例えば、花瓶の人は形がとても綺麗で、美しかったです。実際に性格も素晴らしい人でした。それに対してフラスコの人は形が原型を保っていなくて本当にフラスコなのかすらはっきりしない程でした。その人の性格は捻じ曲がってて最悪でした。俺が見ている容器の形はどうやら、その人の性格を表しているようです。」
「ちなみに、僕はどんな顔をしているのかな?」と僕は聞いてみる。
「あーそれは知らない方がいいですよ俺も貴方の顔についてはあまり言いたくはないです。」とケタケタ笑いながら答える。
「それに俺は人の感情まで見ることができます。ええ。『見える』んです。感情を読もうと目を凝らすと、容器が透明になるんです。感情は色の付いた液体で、色の付き方で感情がある程度判断できるんです。例えば怒っている時は赤色になったり、悲しい時は青色、緊張している時はオレンジ色だったりします。逆に落ち着いている時は緑色です。嬉しい時は桃色、混乱していると大体三色ぐらいの色が混ざってグチャグチャになります。」僕は急いでメモを取る。
僕が悪意は何色かと聞いたら彼は黒だと答えた。
「時間です。」と看守が遮る。
「じゃあまた今度だね。今日はありがとう。」と僕は礼を言う。彼は薄い膜のような笑顔を貼り付けてこちらを見ていた。
僕は会社のデスクで一週間前に伊藤裕一君にした取材を元に記事を書いていた。彼の笑い声の残滓は僕の鼓膜に深い余韻を残している。
「お疲れ。彼はどうだったか?」と言いながら田崎先輩が缶コーヒーを両手に持って後ろから声をかけてきた。僕は先輩に礼を言って、缶コーヒーを受け取る。
「物静かなこというか何というか、あれだけの事件を起こしていて全くといって平凡というか。」
「んー何だか難しいな。」先輩が頭を掻きながら言う。
「裕一君のように、性格が普通に見える人間に限って何考えてるのか分からないですからね。」僕はコーヒーを飲みながら言う。
「次に彼との面会はいつだ?」
「えーっと、三日後ですね。」手帳を鞄から手帳を手繰り寄せ予定を確認する。
「そうか。じゃあ頑張れよ。」と言い僕の肩をバシンと叩いて仕事に戻っていった。肩の痛みは僕の中枢神経系を刺激し、自然と僕を高揚させた。
白を基調とした四畳の部屋に、窓が一枚。そこからは朝日が差し込んでいるが四本の鉄格子のせいで、入り込む月の光は途切れて俺の足先を照らし出す。壁に掛けられた小さな時計は四時二十三分を指している。眠れない夜は続く。三角座りをして、目をつぶってみる。軽薄な景色は直ぐに闇に包まれる。闇の中で想像する。自分をここじゃない何処かに意識を移動させる。
そうすると俺は教室にいる。自分は椅子に座り、クラスメイト達と同じ授業を受ける。俺はふと、席を立つ。教室の後ろに置いてあるだいぶ大きめの花瓶を両手で持つ。当然みんなの視線一気に集める。俺は気にせずに一人の男に近づく。俺を虐めていた三人の中の一人だ。目鼻立ちがしっかりしていて、美男子でクラスの人気者、イジメグループでも中心にいた人物だった。彼はしかめっ面をして俺のことを見上げている。俺は彼によく蹴られ、買い出しに行かされていた。
「ちょっとぉ、何やってんのよ裕一。」隣の席に座っていた彼の彼女が俺に声をかけてくる。俺が虐められている時は彼女は後ろでニタニタ笑いながら写真を撮っていた。
俺はなんの躊躇もなく、まるで朝の通学路を歩くような清々しさで、持っていた花瓶を目の前にいた彼に力強く振りかざした。その時の強く、鈍い感触が俺の想像を黒く塗りつぶす。
俺は静かに目を開けた。目の前に広がる景色は変わりはなく、小さな時計は休むことなく時を刻み続ける。時計は四時三十五分を指していた。夜はまだ長い。
目覚まし時計が鳴り響く。目覚まし時計は少し遠くにある。僕はまるでゾンビのように呻きながら這って止めに行く。今は六時三十分。今日は裕一くんとの二回目の取材になる。十一時に取材する予定だからまだ時間はある。
朝の番組を見ながら朝食を胃に収めていく。テレビの中でお天気お姉さんが今日は全国的に雨模様だといい、美人キャスターがニュースを読み上げる。ニュースは殺人、天皇陛下のご退位について、スポーツになど様々なジャンルを報道する。その大半は僕にとってどうでもいいようなニュースだったりもする。中国のパンダの可愛い映像を見た後に家を出る。
時刻は十時半。僕は前回と同じ少年院にいる。
「お久しぶりです。二週間ほどでしょうか。」と前と同じ看守が生真面目な顔で言う。面会場所も前と同じ。前と違う所を挙げるとしたら、もう十二月に入って寒さがより一層厳しくなったことぐらいだ。
裕一君がいる部屋の前に立つ。僕の鼓膜には未だ彼の笑い声が、網膜には別れ際の表情がこびりついてまだ剥がれない。
「ひとつよろしいでしょうか。」看守がドアノブに手をかけようとした僕に言ってくる。
「なんでしょうか。」僕は微笑む。
「彼は貴方と面会した翌日からよくうなされていることがあります。夜泣きはそこらへんの赤ん坊よりも酷い時があるほどです。貴方の仕事のことはよく存じているつもりです。ですが、出来ることなら彼を救ってあげてください。」
僕は頷いてノックをしてから部屋に入る。裕一君は壁に寄りかかっていた。目の下は以前会った時よりもクマが深くなったような気がする。
「どうもこんにちは。お久しぶりですね。」と気怠そうに立ちながらこちらに向かってくる。
「調子は良くないみたいだね。」と僕は椅子に座り、彼と目を合わせながら言った。
「ええ。実は最近悪い夢ばかり見ていて。睡眠不足なんですよ。」
「どんな夢を見ていたんだい?」
「俺があの三人を殺した時の夢です。」と僕と視線を合わせずに言う。
「正直言って、とてもスッキリしています。あの三人は死んで当然のクズだったから。」とまたにやけながら言う。
「その三人はどう言う人だったのかな?」暫く無言の時間が続いた。
「・・・あいつらはクラスの中心人物でした。」そう言った彼の顔は苦虫を噛み潰したような、そんな表情をしていた。
「男が二人に女が一人。全員成績トップで常に上位を占めている優等生でした。三人のうちの一人の佐藤大地は五人の中でも特に優秀で、顔は綺麗に形作られてはいるけど、何処か怪しい雰囲気を薄いベールのように纏っているような壺で、リーダー気質に溢れている、将来有望な人物でした。両親は公務員で常に完璧を求められていたようです。奴は親の高い期待に常に答える反面、ストレスの発散が俺に向いていました。二人目は運動神経抜群の益田陽一。彼の所属しているラグビー部は何度も全国大会に出場しています。ガタイが良くて、彼には良くサンドバックにされていました。顔は茶色に濁った、昔の有名な人が作った豪快な作風の漂う陶器みたいなものでした。最後に佐藤大地の彼女の赤崎依子。とても形が整われた、何のくすみも汚れも無いツルリとした陶器をしていてモデルもやっているみたいです。彼女には俺がいじめられている様子をクラスのグループラインに晒された時もありました。」
「それで君はいじめに耐えられなくなって彼らを殺したのか。」
「本当は全員殺してやりたかったですけどね。」またにやける。
それから裕一君は大きく息を吐き、椅子に寄り掛かって少しだけ、でも楽しそうに笑う。
板垣さん。なんだい。少しだけ、自分の話をしてもいいですか。もちろん。
死が、転がっていたんです。と彼は最初にそう言った。
「まるで切っていたジャガイモが手を滑らせて排水溝までゴロゴロと転がっていくみたいに。転がり終わったら排水溝の溝に入ったまま。ただそこにあるだけなんです。俺は教室で彼らを殺した時にそんな感じに思えたんです。」
僕は黙って聞いておく。でも、彼が話の続きをしようとした時に看守に時間だと止められてしまった。
「じゃあこの話は手紙に書いてでもしようと思います。俺が忘れなければ。」と少し残念そうに言った。僕は静かに部屋を出た。外は雪が降っていた。風はない。
裕一君との取材が終わった後僕は会社の自分のデスクにいた。壁にかかっている時計は十五時三十六分を指していた。僕はこれまでの取材のメモをまとめていた。
「おっだいぶ進んでるじゃないか。と田崎先輩が後ろから覗き込んでいる。
「死が転がってるってか。だいぶ面白いことを言うじゃないか。それでこの親に取材っていう枠はなんだ?」とパソコンの画面を指して言う。
「裕一君の親に明日取材しにいくんです。なかなかアポが取れなくて。やっとできます。」今のところは記事は順調に進んでいる。
「そうか。いよいよ大詰めだな。頑張れよ。」また肩をバシンと力強く叩いてくれる。
今日の分の仕事は終わり、時計を見るとそろそろ二十時を回そうなので帰ることにした。
外は前に裕一君に取材した時よりもさらに冷え込んでいる。会社から家までは歩いて通勤している。歩いている道中は裕一君のことを考えていた。顔が容器に見える病気、それは親しい人からしたらどうんな気分なんだろうか。一人の人間に全てを見抜かれる、もしかしたら自分でも気づかなかった一面も知られているのかもしれない、感情だって彼の前では筒抜けに違いない。人は自分とは異質なものは排除したがる傾向にある。殺された三人は彼の異質さに気づき、恐れ、そして排除しようといたのかもしれない。ふと上を見たら蒼い空は灰色の雲に遮られていた。そろそろ雪が降りそうだ。
裕一君の両親と会う日も僕はいつも通りの時間帯に目覚まし時計で目が覚めた。朝食のパンにブラックのコーヒーを胃に納め、温かいお湯で髭を剃って十時二十分に家を出た。両親の家は僕の家からはだいぶ遠く、予め呼んでおいたタクシーで移動した。裕一君の父親は浩一さん、母親は由香里さんという名前だった。タクシーの運転手(寡黙で真面目そうな雰囲気で眼鏡をかけていた)にメモに書いてある住所を伝える。運転手はハイ、と返事だけをしてそのまま車を発進させた。道路は比較的空いていた。左から右に流れていく景色を見ていると僕の思考も時間も、加速して流れていくような、奇妙な感じがした。
大体三十分くらいで夫婦の家に着いた。僕は支払いを済ませてタクシーを出る。クリーム色の壁に、赤い色の屋根は少しばかり色褪せていた。庭は綺麗にされていて花壇には様々な種類の花が少し古ぼけた家を誤魔化すように咲いていた。インターホンを押し、僕であることを伝える。すぐにドアが開き由香里さんが出てきた。由香里さんはくっきりとした目鼻立ちをしていて美しい印象を持ったがどこかやつれているように見えた。
「どうぞお入りください。」としゃがれた声で言った。夫婦の家は二階建てで大分広い家だった。僕はリビングに通され、待っていると温かいお茶が出た。それを飲んでいると二階から浩一さんが降りてきた。お互いに名刺を交換する。浩介さんは建築関係の会社の社長をやっていた。この家も自分で建てたそうだ。
僕と夫婦は対面する形で座っている。僕は今回の事件を起こす前に裕一君に何か変化はあったのかを聞いた。由香里さんは首を横に振りそういった変化は感じられなかった、むしろどこかしら明るい感じがしたと言った。
「今でもあの子が人を殺しただなんて信じられません。」と由香里さんが虚ろな目をして言った。
「裕一には何があったんでしょうか。そんな、殺してしまうくらいいじめられていたのなら一言、たった一言言ってくれるだけでよかったのに!」由香里さんはポロポロと目から涙をこぼしていた。
「君のせいじゃない、裕一だってまだ若い。これから支えて生きていこう、三人で。」と浩一さんが慰めている。
僕はふと壁にかかっている時計を見た。時刻は十二時に差し掛かろうとしていた。落ち着いた由香里さんが取り乱したお詫びにお昼を食べていかないかと言ってくれたのだが、あくまで仕事で、取材に来たのだから食事はまた今度の機会にして欲しいと言ったら真面目ね、と由香里さんが微笑みながら必ずよ、と言った。
裕一君が自殺したと田崎先輩から言われたのは四時二十分ぐらいのことだった。舌を噛み切って死んでいたらしい。肝心の記事の件は取材は二回しかやっていなかったが、由香里さん達に取材してあったおかげで中止ではなく規模を縮小して載せる事になった、と田崎先輩は申し訳なさそうに言った。僕はそれを聞かされて真っ先に思ったのは残されていった由香里さんと浩一さんのことだった。きっとこの事はもう知らされているだろう。夕暮れで赤く染まった広いリビングで、裕一君を愛していて、絶望していなかったあの二人は一体何を思うのだろう。僕には見当がつかなかった。
裕一君が自殺してから三日後、僕は彼の葬式に来ていた。会社は休んだ。葬式はとても小規模で由香里さんと裕一さんはもちろん、あとは親戚ぐらいしかいなかった。彼はクラスメイトを殺した。当たり前と言ったらそうだった。
葬式が終わった後僕は由香里さんにある一通の手紙を渡された。
「祐一があなた宛に書いた手紙です。」いわゆる僕に対しての遺書だった。由香里さんは前に会った時よりもやつれているように見えた。僕は礼を言ってその場を後にした。
僕はそのまま家に帰った。時刻はそろそろ三時になろうといていた。僕はコーヒーをいれ、手紙を読んだ。
遺書 板垣さんへ
いつか板垣さんに手紙を書くと言っていましたが、それがこんな形になってしまった事をとても申し訳なく思います。どうすることにもできなかったのです。俺の自殺は朝が来て、太陽が昇り昼になり、そして沈んで夜が来るようにとても当たり前で自然な事だったように感じるのです。もちろん誰にも、当事者である俺でさえも逆らう事も止めることも出来ませんでした。
取材が中途半端になってしまったことも申し訳ないと思っています。まだあなたにお話できていないことがいくつかありました。ですからこの手紙で一つだけ、お話したいと思います。あなたと会う時から、いやもっと大分前のクラスメイトを殺す前から俺は人の顔が容器に見えなくなっていたのです。俺は目が付いていてそれは忙しなく動いていて、鼻は匂いを嗅ぎ、口は言葉を発していました。
つまり、俺は普通の人間に戻ることができたのです。それと同時に俺は困惑しました。人の感情が分からなくなりました。目の前の人間が一体どんな事を思い俺に接しているのか分からないのです。そしてその「分からない」が俺をとても不安にさせるのです。今まで俺は人の感情は色だけで知ることができました。人の顔はあらゆる情報を伝えてくれると俺は知りました。悪意や嘲笑、侮蔑。
俺の殺人の動機はただ彼らのいじめに耐えられなかったからです。あいつらは俺を裸にさせ教室に入れたのです。もちろんクラスのみんなに見られました。それだけでも耐えられなかったのに俺は更なる地獄を見ました。クラスの全員が同じ様な、ニタニタした様な表情をしていました。誰も助けてくれない、みんな俺を犠牲にして、あの三人と同じ側に立って、ただ見ているのです。そこに「罪悪感」が混じっていれば俺はまだ、ああこいつらは俺と同じように力が無いだけなんだ、と思って我慢することができたと思います。でも、俺はもう人の感情が見ることができないから、クラスメイト達が本当に「罪悪感」を感じているのかわかりませんでした。「分からない」という不安が俺の身体を、思考を黒く染めて、彼らを殺してしまいました。これもまたとても自然的なことでした。
とりあえずこれで話す事はありません。あなたの記事の助けになればと思います。あなたと話すのは、なんだかとても楽しかった。
もういろいろ疲れたので書くのを、やめますね。
この手紙を読み終えた時、随分前に付き合っていた彼女の言葉をふと思い出した。
世界は卵だ。もし何かを変えるのであれば、その殻を破らなければならない。
コーヒーはすでに冷め、真っ赤に染まった夕日が僕の部屋を燃やしていく。
彼女が今どこで何をしているのかは知らないし、随分と彼女には酷いことをしてしまったと、今更ながらに思った。
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