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第参章 武田軍侵攻、策略の章
第三十六節 武田勝頼と織田信長の差とは
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武田信玄が大量の血を吐いて倒れたことで、軍議は中断となった。
「薬師[医師のこと]を呼べ!
父上を奥へお連れするのだ!」
四郎勝頼の指示で、若い側近たちに抱き抱えられながら信玄は退席する。
残った一族や家臣が今後についての協議を始めた。
「父上が重い病に侵されていることは、既に諸国へと広く知れ渡っている。
ここで動きを止めれば……
我らは三方ヶ原で得た勝利の勢いを失い、敵たちに勢い付く時間を与えてしまうかもしれん」
「仰せの通りと存じます。
勝頼様。
我らは決して動きを止めてはなりません。
そこで。
堀江城[現在の静岡県浜松市西区]を攻めるのは如何?
ここからすぐ近くにある城です」
山県昌景である。
「堀江城?
確か、湖[現在の浜名湖のこと]の東側に……」
「はい。
この城は、湖の『東』につながる船着き場があります。
一方。
湖の向こう側にある宇津山城[現在の静岡県湖西市]には、湖の『西』につながる船着き場があるとか」
「要するに。
『海』につながる港と比べれば大きく劣るものの……
この機会に堀江城を落とし、『湖』を使った補給線も潰しておけば良いと?」
「御意。
全ては、浜松城への鉄砲の弾丸と火薬の補給を断つために」
「誠に、有り難い提案……
感謝する。
さて、皆の者。
それがしは昌景殿の提案通り、堀江城を攻めたいと思うが。
何か異論のある者は?」
難攻不落の地形に恵まれていない堀江城は、信玄の体調が回復するまでの時間潰しに攻めるには『丁度良い』城であった。
どこからも異論は出ず、堀江城攻めが決定した。
◇
4日後。
想定外の出来事が起こっていた。
難攻不落の地形に恵まれてもいない小さな城が、3万人近い武田の大軍の攻撃に耐え抜いていたのだ!
信玄の体調が回復するまでの時間潰しであり、犠牲を顧みないような激しい攻撃をしていなかったのはある。
そうだとしても堀江城の固さは尋常ではない。
「城主の大沢基胤は優れた武人と聞いていたが……
一個人の武勇でこうなるものなのか?」
「勝頼様。
どうやら堀江城には、強力な援軍が千人以上も一緒に籠もっているようですな」
山県昌景である。
「強力な援軍?
一体、どこから?」
「井伊谷の軍勢かと」
「井伊谷?
確か、井伊直虎という女子が当主であったような……」
井伊直虎。
現在の浜松市北区引佐町一帯を治めていた井伊家の当主・井伊直盛の娘である。
父に男子がいなかったため、次郎法師直虎と名乗って井伊谷城の女城主となった。
一時は小野政次という家臣に城を乗っ取られてしまうが……
徳川家康の支援によって城主の地位に返り咲いている。
「昌景よ。
井伊直虎は、家康に対して深い恩義があるはず。
その恩義に報いようと命を捨てる覚悟で戦っているのでは?」
「まさに『死兵』ですな」
「あの堀江城に、そんな厄介極まりない兵が籠もっていたとは……」
死兵とは、自ら捨て駒となって戦場に留まって戦う兵士のことを言う。
生還するつもりもなく死にもの狂いで戦っているため、攻める方は厄介極まりない。
『本気』で攻めれば制圧できるだろうが、それまでに夥しい屍を晒すことになるだろう。
「勝頼様が仰った通り……
鉄砲の弾丸と火薬の補給線が、家康の『生命線』なのでしょう」
「それを守ろうと必死なのだな」
「どうなさいます?
我が赤備えが、先陣を務めますぞ」
勝頼は迷っていた。
堀江城を落として敵の補給線を断ちたいのは山々であったが……
信玄が不在のためか、ほとんどの一族や家臣たちは及び腰で役に立たない。
頼りになるのは大局を見ることができる優れた人物だけだ。
一緒にいる武田四天王の3人、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春である。
ただし。
3人の軍勢は非常に貴重な存在でもある。
こんな消耗戦よりも、戦いの勝敗を左右する重要な場面でこそ使いたい。
迷う勝頼に助け舟が来た。
「勝頼様。
お話中に失礼しますが……
信玄様が、回復されたようです」
「おお、それは良かった!
すぐ参ろう。
昌景殿、しばし待たれよ」
勝頼は直ちに父の元へと向かった。
◇
「父上。
勝頼が参りました」
「息子よ。
相済まぬことをした」
「それがしこそ、堀江城を落とせず申し訳ありません」
「井伊谷の死兵が立て籠もっておるそうな。
あれは厄介だぞ」
「ご存知でしたか」
「赤備えを消耗したくない……
そなたの気持ちはよく分かる」
「父上は、どうすべきとお考えですか?」
「わしが、そなたほど若ければ……
直ちに堀江城を総攻撃する」
「貴重な赤備えを消耗させてでも、総攻撃すべきと?」
「いや。
武田四天王の軍勢ではなく、『他』の軍勢でな」
「他の軍勢?
穴山信君や武田信豊などの一族の軍勢でですか?」
「うむ」
「あれは、及び腰で戦意がありません。
加えて三方ヶ原合戦で最も消耗した武田軍中央を務めていました。
これ以上、消耗を強いるのもまずいのでは?」
「だからどうした?
実力のない武将が率いる軍勢など、どれだけ消耗しようが構わんではないか」
「……」
「息子よ。
そなたの実力は、わしを凌いでいる。
弟の信繁と同じかそれ以上だろう。
ただし……
そなたの持つ器用さが、『仇』となるかもしれん」
「仇?」
「器用な者の欠点は……
器用であるがゆえ、不器用な者ほど徹底的になれないことじゃ」
「……」
「くノ一[女忍者のこと]の望月千代女を存じておろう?」
「望月千代女……
父上に属している歩き巫女の頭ですな」
「わしが死ねば、そなたに属す歩き巫女の頭となる女子じゃ。
千代女は何度も申していた。
わしの後継者は、太郎義信しかいないと」
「……」
「『わしには四郎勝頼という、わしよりもずっと器用な息子がいる』
こう返したが……」
「千代女は何と?」
「『桁外れに純粋で、不器用な織田信長を相手にしたときに……
四郎勝頼様の持つ器用さが、仇となるかもしれません』
と」
「……」
「わしが倒れる前の軍議の話だが。
わしが、そなたほど若ければ……
迷うことなくこう決断しただろう。
『浜松城を総攻撃して徳川家康を討つ』
とな」
「浜松城を総攻撃ですと!?」
「信君は愚かな無能者だが、一つだけ正解を語っていた。
『いくら民とはいえ、武器を手に取った以上……
殺されて当然では?』
と」
「武器を手に取ったのだから……
虐殺されても仕方ないと仰るのですか?」
「息子よ。
武器を手に取った民には、こう問うべきなのじゃ。
『覚悟はできているのか?』
とな」
「……」
「わしが、そなたほど若ければ……
信君などよりももっと徹底的に浜松城を総攻撃する。
草の根を分けてでも武器を手に取った民を探し出し、ことごとく殺すだろう」
「……」
「息子よ。
よく聞いてほしい。
あの織田信長ならば、これと同じか、これ以上のことを『やる』ぞ?」
◇
数年後。
武田信玄の言ったことは現実となる。
伊勢国・長島[現在の三重県桑名市]。
一向一揆の旗を掲げた数万の民がいくつかの砦に立て籠もり、これを織田信長の軍勢が厳重に包囲していた。
食糧の尽きた民は、ついに……
降伏を申し出る。
「一切の武器を捨てて砦を出れば、命だけは助けてやろう」
信長は降伏を受け入れる条件として民の武装解除を命じ、数万の民が砦を出た。
ところが!
砦を出る民を見た織田軍の将兵から、こんな声が上がる。
「奴らは『まだ』武器を持っているぞ!」
信長の怒りが、制御できないほどに爆発した。
「くそ坊主どもに言葉巧みに操られたとはいえ……
戦を知らない素人どもが、何の覚悟もなく、行き当りばったりの思い付きで武器を手に取ることで、どれだけ世の乱れを招いているかを……
未だに理解できないのか!」
そして。
一つの命令を発する。
「あれを、老若男女問わず全員撃ち殺せ」
民間人を撃つことを躊躇う兵士たちへ向け、信長は叫んだ。
「あれは人ではない!
ただの鉄砲の的じゃ!
さっさと撃ち始めんかっ!」
この日。
数万の民が殺戮された。
◇
純粋で、器用であった武田勝頼は……
武器を手に取った数万の民を殺せなかった。
一方。
桁外れに純粋で、しかも不器用であった織田信長は……
武器を手に取った数万の民を悉く殺し尽くした。
両者が戦った結果は明らかである。
『器用』な武田勝頼は敗北し、武田家そのものを滅ぼしてしまった。
『不器用』な織田信長は勝利し、天下人たる地位を確実なものにした。
歴史にIFはないが……
不器用な太郎義信が武田家当主となり、器用な四郎勝頼が参謀として兄を支えていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
【次節予告 第三十七節 武田勝頼は愚かな人物なのか】
三方ヶ原合戦の直後。
言葉巧みに操られた数万もの民が城内に潜んでいるとはいえ……
武田軍が全力で攻撃すれば、浜松城は間違いなく落ちたはずなのです。
「薬師[医師のこと]を呼べ!
父上を奥へお連れするのだ!」
四郎勝頼の指示で、若い側近たちに抱き抱えられながら信玄は退席する。
残った一族や家臣が今後についての協議を始めた。
「父上が重い病に侵されていることは、既に諸国へと広く知れ渡っている。
ここで動きを止めれば……
我らは三方ヶ原で得た勝利の勢いを失い、敵たちに勢い付く時間を与えてしまうかもしれん」
「仰せの通りと存じます。
勝頼様。
我らは決して動きを止めてはなりません。
そこで。
堀江城[現在の静岡県浜松市西区]を攻めるのは如何?
ここからすぐ近くにある城です」
山県昌景である。
「堀江城?
確か、湖[現在の浜名湖のこと]の東側に……」
「はい。
この城は、湖の『東』につながる船着き場があります。
一方。
湖の向こう側にある宇津山城[現在の静岡県湖西市]には、湖の『西』につながる船着き場があるとか」
「要するに。
『海』につながる港と比べれば大きく劣るものの……
この機会に堀江城を落とし、『湖』を使った補給線も潰しておけば良いと?」
「御意。
全ては、浜松城への鉄砲の弾丸と火薬の補給を断つために」
「誠に、有り難い提案……
感謝する。
さて、皆の者。
それがしは昌景殿の提案通り、堀江城を攻めたいと思うが。
何か異論のある者は?」
難攻不落の地形に恵まれていない堀江城は、信玄の体調が回復するまでの時間潰しに攻めるには『丁度良い』城であった。
どこからも異論は出ず、堀江城攻めが決定した。
◇
4日後。
想定外の出来事が起こっていた。
難攻不落の地形に恵まれてもいない小さな城が、3万人近い武田の大軍の攻撃に耐え抜いていたのだ!
信玄の体調が回復するまでの時間潰しであり、犠牲を顧みないような激しい攻撃をしていなかったのはある。
そうだとしても堀江城の固さは尋常ではない。
「城主の大沢基胤は優れた武人と聞いていたが……
一個人の武勇でこうなるものなのか?」
「勝頼様。
どうやら堀江城には、強力な援軍が千人以上も一緒に籠もっているようですな」
山県昌景である。
「強力な援軍?
一体、どこから?」
「井伊谷の軍勢かと」
「井伊谷?
確か、井伊直虎という女子が当主であったような……」
井伊直虎。
現在の浜松市北区引佐町一帯を治めていた井伊家の当主・井伊直盛の娘である。
父に男子がいなかったため、次郎法師直虎と名乗って井伊谷城の女城主となった。
一時は小野政次という家臣に城を乗っ取られてしまうが……
徳川家康の支援によって城主の地位に返り咲いている。
「昌景よ。
井伊直虎は、家康に対して深い恩義があるはず。
その恩義に報いようと命を捨てる覚悟で戦っているのでは?」
「まさに『死兵』ですな」
「あの堀江城に、そんな厄介極まりない兵が籠もっていたとは……」
死兵とは、自ら捨て駒となって戦場に留まって戦う兵士のことを言う。
生還するつもりもなく死にもの狂いで戦っているため、攻める方は厄介極まりない。
『本気』で攻めれば制圧できるだろうが、それまでに夥しい屍を晒すことになるだろう。
「勝頼様が仰った通り……
鉄砲の弾丸と火薬の補給線が、家康の『生命線』なのでしょう」
「それを守ろうと必死なのだな」
「どうなさいます?
我が赤備えが、先陣を務めますぞ」
勝頼は迷っていた。
堀江城を落として敵の補給線を断ちたいのは山々であったが……
信玄が不在のためか、ほとんどの一族や家臣たちは及び腰で役に立たない。
頼りになるのは大局を見ることができる優れた人物だけだ。
一緒にいる武田四天王の3人、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春である。
ただし。
3人の軍勢は非常に貴重な存在でもある。
こんな消耗戦よりも、戦いの勝敗を左右する重要な場面でこそ使いたい。
迷う勝頼に助け舟が来た。
「勝頼様。
お話中に失礼しますが……
信玄様が、回復されたようです」
「おお、それは良かった!
すぐ参ろう。
昌景殿、しばし待たれよ」
勝頼は直ちに父の元へと向かった。
◇
「父上。
勝頼が参りました」
「息子よ。
相済まぬことをした」
「それがしこそ、堀江城を落とせず申し訳ありません」
「井伊谷の死兵が立て籠もっておるそうな。
あれは厄介だぞ」
「ご存知でしたか」
「赤備えを消耗したくない……
そなたの気持ちはよく分かる」
「父上は、どうすべきとお考えですか?」
「わしが、そなたほど若ければ……
直ちに堀江城を総攻撃する」
「貴重な赤備えを消耗させてでも、総攻撃すべきと?」
「いや。
武田四天王の軍勢ではなく、『他』の軍勢でな」
「他の軍勢?
穴山信君や武田信豊などの一族の軍勢でですか?」
「うむ」
「あれは、及び腰で戦意がありません。
加えて三方ヶ原合戦で最も消耗した武田軍中央を務めていました。
これ以上、消耗を強いるのもまずいのでは?」
「だからどうした?
実力のない武将が率いる軍勢など、どれだけ消耗しようが構わんではないか」
「……」
「息子よ。
そなたの実力は、わしを凌いでいる。
弟の信繁と同じかそれ以上だろう。
ただし……
そなたの持つ器用さが、『仇』となるかもしれん」
「仇?」
「器用な者の欠点は……
器用であるがゆえ、不器用な者ほど徹底的になれないことじゃ」
「……」
「くノ一[女忍者のこと]の望月千代女を存じておろう?」
「望月千代女……
父上に属している歩き巫女の頭ですな」
「わしが死ねば、そなたに属す歩き巫女の頭となる女子じゃ。
千代女は何度も申していた。
わしの後継者は、太郎義信しかいないと」
「……」
「『わしには四郎勝頼という、わしよりもずっと器用な息子がいる』
こう返したが……」
「千代女は何と?」
「『桁外れに純粋で、不器用な織田信長を相手にしたときに……
四郎勝頼様の持つ器用さが、仇となるかもしれません』
と」
「……」
「わしが倒れる前の軍議の話だが。
わしが、そなたほど若ければ……
迷うことなくこう決断しただろう。
『浜松城を総攻撃して徳川家康を討つ』
とな」
「浜松城を総攻撃ですと!?」
「信君は愚かな無能者だが、一つだけ正解を語っていた。
『いくら民とはいえ、武器を手に取った以上……
殺されて当然では?』
と」
「武器を手に取ったのだから……
虐殺されても仕方ないと仰るのですか?」
「息子よ。
武器を手に取った民には、こう問うべきなのじゃ。
『覚悟はできているのか?』
とな」
「……」
「わしが、そなたほど若ければ……
信君などよりももっと徹底的に浜松城を総攻撃する。
草の根を分けてでも武器を手に取った民を探し出し、ことごとく殺すだろう」
「……」
「息子よ。
よく聞いてほしい。
あの織田信長ならば、これと同じか、これ以上のことを『やる』ぞ?」
◇
数年後。
武田信玄の言ったことは現実となる。
伊勢国・長島[現在の三重県桑名市]。
一向一揆の旗を掲げた数万の民がいくつかの砦に立て籠もり、これを織田信長の軍勢が厳重に包囲していた。
食糧の尽きた民は、ついに……
降伏を申し出る。
「一切の武器を捨てて砦を出れば、命だけは助けてやろう」
信長は降伏を受け入れる条件として民の武装解除を命じ、数万の民が砦を出た。
ところが!
砦を出る民を見た織田軍の将兵から、こんな声が上がる。
「奴らは『まだ』武器を持っているぞ!」
信長の怒りが、制御できないほどに爆発した。
「くそ坊主どもに言葉巧みに操られたとはいえ……
戦を知らない素人どもが、何の覚悟もなく、行き当りばったりの思い付きで武器を手に取ることで、どれだけ世の乱れを招いているかを……
未だに理解できないのか!」
そして。
一つの命令を発する。
「あれを、老若男女問わず全員撃ち殺せ」
民間人を撃つことを躊躇う兵士たちへ向け、信長は叫んだ。
「あれは人ではない!
ただの鉄砲の的じゃ!
さっさと撃ち始めんかっ!」
この日。
数万の民が殺戮された。
◇
純粋で、器用であった武田勝頼は……
武器を手に取った数万の民を殺せなかった。
一方。
桁外れに純粋で、しかも不器用であった織田信長は……
武器を手に取った数万の民を悉く殺し尽くした。
両者が戦った結果は明らかである。
『器用』な武田勝頼は敗北し、武田家そのものを滅ぼしてしまった。
『不器用』な織田信長は勝利し、天下人たる地位を確実なものにした。
歴史にIFはないが……
不器用な太郎義信が武田家当主となり、器用な四郎勝頼が参謀として兄を支えていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
【次節予告 第三十七節 武田勝頼は愚かな人物なのか】
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