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彼の事情
2話
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就職が決まったのはベンチャーのIT企業だった。
営業以外はほぼ社内のツールでのやり取りだった上に、会社自体があまり飲み会などの体育会系の行事に興味がなかったために、日々の保守業務以外は自由にプライベートに使えた。
最初の一年はがむしゃらに働いたものの、ある程度ペースを掴んでからは、自分の性について考えるようになっていった。
念のために病院に行ってみたものの、自分の性的趣向は極めてストレートで、男性に対してなにも感じることはなく、女性に対して恐怖で凝り固まっていることだけはわかった。カウンセリングも受けたが、自分の女性恐怖症についてはトラウマが何重にも折り重なっているせいで、カウンセリングで解決するというものでもなかったようだ。
「現在、職場での様子はどうですか?」
「今はほとんどパソコンでやり取りしていますので、特に不満はありません。会社の中で飲み会を定期的に開きたがるのは営業の人たちくらいで、その人たちくらいしか体育会系には染まってないです」
「なるほど……正直、この手の奴は、男根主義を無理矢理押しつけたら悪化する恐れがあるため、安心しました」
「そうなんですか?」
「ええ。セックスができるイコール人間として優れているという考え方を押しつけるのは、浜尾さんの治療の妨げになりますから。ゆっくり治療していきましょう」
そう言われた。
少し調べてみたら、性被害者は性加害者に転じることが多く、性加害者の過半数は幼少期にその手のトラブルに見舞われていたという記事が出てきた。そう考えると、クライアントを性犯罪者扱いしないよう、担当のカウンセラーも相当言葉を選んでいたんだということがよくわかった。
自分は相変わらず体が反応せず、だからと言って誰かに発散させたいという欲もなく、いっそのこと自分が男を辞めたほうがいいんじゃないかと悩んだものの、カウンセラーには真っ向から「それは辞めなさい」と珍しく否定された。
どうしようもないなと思いながらも、前に風俗のお姉さんに教えてもらった作家の小説を少しずつ買い集めるようになっていった。さすがに夜中営業の本屋以外では冷たい目で見られることが多いため、通販で買い求めるようになっていった。
カウンセラーに勧められて自分の症状について日記を書いていたものの、気付けばその日記は、好きなBL小説の感想文で埋まっていくようになっていった。
自分の現状を話せる場所はないだろうかと探していく中、ある飲み屋に行くようになっていった。
「あらいらっしゃい、浜尾ちゃん」
「こんばんはー」
そこは職場から少し離れた飲み屋で、ママの影響か、不思議な人のたまり場となっていた。仕事帰りにゲリラ豪雨で電車が停まってしまい、途方に暮れてホテルを探して徘徊していたところで、「終電に間に合わないならここにいらっしゃい」と言われて従業員スペースに一泊させてもらって以来、この店には定期的に通っている。
ママは年齢も性別も不明で、いつも着物を着て着飾っていたものの、声が酒焼けしてしまっていてどちらなのかがイマイチわからなかった。
そのせいか、ここでは外では話せないような悩みを持つ人が多い上に、客同士の悩みも全部店に置いていくこと、店内の会話はネットには書き込まないことを徹底していたために、不思議と居心地がよかった。
BL小説が好きだという話をしたら、もっと嫌がられるかと思ったら「どの先生読んでる?」とお客さんに聞かれた。意外なことに、女性でもBL小説を読む人と読まない人は両極端らしい。
「あれねえ……ひとつはエロを読みたいって大っぴらに言うと、勝手にエッチなことの本番に興味あるんだと勘違いされるんで、表立って言えないんですよぉ。ついでに女性向けだったら女性がエロいことに積極的なのはすごい嫌われる傾向にあるんで、全部マグロとかありますし。BL小説だったら、受けも攻めもエロくてもなんとも言われないところは平和ですよね」
「あと男女の場合はエロいことしたらすぐ結婚しないといけないとか、子供産まないといけないとか、世知辛い方向に話がすぐ進んじゃうんですね。エロいのは読みたいけど、そういう生っぽい恋愛読みたくないとき、BL読むんですよね」
「最近は子供産むBL増えたんで、世知辛いですけどねえ……ブロマンスくらいの人間距離感でエロいの読みたいけれど、すぐ惚れた腫れたに話がシフトしてしまって、うまいこと集中できないとか」
アニメやマンガのBL妄想だけでいい人はそもそも創作BLを読まないとか、女性上位のエロいのは男性向けエロのほうがいいものあるとか、単純にBL小説だけ読んでいる人間からしてみれば不思議な話をたくさん聞き、目が白黒となる。
それにママは「はいはい、その辺にしときなさい」と女の子たちを散らしてから「ごめんねえ」と謝られた。
「あの子たちもねえ、猥談を外でできないから、ここでやってるのね」
「たしかに……あんまり女性の猥談を外では聞きませんけど」
「女の子が下ネタ言うと、男は勝手にそれをエロいことしたいサインだと曲解するのね。最近はネットでも下ネタ言う子増えたけど、その手の話題を振られるのが嫌で、わざと男性ハンドルネーム付けてる子もいるしね」
「……大変なんですねえ」
「でも浜尾くん、大丈夫? あんたもエロいことはできないでしょう?」
小声でそう言われ、「……はい」とだけ言った。
「あの人たちは、自分に興味ないから話せましたけど。女性に触られるのは今も怖いですし……苦手です」
それにママは小さく「難儀ね」とだけ言って、それ以上のことは言わなかった。
そう扱われるほうが、居心地がよかった。
****
仕事をしてBL小説を読み漁る日々の中、その作家に出会って衝撃が走ったのだった。
「あ……」
ふたりの関係は、濡れ場を持ってしても乾いたままだった。一緒にいても互いに執着しない。濡れ場を抜いてしまったら、ブロマンスと呼ばれるジャンルでも遜色ない距離感で物語が紡がれていく。
BL小説はイコール恋愛小説で、濡れ場を持って体だけの関係から恋人にシフトしていくと相場は決まっていたのに、その作家に限って言えば、体だけの関係であり、恋人にもましてや人生のパートナーにもならず、強いて言うなら相棒のままの関係だった。
あまりにも理想通りの話だったのに、思わず名前を見た。
「……乃々原かしこ先生……?」
次の日、本屋のBL棚からその人の名前の本を探し出すと、それを全て抜いていった。
どうして今まで知らなかったんだろう。最近はこのジャンルも縮小が続いているのに、こんなに書いていた……!
家に帰り、その人の本を読みふける。どれも面白い。
獰猛な獣同士のぶつかり合いのようなものもあれば、敵対組織同士の確執もあり。そのパサパサとした関係の中に潜んでいるたしかな絆に、感想を夢中で書いていった。
この人の本をもっと読みたいけれど、どうすればいいんだろう。ファンレターを書く? でもなあ……。飲み屋の常連の腐女子の子たちを思い出す。あの子たちは、下ネタをただ語りたいのであって、自分が下ネタの対象になるのを怖がっていた。ペンネームからして女性だろうに、その中で男の自分がファンレターを書いたら、かしこ先生も怖がるんじゃ。
そう思ったら、高校生のふりをして、必死でファンレターを書いていった。できる限り丸っこい字のフォントを探してきて、それを見様見真似で書いてみた。
名前も偽名だし、住所も書いてないから、きっとかしこ先生も返事が書かないだろう。そう思っていた中。
ある新刊のあとがきに、【高校生の女の子からファンレターをいただきました。】と短く添えてあるのに「あっ」と悲鳴を上げた。
【ファンレターありがとうございます。滅多にもらえないものなので本当に嬉しかったです】
その文章は、本当に自分以外にも高校生が送っていたのか、ただのリップサービスだったのかはわからない。……どっちでもいい。
多分届いたんだろう。よかった。よかった。勝手にそう思っていた矢先。
その日は仕事を家に持ち帰って、一日家で仕事をしていた。その中、チャイムが鳴った。チャイムのモニターを見たら、引っ越し業者の人だった。
「はい」
【すみません、隣なんですけれど、これから引っ越し作業に入りますので。一日騒がしいですが、どうぞよろしくお願いします】
「はい……わかりました」
時期がずれている中、引っ越しなんだな。そう首を捻りながら作業を続けた。
ここは元々は新婚夫婦の賃貸想定のアパートなせいで、部屋数はひとり暮らしにはやや広い。自分の場合は本をある程度置けてパソコンを置けるために、これが便利だなと思って借りていたけれど、ここに住んでいるのはどこもかしこも新婚夫婦だ。
なにもしていなくても、男のひとり暮らしは肩身が狭く、ときどきそこの家の子から「どうしておにいちゃんはけっこんしてないの!?」と叫ばれて謝られることがある。隣の家にまたも幸せ家族が引っ越してきたらどうしよう。そう思っていた。
パソコンで作業をして、あとは一部を紙に印刷して、残りをクラウドに上げて終了といったところで、プリンターから嫌な音がした。
「あー……とうとう壊れたかあ」
こりゃコンビニでプリントしてくるしかないか。そう思ってのそりと財布とデータを持ってコンビニに向かおうとしたとき。
引っ越し業者にひたすら頭を下げている人を見かけた。
肩までの髪をひとつに括った、大人しそうな女性だった。その人が何度も何度も頭を下げているのと目が合った。
途端にすごい勢いで逸らされる……なにも、しません。本当に、なにも。そうおろおろして、声がひっくり返った。
「は、じめまして、お隣の、浜尾で、す! よろしくお願いします! それじゃ!」
そう挙動不審で挨拶をして、そのままコンビニまでダッシュで逃げた。
いくらなんでもこれじゃ駄目だろ。隣に挙動不審な不審人物が住んでるとなったら、一日がかりの引っ越しでも、もう引っ越したくなるだろ。
挨拶しないほうがよかったんだろうか。でも隣に住んでいる人が得体が知れないのはもっと怖いような気がする。失敗したんじゃと、だんだん苦しくなりながら、コンビニのプリンターで目的のデータのプリントを終えた。プリンターはまた新しく買い直さないといけない。プリンターは燃えないゴミだったか、粗大ゴミだったか。
ひとりでとぼとぼと帰ったところで、隣の人が玄関に立っているのが見えた。なんだろう、宅配便でも来るのかな。そのままスルーして家に帰ろうとしたところで、「あ、あのう!」と声をかけられ、思わずびくついた。
「な、なんでしょうか?」
「と、なりに越してきました、柏原です。あの、引っ越し業者に頼んだはずの、挨拶の品、浜尾さんに渡らなかったみたいで。その。どうぞ」
彼女はたどたどしく言いながら、紙袋をくれた。大きさの割に軽いのは、タオルセットかなにかだろう。
「よろしく、お願いします」
「こ、ちらこそ」
ふたり揃ってぎこちなく挨拶をして、それぞれの家に入った。
彼女と目が合ったはずなのに、すぐに逸らされてしまった。最初は挙動不審な自分を不審がっているのかと思っていたけれど、違う気がする。というよりこれ、覚えがある。
「……あの人、自分と同じなのか」
極端な女性恐怖症の自分と、おそらくは男性恐怖症なお隣さん。
こんなのが隣同士だと、お互い大変だろう。自分はできるだけお隣さんに迷惑をかけないように、息を潜めてひっそりと生きよう。
……そう思っていた、はずなのに。
営業以外はほぼ社内のツールでのやり取りだった上に、会社自体があまり飲み会などの体育会系の行事に興味がなかったために、日々の保守業務以外は自由にプライベートに使えた。
最初の一年はがむしゃらに働いたものの、ある程度ペースを掴んでからは、自分の性について考えるようになっていった。
念のために病院に行ってみたものの、自分の性的趣向は極めてストレートで、男性に対してなにも感じることはなく、女性に対して恐怖で凝り固まっていることだけはわかった。カウンセリングも受けたが、自分の女性恐怖症についてはトラウマが何重にも折り重なっているせいで、カウンセリングで解決するというものでもなかったようだ。
「現在、職場での様子はどうですか?」
「今はほとんどパソコンでやり取りしていますので、特に不満はありません。会社の中で飲み会を定期的に開きたがるのは営業の人たちくらいで、その人たちくらいしか体育会系には染まってないです」
「なるほど……正直、この手の奴は、男根主義を無理矢理押しつけたら悪化する恐れがあるため、安心しました」
「そうなんですか?」
「ええ。セックスができるイコール人間として優れているという考え方を押しつけるのは、浜尾さんの治療の妨げになりますから。ゆっくり治療していきましょう」
そう言われた。
少し調べてみたら、性被害者は性加害者に転じることが多く、性加害者の過半数は幼少期にその手のトラブルに見舞われていたという記事が出てきた。そう考えると、クライアントを性犯罪者扱いしないよう、担当のカウンセラーも相当言葉を選んでいたんだということがよくわかった。
自分は相変わらず体が反応せず、だからと言って誰かに発散させたいという欲もなく、いっそのこと自分が男を辞めたほうがいいんじゃないかと悩んだものの、カウンセラーには真っ向から「それは辞めなさい」と珍しく否定された。
どうしようもないなと思いながらも、前に風俗のお姉さんに教えてもらった作家の小説を少しずつ買い集めるようになっていった。さすがに夜中営業の本屋以外では冷たい目で見られることが多いため、通販で買い求めるようになっていった。
カウンセラーに勧められて自分の症状について日記を書いていたものの、気付けばその日記は、好きなBL小説の感想文で埋まっていくようになっていった。
自分の現状を話せる場所はないだろうかと探していく中、ある飲み屋に行くようになっていった。
「あらいらっしゃい、浜尾ちゃん」
「こんばんはー」
そこは職場から少し離れた飲み屋で、ママの影響か、不思議な人のたまり場となっていた。仕事帰りにゲリラ豪雨で電車が停まってしまい、途方に暮れてホテルを探して徘徊していたところで、「終電に間に合わないならここにいらっしゃい」と言われて従業員スペースに一泊させてもらって以来、この店には定期的に通っている。
ママは年齢も性別も不明で、いつも着物を着て着飾っていたものの、声が酒焼けしてしまっていてどちらなのかがイマイチわからなかった。
そのせいか、ここでは外では話せないような悩みを持つ人が多い上に、客同士の悩みも全部店に置いていくこと、店内の会話はネットには書き込まないことを徹底していたために、不思議と居心地がよかった。
BL小説が好きだという話をしたら、もっと嫌がられるかと思ったら「どの先生読んでる?」とお客さんに聞かれた。意外なことに、女性でもBL小説を読む人と読まない人は両極端らしい。
「あれねえ……ひとつはエロを読みたいって大っぴらに言うと、勝手にエッチなことの本番に興味あるんだと勘違いされるんで、表立って言えないんですよぉ。ついでに女性向けだったら女性がエロいことに積極的なのはすごい嫌われる傾向にあるんで、全部マグロとかありますし。BL小説だったら、受けも攻めもエロくてもなんとも言われないところは平和ですよね」
「あと男女の場合はエロいことしたらすぐ結婚しないといけないとか、子供産まないといけないとか、世知辛い方向に話がすぐ進んじゃうんですね。エロいのは読みたいけど、そういう生っぽい恋愛読みたくないとき、BL読むんですよね」
「最近は子供産むBL増えたんで、世知辛いですけどねえ……ブロマンスくらいの人間距離感でエロいの読みたいけれど、すぐ惚れた腫れたに話がシフトしてしまって、うまいこと集中できないとか」
アニメやマンガのBL妄想だけでいい人はそもそも創作BLを読まないとか、女性上位のエロいのは男性向けエロのほうがいいものあるとか、単純にBL小説だけ読んでいる人間からしてみれば不思議な話をたくさん聞き、目が白黒となる。
それにママは「はいはい、その辺にしときなさい」と女の子たちを散らしてから「ごめんねえ」と謝られた。
「あの子たちもねえ、猥談を外でできないから、ここでやってるのね」
「たしかに……あんまり女性の猥談を外では聞きませんけど」
「女の子が下ネタ言うと、男は勝手にそれをエロいことしたいサインだと曲解するのね。最近はネットでも下ネタ言う子増えたけど、その手の話題を振られるのが嫌で、わざと男性ハンドルネーム付けてる子もいるしね」
「……大変なんですねえ」
「でも浜尾くん、大丈夫? あんたもエロいことはできないでしょう?」
小声でそう言われ、「……はい」とだけ言った。
「あの人たちは、自分に興味ないから話せましたけど。女性に触られるのは今も怖いですし……苦手です」
それにママは小さく「難儀ね」とだけ言って、それ以上のことは言わなかった。
そう扱われるほうが、居心地がよかった。
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仕事をしてBL小説を読み漁る日々の中、その作家に出会って衝撃が走ったのだった。
「あ……」
ふたりの関係は、濡れ場を持ってしても乾いたままだった。一緒にいても互いに執着しない。濡れ場を抜いてしまったら、ブロマンスと呼ばれるジャンルでも遜色ない距離感で物語が紡がれていく。
BL小説はイコール恋愛小説で、濡れ場を持って体だけの関係から恋人にシフトしていくと相場は決まっていたのに、その作家に限って言えば、体だけの関係であり、恋人にもましてや人生のパートナーにもならず、強いて言うなら相棒のままの関係だった。
あまりにも理想通りの話だったのに、思わず名前を見た。
「……乃々原かしこ先生……?」
次の日、本屋のBL棚からその人の名前の本を探し出すと、それを全て抜いていった。
どうして今まで知らなかったんだろう。最近はこのジャンルも縮小が続いているのに、こんなに書いていた……!
家に帰り、その人の本を読みふける。どれも面白い。
獰猛な獣同士のぶつかり合いのようなものもあれば、敵対組織同士の確執もあり。そのパサパサとした関係の中に潜んでいるたしかな絆に、感想を夢中で書いていった。
この人の本をもっと読みたいけれど、どうすればいいんだろう。ファンレターを書く? でもなあ……。飲み屋の常連の腐女子の子たちを思い出す。あの子たちは、下ネタをただ語りたいのであって、自分が下ネタの対象になるのを怖がっていた。ペンネームからして女性だろうに、その中で男の自分がファンレターを書いたら、かしこ先生も怖がるんじゃ。
そう思ったら、高校生のふりをして、必死でファンレターを書いていった。できる限り丸っこい字のフォントを探してきて、それを見様見真似で書いてみた。
名前も偽名だし、住所も書いてないから、きっとかしこ先生も返事が書かないだろう。そう思っていた中。
ある新刊のあとがきに、【高校生の女の子からファンレターをいただきました。】と短く添えてあるのに「あっ」と悲鳴を上げた。
【ファンレターありがとうございます。滅多にもらえないものなので本当に嬉しかったです】
その文章は、本当に自分以外にも高校生が送っていたのか、ただのリップサービスだったのかはわからない。……どっちでもいい。
多分届いたんだろう。よかった。よかった。勝手にそう思っていた矢先。
その日は仕事を家に持ち帰って、一日家で仕事をしていた。その中、チャイムが鳴った。チャイムのモニターを見たら、引っ越し業者の人だった。
「はい」
【すみません、隣なんですけれど、これから引っ越し作業に入りますので。一日騒がしいですが、どうぞよろしくお願いします】
「はい……わかりました」
時期がずれている中、引っ越しなんだな。そう首を捻りながら作業を続けた。
ここは元々は新婚夫婦の賃貸想定のアパートなせいで、部屋数はひとり暮らしにはやや広い。自分の場合は本をある程度置けてパソコンを置けるために、これが便利だなと思って借りていたけれど、ここに住んでいるのはどこもかしこも新婚夫婦だ。
なにもしていなくても、男のひとり暮らしは肩身が狭く、ときどきそこの家の子から「どうしておにいちゃんはけっこんしてないの!?」と叫ばれて謝られることがある。隣の家にまたも幸せ家族が引っ越してきたらどうしよう。そう思っていた。
パソコンで作業をして、あとは一部を紙に印刷して、残りをクラウドに上げて終了といったところで、プリンターから嫌な音がした。
「あー……とうとう壊れたかあ」
こりゃコンビニでプリントしてくるしかないか。そう思ってのそりと財布とデータを持ってコンビニに向かおうとしたとき。
引っ越し業者にひたすら頭を下げている人を見かけた。
肩までの髪をひとつに括った、大人しそうな女性だった。その人が何度も何度も頭を下げているのと目が合った。
途端にすごい勢いで逸らされる……なにも、しません。本当に、なにも。そうおろおろして、声がひっくり返った。
「は、じめまして、お隣の、浜尾で、す! よろしくお願いします! それじゃ!」
そう挙動不審で挨拶をして、そのままコンビニまでダッシュで逃げた。
いくらなんでもこれじゃ駄目だろ。隣に挙動不審な不審人物が住んでるとなったら、一日がかりの引っ越しでも、もう引っ越したくなるだろ。
挨拶しないほうがよかったんだろうか。でも隣に住んでいる人が得体が知れないのはもっと怖いような気がする。失敗したんじゃと、だんだん苦しくなりながら、コンビニのプリンターで目的のデータのプリントを終えた。プリンターはまた新しく買い直さないといけない。プリンターは燃えないゴミだったか、粗大ゴミだったか。
ひとりでとぼとぼと帰ったところで、隣の人が玄関に立っているのが見えた。なんだろう、宅配便でも来るのかな。そのままスルーして家に帰ろうとしたところで、「あ、あのう!」と声をかけられ、思わずびくついた。
「な、なんでしょうか?」
「と、なりに越してきました、柏原です。あの、引っ越し業者に頼んだはずの、挨拶の品、浜尾さんに渡らなかったみたいで。その。どうぞ」
彼女はたどたどしく言いながら、紙袋をくれた。大きさの割に軽いのは、タオルセットかなにかだろう。
「よろしく、お願いします」
「こ、ちらこそ」
ふたり揃ってぎこちなく挨拶をして、それぞれの家に入った。
彼女と目が合ったはずなのに、すぐに逸らされてしまった。最初は挙動不審な自分を不審がっているのかと思っていたけれど、違う気がする。というよりこれ、覚えがある。
「……あの人、自分と同じなのか」
極端な女性恐怖症の自分と、おそらくは男性恐怖症なお隣さん。
こんなのが隣同士だと、お互い大変だろう。自分はできるだけお隣さんに迷惑をかけないように、息を潜めてひっそりと生きよう。
……そう思っていた、はずなのに。
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