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電車の入場券はお持ちですか?─パラレルラインへようこそ─

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 ホームに入ってきた電車が、女性を乗せて走り去ってしまった。
 俺はそれを、ポカンと見送っていた。電車はしばらくはホームから見えていたけれど、ホームから離れた途端に忽然と姿を消してしまった。
 でも、女性の泣き顔だけは目に浮かぶし、駅長室には彼女が口にしたはずのカップだって置かれているから、たしかに彼女はいたはずなのに。

「あの人、電車で行っちゃいましたけど、よかったんですかね?」
「よかったんだと思いますよ。彼女が望んでいましたから……ただ、彼女はこの世界から消えてしまいましたけど」
「え、ええ……?」

 そんなこと、彼女に伝えた説明の中で言っていたっけ。
 俺は駅長さんの説明を思い出そうとするけれど、そんなこと言ってなかったように思える。

「それ、詐欺になりませんか?」

 俺はおずおずと駅長さんに尋ねるけれど、駅長さんは人のいい顔で、少しばかり困ったように肩を竦めるだけだった。

「でも自分は、一度パラレルラインに乗ったら、もう元には戻れないと伝えたはずですよ。彼女は平行世界に旅立ってしまった以上、こちらから彼女を呼び戻すのは、もう不可能です」
「……あの人がいなくなって、この世界にいる人、誰も寂しがったりしないんですか?」
「というより逆ですかね。そもそも、彼女を引き留める人がいたら、彼女はこの駅に入ることはできませんから」

 そういえば。
 あの人は天涯孤独で、結婚詐欺に遭ったにも関わらず、未だに結婚詐欺師のことを好きなままだった。同情されたくない彼女からしてみれば、可哀想がらない人以外いらなかったんだろうなと思うと、少しだけやりきれなかった。
 俺が思わず俯くと、「それより」と駅長さんが気遣わしげに言う。

「私は君のほうが心配ですよ? ここには、世界に引き留められる人は入れませんし、平行世界に渡りたいほどの後悔、運命を変えたいというほどの強い意志がない人以外は、パラレルラインに乗るどころか、ここを見つけることすらできません。どうして君はここに入れるんですか? まだ若いでしょうに」

 たしかにさっきも、この人似たようなこと言ってたな。
 これ、雇い主だったら言わないといけないのかな。俺は頬を引っ掻いた。

「これ、言わなかったらバイトの面接合格しないんでしょうか?」
「いいえ。売店員の募集をしていたのは本当ですから。ただ、君は本当にそれでいいのかと聞きたかっただけで」

 それなら、別にいいのか。俺は言った。

「もしここで働いてたら、言うかもしれませんけど、今は黙秘でお願いします」
「……わかりました。改めて、私はここの駅長を務めます住吉晴です。駅長でもいいんですが、できれば住吉とか晴とか、そう呼んでください」
「そう呼ぶ規則なんですか?」
「いえ。そのほうが仲良しっぽいじゃないですか」

 変わった人なのかなと思った。

「ええっと……それじゃ晴さんで、いいですか?」
「はい。じゃあフクくん。どうぞよろしくお願いしますね」

 ……いきなりなれなれしくなったな、この人。でも、俺も渡りに舟だし、これで来月の家賃引き落とし日を震えて待つ心配もなくなった。
 俺は「よろしくお願いします」と履歴書を引き渡して、自転車を漕いで元来た道を帰ることにした。
 線路沿いに走れば、だんだん見知った半見鉄道に戻って、見知った電車が通過していくのが見えた。

 パラレルライン【後悔駅】。
 そもそも引きずるくらいの後悔や、変えてしまいたい、いなくなってしまいたいというような強い願いがない限りは、乗るどころか駅に入ることも、見つけることさえもできないという路線。
 俺はそこを見つけてしまって、ここを訪れる人たちとどんなやり取りをすることになるんだろう。
 そこまで考えて「辞めた」と呟いた。
 やっていることは、いつだって同じだ。いくらパラレルラインでもしもに還ることができたって、時間は前にしか進めない。だから、前に進むしかないんだ。
 俺はいつものように自転車を漕ぎ出した。
 前へ、前へ。
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