恋する狐と文士さん

石田空

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 木葉が馨宅で仕事をはじめて、わかったことがいくつかある。
 ひとつ。とにかく馨は神経質だった。物音を立てると集中できないと文句を言い、少し物を落としただけでも怒る。前はこういう人だったかと木葉も思うが、彼の原稿が終わらないことが原因らしいので、ひとまずは彼が安心して原稿ができる環境にすべきだろうと配慮することにする。
 ひとつ。彼は夕方になると不機嫌さが上がる。たしかに木葉も夜明けと共に寝て、日が落ちたら寝てしまう性分だが、人間には瓦斯灯があり、電気が通って久しく、夜が必要なのかどうかがわからない。
 そしてひとつ。これは由々しき事態であった。
 馨は、あやかしが嫌いだったのである。
 その日、木葉がよく晴れた日だったので、せっせと洗濯物を洗っていたところで、座敷童がパタパタと駆けていくのを見かけた。それに木葉はピンときた。

(座敷童に来てもらったら、馨さんの原稿もちゃんと出版社の人に受け取ってもらえるのでは……!)

 座敷童は幸運を呼ぶあやかしだ。ならぜひとも家に呼び止めたい。

「座敷童さん、うちにいらっしゃいませんか?」
「うん」

 木葉がにこにこして、手を引いて連れ帰ろうとしたが。

「木葉くん、なんだねその子供は」
「ああ、馨さん。座敷童さんですよ。幸運を呼ぶ方ですので、連れて帰ってきました。これで馨さんの原稿も……」
「……捨ててきなさい」
「はい?」
「そんな輩、捨ててきなさい! うちに引き入れるな!」
「え? 馨さん、馨さん…………!!」

 何度木葉が尋ねても、馨はとうとう話を聞いてはくれず、泣く泣く座敷童を手放すことしかできなかった。

「また、どこかでお会いしましょうね」
「うん。傷付いてるからね、可哀想に。人間だったらどうしようもないからね」
「えっ?」

 座敷童は、どうにも訳知り顔だったが、木葉に理由を教えることもなく、元気に駆けていってしまった。
 それには木葉は、なんと言ってしまえばいいのかわからなかった。

(馨さんは、小さかったわたしにも親切にしてくれた……あやかしだからって、そう簡単に声を荒げたりする人じゃなかったのに。でも……座敷童さんはなにを知っていたの? 人間だったらどうしようもないって……)

 その日、馨はすっかりと機嫌を損ねてしまい、木葉が何度呼んでも部屋に入れてくれなかった。無理矢理開けようとしたが、つっかえ棒を差し込んでいるらしくて襖が開かず、諦めるしかなかった。
 一応お膳に夕飯を置いてはいたのだが、次の日回収に来ても手つかずだった。
 それに木葉はへにゃりとした。そろそろ耳も尻尾も出してぺたんと下を向きたかったが、馨なりに思うところがあるのだろうと思うと、放っておくこともできなかった。
 家事が不得手で、拗ねるとひと口もご飯を食べず、部屋に篭もりっきり。
 ここまで頑なな人ではなかったはずなのに、いったいなにがあったのだろうと思いながら、木葉は黙ってお膳のものは自分で平らげ、新しいお膳の食事を出した。
 一食抜いたらさすがにつらかったのか、そのお膳は平らげてくれた。
 木葉は馨がどうしてこうまで変わってしまったのかがわからない。しかし彼はどうにも悲しい想いをしたように感じ取れた。

(馨さん、もし本当に人が変わって冷たいひとになってしまったんだったら、わたしを置いてくれないと思うの……お母さんは人は変わってしまうものだって言ってたけど、馨さんは馨さんだわ。あの座敷童さんだったら、なにか知ってるかもしれないけれど)

 とにかく、木葉は今日の家事をこなしたあと、部屋に篭もって仕事をしている馨に「買い物に行って食事の材料を買ってこようと思うのです」と声をかけた。すると、襖を細く開けて馨は答えた。

「……家にあるものだけでも、充分やっていけるとは思うけど」
「でも野菜がありませんよ。八百屋さんに参りたいと思うのです」
「……ああ、じゃあ行ってきたまえよ」
「ありがとうございます」

 そう言って、木葉は買い物に出かけることにした。
 買い物をしながら探すのは、あやかしだ。しかし。木葉のように化けてしまったのか、昨日見つけた座敷童のようなあやかしがなかなか見つからない。

(どうしよう……馨さんのこと、聞きたかったのに……)

 そう思って、ぺしょんとしていたところで。てけてけと歩いている子供の姿が見えた。
 白いつるんとした顔に頭。鍋には豆腐を入れている。豆腐小僧であった。

「いた! ねえ、少しお話しいい?」
「あれえ、なんだい。姉ちゃん。おいら忙しいんだよ?」
「少しだけでいいから! お話し聞かせてもらえないかな? そこに住んでらっしゃる文士さんのことで聞きたいの」

 木葉がそう懇願したら、豆腐小僧は渋々振り返った。
 基本的に豆腐を持っている以外は無害なあやかしなため、木葉に対しても逃げたり襲ったりはしてこない。

「なんだい? 姉ちゃん化け狐かい? この辺りだとあんまり見かけないけど……」
「最近になって文士さん宅で女中をしてるのよ。あのう……文士さん、あやかし嫌いなんだけれど、なにか知ってる?」
「ああ……あの柳の川の畔の文士さんかい? あの人も気の毒になあ」
「気の毒って?」
「ちなみに姉ちゃん、文士さん家の女中かい? 嫁とかではなく?」
「よめ!」

 途端に木葉はポポポポポと頬を染めた。

「……嫁じゃ、ないわ。なれたらいいなとは思うけど」
「そうかい」

 豆腐小僧は見てくれこそは木葉より幼いが、基本的に気風のいい様子だった。

「あの角に、カフェーがあるのは知ってるかい?」
「いいえ。そんな洒落たものができてらしたの」
「瓦斯や電気が通ってからこっち、あやかしも見つかったらやんのやんのと騒ぎ立てられるから皆ちりぢりになっちまったしなあ……続き。あのカフェーにはそれなりに別嬪な女給も働いててなあ。よくあの文士さんも、あそこで原稿を書いてたのさ」

 それに木葉はなんとも言えなくなる。今は家に篭もりっきりな上に、神経質が過ぎる人が、わざわざ人前で原稿を書く理由なんて、ひとつしか想像ができない。

(……わたしがいない間も、馨さんは誰かを好きだったのね)

 その寂しさを噛み締めていると、豆腐小僧は言い出す。

「あの別嬪な女給もまんざらでもなかったと思うぜ。よく原稿を読んで話をしてたからなあ」
「そうなのね……」
「だがなあ……文士さんが別嬪だって思うような女給なんて、おいらや他のあやかしだってそう思うんだよ。あれは鬼に見初められてなあ。そのまま嫁にとさらわれちまったよ。鬼隠しってやつだよ」
「……そんな」

 神は気に入った人間を連れ去ってしまう。
 天狗は気に入った子供を連れ去ってしまうし、狐は気に入った女をさらってしまう。鬼に至っては、気に入った人間を老若男女問わずに連れ去ってしまうことは、化け狐の界隈でもよく聞くし、あやかしだったらいざ知らず、人間でその寵愛から逃げられたものは木葉だって知らない。
 豆腐小僧は豆腐をぷるんと震わせながら言う。

「さすがに目覚めが悪いからな。皆で太鼓を叩いて探し回ったけれど、それでも見つからなくって諦めちまったのさ。そっからは文士さん、すっかりと落ち込んでしまったし、周りも相手が鬼だから諦めろって言うけどよ、そう納得できるもんでもねえだろ? だからすっかりあやかし嫌いになっちまってなあ……おいら、よく豆腐を届けに行ってたのに、もうおいらの豆腐食べてくんねえんだ」
「……そう」
「姉ちゃん、姉ちゃんは化け狐だろう? もしばれちまったら、間違いなく嫌われちまうよ? 文士さん、鬼の野郎を許す気、ちっともねえんだからさ。文士さんはやめておいたほうがいいんでないかい?」
「……なにからなにまでありがとう。でもね、わたし馨さんのことが好きよ? 好きだわ? あのひとはもう忘れてしまったかもしれないけど、わたしのことを助けてくれたんだもの」

 彼のことを知ったし、それを悲しいとは思った。ただ、諦める気にはなれなかった。
 でも、嫌われたくもなかった。

「……わたし、お嫁さんになりたいけど、なれないんだったらそれでいいわ。一緒に住んで、一緒にご飯を食べてるんだもの。可能性が全くない訳じゃないもの……それに」

 木葉はぴょこんと耳と尻尾を出した。
 幼い頃よりも上手く隠せるようになったけれど、感情が高ぶるとどうしても出てきてしまう。
 そのふさふさとした耳と尻尾を撫でながら、木葉は豆腐小僧に言った。

「嫌われたくはないわね」
「……そうかい。そこまで覚悟があるんだったら、おいらもなにも言わないよ。もし、なにかあったら言いな。なんとかする方法を一緒に考えてやるからさ」
「まあ、ありがとう」

 なんとか木葉は出した耳と尻尾を打ち消すと、そのまま八百屋へ買い物に向かった。
 彼の好きだった女給のことを忘れろなんて言えなかった。ただ馨の悲しみをどうにか打ち消したかった。せめて彼が喜ぶように、うんと甘い物をつくろうと、母から習った料理をつくってみようと思い立ったのだ。
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