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スズランの季節は晴れ
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ジル様の執務室の扉を叩くと、「どうぞ」と言う声が返ってきた。
「失礼します。ジル様、特産品について、試作品をお持ちしました」
「もうつくったんですか? シルヴィさんは思い切りがすごいですね。それに、神殿の奉仕活動でお菓子づくりをなさっていたとは聞きましたが、存外にレパートリーも多い」
「神殿運営のために売っていたものだけじゃありませんから、つくっていたのは。孤児院の子供たちが寂しくないようにと考えたり、地元で存外に乳が採れ過ぎてしまって、このままじゃ傷むからなんとかしないとと、皆で工夫と知恵で頭を悩ませていた結果です」
「なるほど」
私の言葉に、ジル様は悪戯っぽく笑った。疲れているのか、少しだけ髪がへたってしまっている。
「お疲れでしたら、エリゼさんに頼んでハーブティーのおかわりいただいてきましょうか?」
「もうしばらくしたら夕食ですし、そのときに晩酌をいただきますから結構ですよ。それで試作とは……これですか?」
「はい、ケークサレです」
「たしか塩味のケーキでしたっけ?」
「キッシュの中身だけ焼いたような感じですね。ひと切れどうぞ。バジルさんには、もう少し傷みにくさを考慮したほうがいいと言われましたし、たしかに水分量は問題かもしれないと考えていたところです」
「いただきますね」
ジル様は私がお皿に載せてきたケークサレを、素手で掴んで、大きく頬張った。手掴みで召し上がるなら、キッシュのほうがよかったかもしれない。でもキッシュは小麦生地からつくらないと駄目だしなあと少し考え込む。
ジル様はそれを食べて咀嚼しつつ、あっという間に平らげてしまった。
「おいしいですね。それにこれでしたら、傷みやすい葉物野菜にも使えます」
「ああ、そういえば」
ほうれん草などの葉物野菜は、箱の中に紙で包んで傷まないようにしてから運ばないと駄目で、民間の市場にはコストがかかり過ぎて出回らない。だから農民か貴族以外はほぼ葉物野菜が食べられない訳で。
でもケークサレにする際に、一度茹でてから焼いて水分を飛ばせば、たしかに運べる。
「この作り方は、神殿で教えられますか? 今は呪いの風評被害のせいで、野菜類はそのままじゃ売れないので、神殿を通して売っています。そこでケークサレが広まれば……」
「教えられます、教えられます。それで解決できますか?」
「できます。ものすごくできます……シルヴィさん」
そう言いながら、ジル様は私の手を取ってきた。
「……ありがとうございます」
「……私、ただ神殿で皆でつくっていたもの、つくってみただけで……クレージュ領の野菜がおいしいのに、食べてもらえないのはもったいないから……」
「そう思ってくださるだけで、充分ですよ。ところで」
「はい」
私はしばらく手を取られつつ、これいつ離すんだろうなあとぼんやりと考えていたら。
ジル様の視線は明後日の方向に向いていた。私、またなにかやったかな。そう思って彼の横顔を眺めていたら。
「……今度、一度一緒に散歩をしませんか?」
「はあ、それはかまいませんけれど。ジル様のお仕事は?」
「明日は時間が取れますから。どうでしょうか?」
「私でよろしければ」
「よかった」
途端に頬を綻ばせたジル様に、私は思わず明後日の方向を向いた。
夫婦らしいことをなにひとつしてない私たちが、ふたりで散歩に行こうというのは……デートのような気がする。
一応夫婦だし。式も挙げてないし、本当に夫婦の営みすらしてないけど、夫婦だし。多分そういうのをいくらでもするんでしょう。多分。
そもそも神殿に夫婦が普段なにをするのかなんて話が当然降りてくる訳もなく、その辺りの話は全て私の中では未知の体験だった。
****
道端にはスズランの花が咲いている。
基本的にスズランは毒草だけれど、畑から少し距離を置いた場所に、獣避けとして植える場合が多い。その妖精の通り道を私たちはうきうきとした感じで歩いていた。
「こんな綺麗な場所があったんですね」
「ええ……本当ならブルーベルなどの咲いている場所もあるんですけれど、もうちょっと森の奥まで進まないといけませんので、狩人でもいないと危ないですから、この辺りまでで」
「まあ、たしかにそうですね」
狩人がいないといけない散歩は物々しい。
ジル様は初めて出会った頃と同じく、ラフなシャツにスラックスという、農民と言われても差し支えない格好であり、私もそれに合わせて比較的簡素なワンピース姿で並んでいる。 今日はいい天気だ。全く降らないのも困るけれど、洗濯がよく乾くのはいい。
「シルヴィさんがクレージュ邸に来てからというものの、ずっと休まずに働き通しで。すみません」
「い、いえ! 呪いとか風評被害とかいろいろありますし、それが突破できたらいいなと思いますけど! 神殿が仲介になって野菜や特産品が売れればそれがいいですけど、風評被害がなければもっと手広く商売もできますしね?」
「ええ……あまりに仕事でのびのびになってしまい、なかなかできなかったのですが」
「はい」
「……シルヴィさんは婚姻衣装はどうなさりますか?」
時が止まったような気がした。
本当に忙しそうにあちこちに視察に行ったり、書類に追われてたりしていたし、そもそもが祖父同士の取り決めて決まった結婚だし、それだって元を正せばうちの姉が仮病で逃げたからだし……。
……ああ、そうだ。私がジル様に煮え切らない態度ばかり取り続けていた原因、これだ。
「ジル様。私、ここに来てからずっとよくしてもらっていますし。私自身も神殿の外のことはほとんど知りませんでしたから、すごく楽しいんですが……ひとつだけ、どうしても謝らないといけないことがありまして」
「……謝らないといけないこと? 自分はシルヴィさんに、謝られる覚えはなにもないのですが」
「ジル様はなにも悪くありませんから。ただ……我が家が不誠実だったので」
そして私はとうとう「申し訳ございませんっ!」と頭を下げた。それにジルさんは困ったように私のつむじを眺めていた。
「……私は、本来ならば代打だったんです」
「はい?」
「私は……化石病にかかったせいで、どこからも婚約の打診は見込めないだろうと、そのまま神殿に入れられましたが。姉がクレージュ領の噂を嫌がって逃げ出してしまい……私が呼び戻されました」
言わずに過ごせたなら、それでよかっただろうとは思う。ただ、父は不誠実だったし姉は迷信深いし、なにかあったときに私の実家に助けを求めることはしないほうがいいという意味でも、絶対に伝えないといけなかった。
……これで離縁が決まったら、私クレージュ領の神殿に入れてもらえるだろうか。神殿が変わるだけで、元の生活となんら替わりはないだろう。
「……ジル様に貧乏くじを引かせてしまって、大変に申し訳ございません」
「自分はむしろ、シルヴィさんがあまりにいいようにされていることのほうが、心配になりますが……」
「はい?」
しばらく黙り込んでいたジル様は、私のほうをじぃーっと金色の瞳で見つめていた。
農民たちに混ざって仕事の手伝いをしている姿も、あちこちに視察に向かう姿も、書類仕事でずっと執務室で真剣な眼差しを浮かべている姿も、いくつもいろんな姿を見たけれど。
これだけ気遣われるように見下ろされたのは、初めてだったように思う。
「姉君が我が領地の話を聞いて逃げ出したのは、仕方がないかと思います。多分外では噂に尾ひれが付いて回ってしまったのでしょうしね。誰しもわからない知らないものはおそろしいですから」
「ですけど……」
「でもそれは姉君の話であって、シルヴィさんはずっと神殿にいらっしゃったのに、どうしてあなたに関係あるのですか?」
そう言いながら、ジル様は私の手を取った。
初めて手を取られたときは農作業中で手袋を嵌めていたけれど、今日はなにも嵌めていない。そして私の手の指を絡めた。
「あなたのおかげで、我が領地も助かりました。でも、あなたが来てくれて、たとえ料理ができずとも、神殿の知識がなくとも、きっと我々は歓迎したでしょうね」
「私……大したこと、してませんが……」
「だってあなたは、見た物しか信じず、噂だけで物事を判断しなかったでしょう? 我々も困り果てていたというのに、あなたはなんら怖れることなく進んでくれた。それが自分たちにとっては心地よかったんです……そして、自分にとってそんな人が嫁いでくれたのは、なによりもの誇りです」
「……ジル様」
「今は農作業も小休止ですし、その間に式ができるかと思いますが。どうですか?」
いいんだろうか。そんなに願ってもないこと言われてしまって、いいんだろうか。
私は代打で、なんとかして役に立たないと捨てられると、心のどこかで思っていた。それはあまりに浅はかで見透かされてもしょうがなかったのに、この人は受け入れてくれた。
……私は、この人の妻になれて、よかったのかな。
「……はい」
他に言葉が出てこなくて、私はこれしか伝えることができなかった。
「失礼します。ジル様、特産品について、試作品をお持ちしました」
「もうつくったんですか? シルヴィさんは思い切りがすごいですね。それに、神殿の奉仕活動でお菓子づくりをなさっていたとは聞きましたが、存外にレパートリーも多い」
「神殿運営のために売っていたものだけじゃありませんから、つくっていたのは。孤児院の子供たちが寂しくないようにと考えたり、地元で存外に乳が採れ過ぎてしまって、このままじゃ傷むからなんとかしないとと、皆で工夫と知恵で頭を悩ませていた結果です」
「なるほど」
私の言葉に、ジル様は悪戯っぽく笑った。疲れているのか、少しだけ髪がへたってしまっている。
「お疲れでしたら、エリゼさんに頼んでハーブティーのおかわりいただいてきましょうか?」
「もうしばらくしたら夕食ですし、そのときに晩酌をいただきますから結構ですよ。それで試作とは……これですか?」
「はい、ケークサレです」
「たしか塩味のケーキでしたっけ?」
「キッシュの中身だけ焼いたような感じですね。ひと切れどうぞ。バジルさんには、もう少し傷みにくさを考慮したほうがいいと言われましたし、たしかに水分量は問題かもしれないと考えていたところです」
「いただきますね」
ジル様は私がお皿に載せてきたケークサレを、素手で掴んで、大きく頬張った。手掴みで召し上がるなら、キッシュのほうがよかったかもしれない。でもキッシュは小麦生地からつくらないと駄目だしなあと少し考え込む。
ジル様はそれを食べて咀嚼しつつ、あっという間に平らげてしまった。
「おいしいですね。それにこれでしたら、傷みやすい葉物野菜にも使えます」
「ああ、そういえば」
ほうれん草などの葉物野菜は、箱の中に紙で包んで傷まないようにしてから運ばないと駄目で、民間の市場にはコストがかかり過ぎて出回らない。だから農民か貴族以外はほぼ葉物野菜が食べられない訳で。
でもケークサレにする際に、一度茹でてから焼いて水分を飛ばせば、たしかに運べる。
「この作り方は、神殿で教えられますか? 今は呪いの風評被害のせいで、野菜類はそのままじゃ売れないので、神殿を通して売っています。そこでケークサレが広まれば……」
「教えられます、教えられます。それで解決できますか?」
「できます。ものすごくできます……シルヴィさん」
そう言いながら、ジル様は私の手を取ってきた。
「……ありがとうございます」
「……私、ただ神殿で皆でつくっていたもの、つくってみただけで……クレージュ領の野菜がおいしいのに、食べてもらえないのはもったいないから……」
「そう思ってくださるだけで、充分ですよ。ところで」
「はい」
私はしばらく手を取られつつ、これいつ離すんだろうなあとぼんやりと考えていたら。
ジル様の視線は明後日の方向に向いていた。私、またなにかやったかな。そう思って彼の横顔を眺めていたら。
「……今度、一度一緒に散歩をしませんか?」
「はあ、それはかまいませんけれど。ジル様のお仕事は?」
「明日は時間が取れますから。どうでしょうか?」
「私でよろしければ」
「よかった」
途端に頬を綻ばせたジル様に、私は思わず明後日の方向を向いた。
夫婦らしいことをなにひとつしてない私たちが、ふたりで散歩に行こうというのは……デートのような気がする。
一応夫婦だし。式も挙げてないし、本当に夫婦の営みすらしてないけど、夫婦だし。多分そういうのをいくらでもするんでしょう。多分。
そもそも神殿に夫婦が普段なにをするのかなんて話が当然降りてくる訳もなく、その辺りの話は全て私の中では未知の体験だった。
****
道端にはスズランの花が咲いている。
基本的にスズランは毒草だけれど、畑から少し距離を置いた場所に、獣避けとして植える場合が多い。その妖精の通り道を私たちはうきうきとした感じで歩いていた。
「こんな綺麗な場所があったんですね」
「ええ……本当ならブルーベルなどの咲いている場所もあるんですけれど、もうちょっと森の奥まで進まないといけませんので、狩人でもいないと危ないですから、この辺りまでで」
「まあ、たしかにそうですね」
狩人がいないといけない散歩は物々しい。
ジル様は初めて出会った頃と同じく、ラフなシャツにスラックスという、農民と言われても差し支えない格好であり、私もそれに合わせて比較的簡素なワンピース姿で並んでいる。 今日はいい天気だ。全く降らないのも困るけれど、洗濯がよく乾くのはいい。
「シルヴィさんがクレージュ邸に来てからというものの、ずっと休まずに働き通しで。すみません」
「い、いえ! 呪いとか風評被害とかいろいろありますし、それが突破できたらいいなと思いますけど! 神殿が仲介になって野菜や特産品が売れればそれがいいですけど、風評被害がなければもっと手広く商売もできますしね?」
「ええ……あまりに仕事でのびのびになってしまい、なかなかできなかったのですが」
「はい」
「……シルヴィさんは婚姻衣装はどうなさりますか?」
時が止まったような気がした。
本当に忙しそうにあちこちに視察に行ったり、書類に追われてたりしていたし、そもそもが祖父同士の取り決めて決まった結婚だし、それだって元を正せばうちの姉が仮病で逃げたからだし……。
……ああ、そうだ。私がジル様に煮え切らない態度ばかり取り続けていた原因、これだ。
「ジル様。私、ここに来てからずっとよくしてもらっていますし。私自身も神殿の外のことはほとんど知りませんでしたから、すごく楽しいんですが……ひとつだけ、どうしても謝らないといけないことがありまして」
「……謝らないといけないこと? 自分はシルヴィさんに、謝られる覚えはなにもないのですが」
「ジル様はなにも悪くありませんから。ただ……我が家が不誠実だったので」
そして私はとうとう「申し訳ございませんっ!」と頭を下げた。それにジルさんは困ったように私のつむじを眺めていた。
「……私は、本来ならば代打だったんです」
「はい?」
「私は……化石病にかかったせいで、どこからも婚約の打診は見込めないだろうと、そのまま神殿に入れられましたが。姉がクレージュ領の噂を嫌がって逃げ出してしまい……私が呼び戻されました」
言わずに過ごせたなら、それでよかっただろうとは思う。ただ、父は不誠実だったし姉は迷信深いし、なにかあったときに私の実家に助けを求めることはしないほうがいいという意味でも、絶対に伝えないといけなかった。
……これで離縁が決まったら、私クレージュ領の神殿に入れてもらえるだろうか。神殿が変わるだけで、元の生活となんら替わりはないだろう。
「……ジル様に貧乏くじを引かせてしまって、大変に申し訳ございません」
「自分はむしろ、シルヴィさんがあまりにいいようにされていることのほうが、心配になりますが……」
「はい?」
しばらく黙り込んでいたジル様は、私のほうをじぃーっと金色の瞳で見つめていた。
農民たちに混ざって仕事の手伝いをしている姿も、あちこちに視察に向かう姿も、書類仕事でずっと執務室で真剣な眼差しを浮かべている姿も、いくつもいろんな姿を見たけれど。
これだけ気遣われるように見下ろされたのは、初めてだったように思う。
「姉君が我が領地の話を聞いて逃げ出したのは、仕方がないかと思います。多分外では噂に尾ひれが付いて回ってしまったのでしょうしね。誰しもわからない知らないものはおそろしいですから」
「ですけど……」
「でもそれは姉君の話であって、シルヴィさんはずっと神殿にいらっしゃったのに、どうしてあなたに関係あるのですか?」
そう言いながら、ジル様は私の手を取った。
初めて手を取られたときは農作業中で手袋を嵌めていたけれど、今日はなにも嵌めていない。そして私の手の指を絡めた。
「あなたのおかげで、我が領地も助かりました。でも、あなたが来てくれて、たとえ料理ができずとも、神殿の知識がなくとも、きっと我々は歓迎したでしょうね」
「私……大したこと、してませんが……」
「だってあなたは、見た物しか信じず、噂だけで物事を判断しなかったでしょう? 我々も困り果てていたというのに、あなたはなんら怖れることなく進んでくれた。それが自分たちにとっては心地よかったんです……そして、自分にとってそんな人が嫁いでくれたのは、なによりもの誇りです」
「……ジル様」
「今は農作業も小休止ですし、その間に式ができるかと思いますが。どうですか?」
いいんだろうか。そんなに願ってもないこと言われてしまって、いいんだろうか。
私は代打で、なんとかして役に立たないと捨てられると、心のどこかで思っていた。それはあまりに浅はかで見透かされてもしょうがなかったのに、この人は受け入れてくれた。
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