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避暑地の夜が更け、そして
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私の言葉を、桃矢様は黙って聞いていた。
虫のジリジリという鳴き声が聞こえる中、私は浴槽で膝を抱えた。
「私自身、どこかに嫁ぐことはほぼ無理だと思っていましたから。せめて役割くらいは果たさないといけないと思って来たはずだったんですけどね。いざとなったら勝手に怖がっています。すみません、わがままを言ってしまって」
我ながらずるいことを言っているとわかっている。
元々、貧乏神の末裔なのだから、風水の守りで固められているような鎮目家以外に嫁ごうものなら、家が傾いて一家離散は避けられなかった。
そこで自分の貧乏神から来た健康体質をどうにか引き継がせたいと願う当主様の気持ちを無視して、桃矢様とののんびりとした生活に甘えてしまっていた。この方が体が弱いことをいいことに、彼の健康を願いながらも、彼の体が弱いままであることを無意識の上に願っていた。本当にひどい妻だ。
桃矢様は黙って私の言葉を咀嚼しながら、「いろりさん」と私の名を呼んだ。
「はい?」
「自分のことは、怖いですか?」
「……怖くはありません。ただ、自分が自分でなくなると思うのが、ちょっとだけ怖いです。わかってるつもりだったんですが」
「……すみません。妻の気持ちに寄り添いたくても、残念ながら自分は男で、あなたがここまで怖がっていたことには、気付きませんでした」
桃矢様に肩を抱かれて、頬擦りをされる。
最初に倒れてこんこんと眠っていたときは、本当に生きているのか怪しくて、毎度寝て起きて隣で亡くなっていたらどうしようと思っていたけれど、今彼が温かいのは、なにも一緒に湯浴みしているからだけではないと思う。
私は小さく「すみません……」と俯いたものの、桃矢様は小さく言った。
「……自分は自由に起きられる時間が増えて、わがままになりました……いいえ、元々欲が深いほうがと思いますが、できないことが多過ぎて、欲深に蓋をしていましたが、今はたがが外れている自覚がありますね」
「桃矢様……」
「あなたが欲しいと言ったら、あなたは自分にあなたを差し出せますか?」
そう尋ねられて、私は考え込んだ。
もう桃矢様は、前のように倒れることはない。寝て起きたら亡くなっているなんて悲劇は起こりえないだろう。
彼の体の問題はいいとして、今問題なのは私の気持ちの問題だ。
口付けもした。既に互いの裸も見合っている。風呂にだって一緒に入っている。そこから先のことは、もう大丈夫な気がした。
「……なるべく優しくしてください」
かろうじてそう伝えたら、桃矢様は子供のように笑みを浮かべた。その笑みを見ていたら、もうそれで充分いいような気がした。
****
普段だったら障子の向こうだけれど、ここは洋館であり、窓の向こうだ。窓の向こうから日差しが入ってきて、私は目を細めた。
布団に溺れている。体は思っているよりも痛くはなかったが、寝違えたような違和感がそこかしこにある。
「うう……」
私がごろんと寝返りを打つと、隣ではすやすやと眠っている桃矢様と目が合った。それで思わず昨日のことを思い返して、視線を逸らそうとするが、思わず呼吸をしているか手をかざして確認していた。
彼は思っているよりもきちんと呼吸をしていて、ああよかったとほっとした。
普段だったらもう起き上がって、朝の支度をしていたり女中さんと会話をしている頃だけれど、今日は慰安旅行であり、新婚旅行だ。まだもうしばらくだけ寝ていてもいいのかな。
私がそう思ってもう一度寝返りを打とうとしたところで、手首を取られた。
「……おはようございます。いつも思ってましたが、いろりさんの朝は早いですね」
そうかけられた声はかさついていた。それにどっと頬が熱を持った。
「……おはようございます。あのう……お体は」
「自分が思ったよりも大丈夫なんですが。むしろいろりさんのほうはお加減よろしいですか?」
「私は……ただ寝違えたように違和感あるだけで、思っているよりは……」
「それはよかったです」
ほっとしたように桃矢様は息を吐くと、私を抱き寄せてきた。そろそろ日差しも出てくるだろうし、いくら避暑地とはいえどもここは夏だ。布団も被っているとはいえど人肌は暑いだろう。
「あまり暑いと汗かいちゃいますから。水摂らないと体に悪いですからぁ」
「ならあとで甘酒をいただきに行きましょう。普段は起きたらあなたはいなくなっているんです。たまの休息くらいは独り占めさせてください」
桃矢様が本当にときどきだけ見せる、拗ねた子供のような言動に、私はたじろいだ。この人は存外に独占欲が強く、日頃が本当に物腰が柔らかい分、彼の子供めいた部分に私は弱かった。
「それは……桃矢様、いつも私が起き出すのを気付いてらしたんですか?」
「残念ながら、体が弱過ぎるせいでしょっちゅう寝てばかりなせいでしょうか。どれだけ寝ても眠りが浅いですから、少しの物音で目が覚めてしまうんですよ」
「ああ、申し訳ありません……」
なんとか抱き着かれたのを離そうとぐいぐい押し出すが、桃矢様に足まで絡められたらもう抜け出すことができない。
桃矢様は笑顔で続けた。
「だから二度寝しましょう。今日は既に寝坊する旨は伝えていますから」
「……伝えてらしたんですか」
「ええ、新婚旅行を強調しましたから」
「私、どんな顔でおふたりに会えばいいんですかぁ……」
私はなんとか抵抗して、せめて「ふたりとも喉渇いて倒れたら元も子もありませんから、せめて窓だけ開けさせてください!」と懇願し、やっと離してもらえた。
どうにか布団から抜け出して窓を開けると、そこから爽やかな風が吹き抜けていった。蝉の鳴き声はやはり普段鎮目邸で聞くものとは違い、木々にこだまして涼やかに思える。
私が寝台に戻ると、桃矢様は満足したように私を布団の中に招き入れた。抱き着かれると脱水で倒れるからと私が逃げ出そうとするのを理解したせいか、私の指に彼の指を絡めてくる。最初に触れたときは荒れて爪の端々がささくれ立っていたはずなのに、今やすっかりとつるつるとしていた。
昨日のことを思い出してむず痒くなっていたものの、桃矢様は心底楽しげに声をかけてきた。
「いろりさん」
「……はい?」
「愛しています」
そのひと言で、私は思わずはにかんだ。
「……お慕いしております」
順番がなんだかおかしいような気もするけれど、今の私たちにはこれで充分な気がした。
****
避暑地で散歩をして、地元の猟師が持ってきてくれる新鮮なお肉と野菜をいただき、露天風呂を楽しんで寝る。
楽しい日々もあっという間に終わりを迎え、名残惜しくも私たちを迎えに来る車が来てしまった。私はワンピースに袖を通し「ふう」と息を吐いた。
「どうなさいましたか、いろりさん?」
「いえ。これだけ贅沢を覚えてしまって、鎮目邸に戻って働けるかなと思ったんです」
「ならふたりで逃げますか?」
冗談じみた言葉を言われた。それは桃矢様だって不本意だろう。
鎮目家のお役目の風水のお勤めを、この人が簡単に手放すとは思えない。天職なのだろうし、鎮目邸の風水の守りなしでこの人は無事に凄くことはできない。
それは私も同じで、鎮目邸の風水の守りがなかったら、貧乏神の末裔はあちこちで不幸を招きかねない。ふたり揃って鎮目邸にいたほうが、世のため人のためなによりも自分のためだった。
私がどう答えるかと考えあぐねている間、桃矢様はくつつと笑った。
「冗談です。真に受けないでください」
「真に受けてはいませんが……悪い冗談とは思いました。ただ贅沢を覚えたせいで……今の私は着物が着られるのかなとだけは思いました」
ワンピースであったら、スカートの裾で多少なりとも体型を誤魔化せるが、着物は帯を締めたら否応なく体の細さと太さがわかってしまう。鎮目家に嫁いでから痩せっぽっちだった私もずいぶんとふくよかになったとはいえど、ここまで働きもせずに食べ続けた日々もそうそうになかった。
鎮目邸に帰ったら働かないと。そう思っていたら、相変わらず涼しげな着流し姿の桃矢様にくつくつと笑われてしまった。
「もう……なにがおかしいんですか」
「いえ……初めて出会った頃のことを思い出していました」
「初めて……いきなりの婚姻のときでしょうか」
そもそもいきなり求婚の打診があったと思ったら、あれよあれよという間に次の日には嫁いで、離れで一緒に暮らしていた。
互いに出会ったばかりで、まともに会話すらままならず、食が細いどころじゃない伴侶の姿に唖然としたものだった。
「……なんだか、私は嫁いでからお節介なことしかしてないのですが……」
「いえ。なんだか不思議ですよ、あなたと結婚してからは」
桃矢様は嬉しそうに微笑んだ。
最初に見たときは穏やかな笑みだった。でもいつしか、彼が笑っているときは壁をつくっているときだと気付き、ポロポロと壁が剥がれたら、子供じみた情緒が見え隠れしていて、ちゃんと嬉しくて笑っているときと取り繕うためにつくった笑みとは全然違うということを思い知らされた。
そんなことだって、婚姻当初はわからなかった話だ。
「自分の中に、なんの情緒も育ってなかったと思い知らされたんですよ。あなたの喜怒哀楽を見ていたら」
「……桃矢様、それはただ、私が一般庶民としての生活しか知らないからですよ。そればかり真似しちゃいけません」
「ですけれど、あなただけですよ。自分を心から甘やかしてくれる方は。鎮目邸の長男としてではなく、ただの桃矢として扱ってくれるのは」
そこに、私はなんとも言えない気分になった。
当主様にしろ、彼方さんにしろ、どうしても彼を家族である前に鎮目邸の次期当主として扱ってしまう。彼の見え隠れする癇癪持ちな部分や嫉妬深い性格は、今でこそ八つ橋で隠せるようになったものの、彼自身も自分の癇癪に疲れ果てて収めてしまっただけで、本当はもっと怒らなければならなかった。
私が嫁がなかったら、本当にこの人はどこかで破裂していたんじゃないだろうか。
「……そうかもしれませんね。どのみち私は、持参金抜きでの婚姻以外はできませんでしたから。鎮目邸に婚姻の打診が来なかったらどうすることもできませんでした」
「なら、ふたりともお互い様ということで」
「そうなのかもしれませんね」
自然と桃矢様と手を繋ぎ、ふたりで別荘の入口に立った。
この数日間お世話してくださった三葉さん義郎さん夫婦にお礼を言い、車に乗り込んだ。 車は緩やかに動きはじめた。
片や貧乏が過ぎて、人並みの幸せがよくわからなかった貧乏神の末裔。
片や風水師としての才能があり過ぎて、常に体が弱くてすっかり癇癪持ちになってしまった有名風水家系の次期当主。
いろいろなものが絡み合わなかったら、結びつくことのなかったふたりが、今は夫婦として一緒に過ごしている。
これでよかったのか、本当に踏み込んでよかったのか。いつも悩んではいるものの。
今はこの人に会えたそれだけは本当によかったんだと、この手の温度が教えてくれている。
じきに季節は実りの秋へと向かう。
次の季節もふたりで楽しめると、そう信じている。
<了>
虫のジリジリという鳴き声が聞こえる中、私は浴槽で膝を抱えた。
「私自身、どこかに嫁ぐことはほぼ無理だと思っていましたから。せめて役割くらいは果たさないといけないと思って来たはずだったんですけどね。いざとなったら勝手に怖がっています。すみません、わがままを言ってしまって」
我ながらずるいことを言っているとわかっている。
元々、貧乏神の末裔なのだから、風水の守りで固められているような鎮目家以外に嫁ごうものなら、家が傾いて一家離散は避けられなかった。
そこで自分の貧乏神から来た健康体質をどうにか引き継がせたいと願う当主様の気持ちを無視して、桃矢様とののんびりとした生活に甘えてしまっていた。この方が体が弱いことをいいことに、彼の健康を願いながらも、彼の体が弱いままであることを無意識の上に願っていた。本当にひどい妻だ。
桃矢様は黙って私の言葉を咀嚼しながら、「いろりさん」と私の名を呼んだ。
「はい?」
「自分のことは、怖いですか?」
「……怖くはありません。ただ、自分が自分でなくなると思うのが、ちょっとだけ怖いです。わかってるつもりだったんですが」
「……すみません。妻の気持ちに寄り添いたくても、残念ながら自分は男で、あなたがここまで怖がっていたことには、気付きませんでした」
桃矢様に肩を抱かれて、頬擦りをされる。
最初に倒れてこんこんと眠っていたときは、本当に生きているのか怪しくて、毎度寝て起きて隣で亡くなっていたらどうしようと思っていたけれど、今彼が温かいのは、なにも一緒に湯浴みしているからだけではないと思う。
私は小さく「すみません……」と俯いたものの、桃矢様は小さく言った。
「……自分は自由に起きられる時間が増えて、わがままになりました……いいえ、元々欲が深いほうがと思いますが、できないことが多過ぎて、欲深に蓋をしていましたが、今はたがが外れている自覚がありますね」
「桃矢様……」
「あなたが欲しいと言ったら、あなたは自分にあなたを差し出せますか?」
そう尋ねられて、私は考え込んだ。
もう桃矢様は、前のように倒れることはない。寝て起きたら亡くなっているなんて悲劇は起こりえないだろう。
彼の体の問題はいいとして、今問題なのは私の気持ちの問題だ。
口付けもした。既に互いの裸も見合っている。風呂にだって一緒に入っている。そこから先のことは、もう大丈夫な気がした。
「……なるべく優しくしてください」
かろうじてそう伝えたら、桃矢様は子供のように笑みを浮かべた。その笑みを見ていたら、もうそれで充分いいような気がした。
****
普段だったら障子の向こうだけれど、ここは洋館であり、窓の向こうだ。窓の向こうから日差しが入ってきて、私は目を細めた。
布団に溺れている。体は思っているよりも痛くはなかったが、寝違えたような違和感がそこかしこにある。
「うう……」
私がごろんと寝返りを打つと、隣ではすやすやと眠っている桃矢様と目が合った。それで思わず昨日のことを思い返して、視線を逸らそうとするが、思わず呼吸をしているか手をかざして確認していた。
彼は思っているよりもきちんと呼吸をしていて、ああよかったとほっとした。
普段だったらもう起き上がって、朝の支度をしていたり女中さんと会話をしている頃だけれど、今日は慰安旅行であり、新婚旅行だ。まだもうしばらくだけ寝ていてもいいのかな。
私がそう思ってもう一度寝返りを打とうとしたところで、手首を取られた。
「……おはようございます。いつも思ってましたが、いろりさんの朝は早いですね」
そうかけられた声はかさついていた。それにどっと頬が熱を持った。
「……おはようございます。あのう……お体は」
「自分が思ったよりも大丈夫なんですが。むしろいろりさんのほうはお加減よろしいですか?」
「私は……ただ寝違えたように違和感あるだけで、思っているよりは……」
「それはよかったです」
ほっとしたように桃矢様は息を吐くと、私を抱き寄せてきた。そろそろ日差しも出てくるだろうし、いくら避暑地とはいえどもここは夏だ。布団も被っているとはいえど人肌は暑いだろう。
「あまり暑いと汗かいちゃいますから。水摂らないと体に悪いですからぁ」
「ならあとで甘酒をいただきに行きましょう。普段は起きたらあなたはいなくなっているんです。たまの休息くらいは独り占めさせてください」
桃矢様が本当にときどきだけ見せる、拗ねた子供のような言動に、私はたじろいだ。この人は存外に独占欲が強く、日頃が本当に物腰が柔らかい分、彼の子供めいた部分に私は弱かった。
「それは……桃矢様、いつも私が起き出すのを気付いてらしたんですか?」
「残念ながら、体が弱過ぎるせいでしょっちゅう寝てばかりなせいでしょうか。どれだけ寝ても眠りが浅いですから、少しの物音で目が覚めてしまうんですよ」
「ああ、申し訳ありません……」
なんとか抱き着かれたのを離そうとぐいぐい押し出すが、桃矢様に足まで絡められたらもう抜け出すことができない。
桃矢様は笑顔で続けた。
「だから二度寝しましょう。今日は既に寝坊する旨は伝えていますから」
「……伝えてらしたんですか」
「ええ、新婚旅行を強調しましたから」
「私、どんな顔でおふたりに会えばいいんですかぁ……」
私はなんとか抵抗して、せめて「ふたりとも喉渇いて倒れたら元も子もありませんから、せめて窓だけ開けさせてください!」と懇願し、やっと離してもらえた。
どうにか布団から抜け出して窓を開けると、そこから爽やかな風が吹き抜けていった。蝉の鳴き声はやはり普段鎮目邸で聞くものとは違い、木々にこだまして涼やかに思える。
私が寝台に戻ると、桃矢様は満足したように私を布団の中に招き入れた。抱き着かれると脱水で倒れるからと私が逃げ出そうとするのを理解したせいか、私の指に彼の指を絡めてくる。最初に触れたときは荒れて爪の端々がささくれ立っていたはずなのに、今やすっかりとつるつるとしていた。
昨日のことを思い出してむず痒くなっていたものの、桃矢様は心底楽しげに声をかけてきた。
「いろりさん」
「……はい?」
「愛しています」
そのひと言で、私は思わずはにかんだ。
「……お慕いしております」
順番がなんだかおかしいような気もするけれど、今の私たちにはこれで充分な気がした。
****
避暑地で散歩をして、地元の猟師が持ってきてくれる新鮮なお肉と野菜をいただき、露天風呂を楽しんで寝る。
楽しい日々もあっという間に終わりを迎え、名残惜しくも私たちを迎えに来る車が来てしまった。私はワンピースに袖を通し「ふう」と息を吐いた。
「どうなさいましたか、いろりさん?」
「いえ。これだけ贅沢を覚えてしまって、鎮目邸に戻って働けるかなと思ったんです」
「ならふたりで逃げますか?」
冗談じみた言葉を言われた。それは桃矢様だって不本意だろう。
鎮目家のお役目の風水のお勤めを、この人が簡単に手放すとは思えない。天職なのだろうし、鎮目邸の風水の守りなしでこの人は無事に凄くことはできない。
それは私も同じで、鎮目邸の風水の守りがなかったら、貧乏神の末裔はあちこちで不幸を招きかねない。ふたり揃って鎮目邸にいたほうが、世のため人のためなによりも自分のためだった。
私がどう答えるかと考えあぐねている間、桃矢様はくつつと笑った。
「冗談です。真に受けないでください」
「真に受けてはいませんが……悪い冗談とは思いました。ただ贅沢を覚えたせいで……今の私は着物が着られるのかなとだけは思いました」
ワンピースであったら、スカートの裾で多少なりとも体型を誤魔化せるが、着物は帯を締めたら否応なく体の細さと太さがわかってしまう。鎮目家に嫁いでから痩せっぽっちだった私もずいぶんとふくよかになったとはいえど、ここまで働きもせずに食べ続けた日々もそうそうになかった。
鎮目邸に帰ったら働かないと。そう思っていたら、相変わらず涼しげな着流し姿の桃矢様にくつくつと笑われてしまった。
「もう……なにがおかしいんですか」
「いえ……初めて出会った頃のことを思い出していました」
「初めて……いきなりの婚姻のときでしょうか」
そもそもいきなり求婚の打診があったと思ったら、あれよあれよという間に次の日には嫁いで、離れで一緒に暮らしていた。
互いに出会ったばかりで、まともに会話すらままならず、食が細いどころじゃない伴侶の姿に唖然としたものだった。
「……なんだか、私は嫁いでからお節介なことしかしてないのですが……」
「いえ。なんだか不思議ですよ、あなたと結婚してからは」
桃矢様は嬉しそうに微笑んだ。
最初に見たときは穏やかな笑みだった。でもいつしか、彼が笑っているときは壁をつくっているときだと気付き、ポロポロと壁が剥がれたら、子供じみた情緒が見え隠れしていて、ちゃんと嬉しくて笑っているときと取り繕うためにつくった笑みとは全然違うということを思い知らされた。
そんなことだって、婚姻当初はわからなかった話だ。
「自分の中に、なんの情緒も育ってなかったと思い知らされたんですよ。あなたの喜怒哀楽を見ていたら」
「……桃矢様、それはただ、私が一般庶民としての生活しか知らないからですよ。そればかり真似しちゃいけません」
「ですけれど、あなただけですよ。自分を心から甘やかしてくれる方は。鎮目邸の長男としてではなく、ただの桃矢として扱ってくれるのは」
そこに、私はなんとも言えない気分になった。
当主様にしろ、彼方さんにしろ、どうしても彼を家族である前に鎮目邸の次期当主として扱ってしまう。彼の見え隠れする癇癪持ちな部分や嫉妬深い性格は、今でこそ八つ橋で隠せるようになったものの、彼自身も自分の癇癪に疲れ果てて収めてしまっただけで、本当はもっと怒らなければならなかった。
私が嫁がなかったら、本当にこの人はどこかで破裂していたんじゃないだろうか。
「……そうかもしれませんね。どのみち私は、持参金抜きでの婚姻以外はできませんでしたから。鎮目邸に婚姻の打診が来なかったらどうすることもできませんでした」
「なら、ふたりともお互い様ということで」
「そうなのかもしれませんね」
自然と桃矢様と手を繋ぎ、ふたりで別荘の入口に立った。
この数日間お世話してくださった三葉さん義郎さん夫婦にお礼を言い、車に乗り込んだ。 車は緩やかに動きはじめた。
片や貧乏が過ぎて、人並みの幸せがよくわからなかった貧乏神の末裔。
片や風水師としての才能があり過ぎて、常に体が弱くてすっかり癇癪持ちになってしまった有名風水家系の次期当主。
いろいろなものが絡み合わなかったら、結びつくことのなかったふたりが、今は夫婦として一緒に過ごしている。
これでよかったのか、本当に踏み込んでよかったのか。いつも悩んではいるものの。
今はこの人に会えたそれだけは本当によかったんだと、この手の温度が教えてくれている。
じきに季節は実りの秋へと向かう。
次の季節もふたりで楽しめると、そう信じている。
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