大正逢魔が時怪奇譚

石田空

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夜明けと決着

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 十和子が薄緑に精一杯力を込めている中。ふいに泰山府君の一カ所が透けて見えることに気付いた。
 いつかに見えた、なにもかもがゆっくり見えるときと同じく。

(……刃を放したら、十中八九吹き飛ばされる……そのときに勢いを殺せば……斬れる?)

 失敗したら地面に突き飛ばされるだけでは済まないし、先程からなにやら話をしている要と霧彦の会話を中断させてしまう。腹を踏まれたら一カ所だけ見つけた隙を突き刺すことすら困難だが。
 十和子はすっと力を抜いた。
 隙は一瞬、好機もほんのわずかだけだ……そのわずかこそが、今一番欲しかったものだ。

「なんだ、もう降参か。まあよい。そちと遊ぶのにも飽いた」

 道満が悠然と笑う。泰山府君はそのまま薄緑ごと十和子を突き飛ばしたが。彼女はその突き飛ばされた衝撃を地面を大きく突っ張って殺した。草履が摩擦で大きく傷むが、それはもうしょうがないと諦める。
 十和子は再び地面を蹴って、あの隙まで薄緑を突き刺した。

「観念、なさい…………!!」

 八幡大菩薩。戦神と呼ばれた武者たちがことごとくかの菩薩の化身と称されたが、十和子もまた、その光を放っていた。
 この一瞬だけは、彼女の速さに誰ひとりとしてついてこれず、あれだけ硬かったはずの泰山府君が、唯一布団の感触のまま切り裂ける場所を、薄緑の刃が食い破る。
 食い破った先を目指して、十和子は一閃した。
 途端に泰山府君がパァァァアンと音を立てて弾け飛んだ。それに道満はうろたえた顔をしてみせる。

「……まさか、泰山府君を滅しただと?」
「……あなたもお願いだから、帰って」

 黒い鶴が道満により差し迫るが、それは十和子の速さについては来られなかった。ただ、星神さえなければ、十和子はいち呪術師には負けない。十和子は道満に刃を向ける。

「……ごめんなさい」

 そう言い残し、彼女は道満の胴を一閃した。
 血は流れなかった。代わりに、ドロリとした真っ黒の汚物が流れた。その怖気のする気配は、地下湖に溜め込まれたのを見た、邪気そのものだった。
 一瞬その邪気は肉体を失ったことで、十和子を新たな肉体にしようと差し迫ったが。
 それより先に、結界が発動した。何重にも張り巡らされ、要が必死になって修復した結界が、十和子と邪気の狭間で発動し、邪気を吸い込みはじめたのだ。結界を溶かさんとばかりに、薄皮の中で暴れ回るが、それも束の間。まるでごっくんと飲み込まれるようにして、結界に邪気は取り込まれ、消えていった。もう、怖気はどこにもない。

「……終わったんですか、要さん」

 十和子は振り返ると、要と霧彦は未だに対峙していた。そして。霧彦から先程さんざん手こずらされた道満と同じく……いや、それ以上に濃い怖気を感じた。

「霧彦」
「……うるさい、偽善者が。裏切り者が」
「やめろ。こんなに大量の邪気、人間が浴びていい量じゃない」
「うるさい。うるさいうるさいうるさいるらあいるさあららたたとぇあえわががガガガガガガ…………っっっっ!!」

 だんだん人の言葉を離さなくなった霧彦が、だんだん変色していく。
 スーツが破れ、そこからは邪気を孕んだ腕が、脚が伸びる。赤黒くなった肌、金色に脱色された瞳。そして額を突き破って生える角。口元からは八重歯が牙のように伸びてしまっている。

「これ……どうしたら……!?」
「……祓うしかない。十和子くん、手伝ってくれるか?」
「手伝いますよ! だってこの人……誠ちゃんの大事な人ですから……っ!!」

 十和子自身、彼に対してあまりいい印象がない。
 ただ、自分にとって大切な人たちが大事にしている人であり、それを彼女は尊重したいと思った。
 十和子は薄緑を握ろうとしたが。そのとき、彼女はようやく要の手に気付いた。彼の手をパシンと掴む。

「……要さん、これ以上手から血が抜けたら……死んじゃいます」
「だが、術式を書かなければ……」
「……この術式、術を使う要さんのものでなければなりませんか?」
「血を紙に流し込むことで術式を発動させるから、俺以外の血でも……」
「……わたしの手を、使ってください!」

 十和子は躊躇いなく、自身の手首を薄緑で切って、血をどろりと溢れさせた。それに要はぎょっとする。

「君、馬鹿なことをするな!? たしかに……血があればそれでかまわないとは言ったが!」
「馬鹿じゃありませんよ! 要さんの血をこれ以上流させたくないだけです! わたしがわたしでいるためにも、あなたが無事じゃないと駄目なんですから!」

 とにかく要は苦虫を噛みつぶした顔で、彼女の血を一旦懐紙で吸い取ると、その懐紙を絞りながら術式を書きはじめた。
 霧彦の変じた鬼は、既に正気を失っている。十和子たちを無視して、結界の外に出ようと、暴れはじめたのだ。その中で、要は必死に人形を折り畳んだ。

「……霧彦には、呪術師たちの呪いと一緒に、邪気を大量に溜め込んでいる。それらを一気に解くには……この人形で足止めしている間に、俺が呪文を唱えないといけない。十和子くんには、その間に足止めを頼みたいが……できるか?」
「します」

 十和子はできるとは言わなかった。ただ、その言葉に要は安堵した。

「頼む……」
「わかっていますよ!」

 人形が飛んでいき、霧彦の太くなったうなじに張り付いた。それでビクンビクンと動きを止めたのを見計らって、十和子は刃を背にして薄緑を振るった。

「お願いですから……霧彦さんの呪文が唱え終わるまで、大人しくしてて……!!」

 泰山府君よりも、かつて戦った大鬼よりも硬いので、薄緑が折れるのではないかとヒヤヒヤする。斬れずに殴った反動で、十和子の腕がビリビリと痺れる。先程要にあげるために大量に血を噴き出したことで、余計にだ。
 霧彦はバタンバタンと暴れるが、十和子は背後の要を気にした。
 陰陽師の呪文がどれだけかかるのかはわからないが、いつも唱えているものよりも長いような気がした。
 斬るよりも、止めるほうが難しい。霧彦が暴れて腕を払って結界を破ろうとするのを、なんとか十和子は彼の太い腕を弾いて持ち直しているが、彼女の腕の痺れもだんだん大きくなってきた。

(駄目……校庭から出しちゃ、駄目……要さんの呪文が完成するまでは、絶対に外に出さないから……!)

 彼女が必死で霧彦を止めている中。
 校庭まで走ってくる足音が響いた。軽い走り方は、どう聞いても女性のものだった。

「……誠ちゃん」
「霧彦さん! お願いだからやめて……!!」

 彼女は校庭をずっと見ていたから、藤堂が止めるのも聞かずに飛び出してきてしまったのだろう。彼女はなんの躊躇いもなく、変質してしまった彼に飛びついたのだ。

「……あなたをお慕いしています。あなたが私を利用していたとしても、私はあなたのことをお慕いしているんです。お願いですから……そっちに行かないで……!!」

 霧彦は一瞬動きが止まったようにも見えたが、自身の腰に抱き着く人間を邪魔そうに払いのけようとするが。それを必死で十和子は薄緑で弾いて誠を守る。

「あなたがいい人か悪い人かは、この際どっちでもいいです! ただ……あなたと一緒に生きたいって声だけは、聞かないと駄目じゃないですか!!」
「ガガガガガガァァァァァア…………!!」

 十和子の叫びに逆上した霧彦が襲いかかるが、それでもなお、十和子は彼の拳を弾き続ける。

「効きません、もうあなたの攻撃は効きません! ただ暴力と呪いだけを撒き散らす攻撃は、わたしには通用しません!」

 誠は十和子の光を驚いたように見つめていたが、それでも必死に彼女の背中から霧彦に声をかけ続ける。

「終わりましょう! 全部おしまいにするんです! 霧彦さん!」

 ふたりの女子が必死で叫びながら、霧彦と対峙している中。必死で呪文を詠唱していた要が、十和子の血で書いた術式を人形に刻み、折り畳む。

「臨兵闘者皆陣列在前……! 召喚、牛頭天王……!!」

 牛頭天王は、別名祇園天王とも呼ばれ、かつては祇園をはじめとする御霊を鎮める神であった。祇園祭も本来ならば牛頭天王を祀りながら厄祓いを行う行事であったが、明治維新による神仏別離により、牛頭天王もまた姿を消してしまった。
 陰陽道の中では未だに祀られる神の一柱であり、最大の厄祓いの神格である。
 これにより、霧彦の大量に飲み込んでしまった邪気を……呪術師たちにかけられた呪いを、解く。
 シューシューと音を立てて、邪気が消えていく。
 その立ち上る湯気はすさまじく、見ていて霧彦は大丈夫なのかと心配にはなるが、それでも彼の中に積もりに積もった恨みつらみ妬み嫉みが、祓われていく。
 だんだん、彼の体が縮み、本来の霧彦の背丈に戻っていった。額を割った角は砕け落ち、目の色も日本人の黒へと戻っていった。とうとう彼は疲れ果てたのか、膝をついて崩れ落ちてしまった。

「霧彦さん……!!」

 慌てて誠が走ってきて彼を受け止めると、霧彦は力なく要と十和子を見た。

「……これで満足かい? 君の自己満足に自分を付き合わせてさ」
「ああ、たしかに自己満足だ。俺は君の気持ちをまるで考えちゃいない」

 その言葉に、十和子はハラハラしながら両者を見る。しかし要は引かない。

「恨みも妬みも忘れろなんて言わない。それがなければ生きていけない人間だっているからだ。だが……それに心身共に蝕まれて、虫食いだらけの人生なんて、生きていると言えるのか?」
「君がそれを言うのか……君の父親なんて、未だに起きないじゃないか」
「ああ。わかっている。俺だって許せないものを持っている。だから忘れろなんて薄情なことは言えないんだ。でも君は気を許している相手がたったひとりでもいるじゃないか。その相手に報いる生き方があっても、いいんじゃないか?」

 途端に霧彦は黙り込んでしまった。
 そこへパチパチと手を叩く音が響いた。

「うん、要、お見事」
「藤堂……」
「この町をさんざん荒らし回っていた呪術師には手をこまねいていたけれど、彼を生け捕りにしてくれたからね。しかもきっちりと呪術師の呪いも解いて。これでやっと、呪術師たちへ反撃する手段が得られる。陰陽寮の名をもって、彼を連行する」

 そう言って藤堂は霧彦を連行しようとするが。それを邪魔するように誠が立ち塞がった。

「……やめてください。もう霧彦さんはその方々と縁を切りますから」
「そうは言ってもね。この町でも被害者も犠牲者も出ている。野放しにはできないんだ」
「だったら……私も逮捕してください。霧彦さんを連れて行くなら、私も逮捕してください。お願いします……お願いします」

 そう言い出した誠に「誠さん」とやんわりとした声が投げかけられた。

「自分のことは、忘れていいですから。行くよ。呪術師たちの情報が欲しいならくれてやる」

 彼は藤堂に連れて行かれるまで、全く抵抗する素振りもなく、誠のほうにも……要のほうにも振り向くことはなかった。
 そのまま誠は泣き崩れてしまったが、要はすこしばかりすっきりとした顔で、その背中を見送っていた。

「あの……霧彦さん。どうなるんでしょうか……?」
「いくら陰陽寮が呪術関連のことで力を持っているとはいえど、呪術師に墜ちた神社の宮司に危害を加えるようなことはしないだろう。本当に、呪術師たちの情報を抜くだけに終わるさ」
「だったら……誠ちゃんのところに、帰ってこられますか?」
「さあ……彼女が許すのならば」
「……待ちます」

 それに誠はきっぱりと言い切った。

「今までずっと文通をしていたんです。会えない時間もそうでした……その時間がまた来ただけです」

 その潔さが、十和子にとっても好ましかった。
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