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獣化した者の末路

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 アブニールは森の中を当て所もなく駆け回った。ただただ執拗に追いかけてくるフラムを撒くためだけに、暗闇に染まる獣道を走り続けていた。
 不思議だった。身体は重たく辛いのに、なぜか体力に果てがない。まるでアブニールを保っていた鎧が外れてしまったみたいで、このまま夜明けまで足を止めずとも平気そうだ。
 向かい風を切って走る感覚が心地よい。頬にぶつかり後方に流れていく風は、まるでアブニールを避けて道を譲ってくれているかのようだ。
 走るのってこんなに気持ちいいのか。ぬかるんだ道も、木の根の盛り上がったでこぼこ道も関係ない。今のアブニールは自然と一体化している。アブニールを阻むものなど何もない。
 ああ、どうして今まで忘れていたのだろう。アブニールが本来在るべき場所はここなのだ。自然の中こそ、自分の居場所。アブニールの故郷だ。
 そもそもなぜ走っていたのだろう。分からない。だけどこんなにも心地よい。だからもうどうでもいい。自ずと唇が笑みの形にゆがんだ。自分が壊れていく事にも気付かずに、自然と同化する喜びを全身で感じる。
 とても軽快に走っていたのに、突然足がもつれて、アブニールは転んだ。勢いを殺せなかったので、二度、三度、地面を跳ねることになり、最終的には身体が地面に擦れる。とっさに顔を庇った腕が熱くなったが、痛みはそれほどではなかった。

「……っ」

 ほっとしたアブニールだったが、視界に入った自分の腕をみて戦慄した。
 つるりとしていたはずの人肌が黒い被毛に覆われている。繊細な動作を可能にする細長い指先は、今や妙に丸っこくなり、恐る恐るひっくりかえしてみると、人間にはあるはずのない肉のふくらみが目に入った。
 その手で顔に触れてさらに恐怖する。鼻から下が長く尖った形状に変わっていた。しかもいつの間にか、すべての音を頭頂部から生えた三角形の耳で聴きとっている。
 わざわざ鏡を見て姿を確認せずとも、黒犬に……ノワールの姿に近づきつつあるのだと分かって悲鳴を上げる。だが口から出たのは物悲しい遠吠えで、アブニールは身の毛のよだつ思いを味わった。もう自分は人の言葉を話すことも出来ない。
 怖くて涙が出そうなのに、もう泣くことも出来ない。アブニールはがくがくと怯える身体を奮い立たせて立ち上がった。とたんに、するりと靴が脱げる。
 地面に点々と転がる靴を見て転倒の原因にたどり着く。人の形を成していないアブニールの足にはもう、靴など無用の長物なのだ。

(はは。何をしてんだか……)

 犬のように森の中を駆け回っている場合じゃない。アブニールはやっと自分の成すべきことを思い出した。
 きっとこれが最期のチャンスだ。次に理性を失ってしまったらもう、アブニールは人として死を迎える。
 アブニールは転んだ拍子に落としてしまったナイフを拾い上げた。片手で掴むのはもう難しくて、両手で挟むようにして手に取る。この状態だとあまり力が入らないが、失敗するはずもない。ちょっと血管を傷つけてやれば、そこから猛毒が入り込んでいずれは息の根を止めてくれる。
 心臓が完全に停止するまで苦しむことにはなるだろうが、痛みも悲しみもない場所へと旅立つ前の最期の試練だと思おう。

(まさか……とうさんと同じ末路を迎えることになるなんてな)

 願わくば、最期は仲間の墓標の前で果てたかった。だけどもうそんな遠い場所へはいけない。
 アブニールとしての意識はもはや風前の灯火だ。
 それでも仲間たちは迎えに来てくれるだろうか。養父は早死にすることになったアブニールを叱るかもしれない。養父のげんこつは重くて痛い。でも、酷く懐かしい気持ちになるに違いない。
 それに最初は起こるかもしれないが、次にはきっと暖かく迎え入れてくれる。かつてアブニールを拾ってくれた時のように。ぼろ布みたいになって凍えているアブニールを抱きしめてくれる。

(皆、とうさん……俺も今、そっちへ行くよ)

 もう一人で戦わなくていい。ひとりぼっちの夜を過ごさなくていい。アブニールの中にすでに恐怖はなかった。穏やかな気持ちでナイフを首筋に押し当てる。後はこれをもう少し深く擦るようにすれば、いいだけ。そうすれば孤独から解放される。

(ひとり……? 俺は本当に一人だった?)

 にわかに見知らぬ男の姿が脳裏によぎって、アブニールの手が止まった。
 時に柔和に、時に意地悪そうに笑う男。今の男はいったい誰だったろう。アブニールの中から、記憶がどんどん欠けて消滅していくというのに、ごく最近の記憶であるはずの男の姿だけがいつまでも消えない。
 もう名前も覚えていないのに、思い出さなければいけないような気持ちになる。
 その直後、まるでアブニールの疑問に答えるように何かが近づいてくる足音が聞こえた。茂みをかき分ける音がどんどん近くなって、うるさいくらいだ。
 やがて樹冠が作る闇の中から、一人の男が姿を現した。
 なかなかの美男なのに台無しなほど髪がぼさぼさで、葉っぱまでつけている。
 息が浅く、濃い汗のにおいがした。
 走っていたのか。人間が。こんな夜に森の中を。ずいぶんと変わった人間だなと思った。
 そして、知らないはずなのに、なぜか心の中が「会いたかった」という気持ちでいっぱいになった。
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