電車の男

月世

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Ⅷ.加賀編

慰安旅行

「加賀君、ポッキー食べる?」
 前畑が前の席から振り返り、身を乗り出してポッキーを突きつけてくる。
「あーん」
「ありがとう」
 チョコのついていない部分を慎重につまんで受け取った。前畑は残念そうに鼻から息を吐き出した。
「前畑さん、僕にもください。あーん」
 隣に座っている高橋がひな鳥のように口を開けたが、前畑は無視して「ねえ、聞いた?」と言った。
「今回の慰安旅行さ、女子社員の参加人数、去年のほぼ二倍だって。バス一台増やしたって総務の人が話してたよ」
「箱根だから?」
 俺が訊くと、前畑の隣から後藤が顔を出した。
「総務が情報漏洩したんだよ。加賀君が参加するって社内にばらしたの」
「ひどいよね!」
 後藤の隣で前畑が憤慨したが、勝手に出席で提出するほうがひどいと思う。
「主任の人気すごいですよね。僕もあやかりたいなあ。どうやったらモテますか?」
 高橋が真剣な顔で言った。
「さあ?」
「あんたは何しても駄目。素材が違うんだから」
「え、でも僕、可愛い顔だってよく言われますよ」
 高橋が反論する。
「よく言われるって、誰が言うのよ」
「えー、お母さん?」
 俺と後藤が同時に吹き出して笑ったが、前畑は渋い顔で「バーカ」と吐き捨てた。
 なんだかんだ、高橋と前畑はいいコンビだと思う。
 高橋が入社したての頃、前畑に彼氏はいないのかと訊かれたことがあった。多分、いいなと思ったのだろうが、前畑を狙っても無駄だとすぐに気がつき、以来、好意を見せることはなくなった。
 付き合えば面白いのに。言い合う二人から目を逸らして窓の外を眺めた。自然が広がっている。もうそろそろ着くかもしれない。
 携帯が震えた。画面を見ると、倉知からのメールだった。
『加賀さんに会いたい。』
 たった一言が、悲痛な叫びのようだった。
 週末に社内旅行があるせいで、どの部署も調整に追われた。毎日残業続きで、月曜日の寝落ち事件以来、二人の時間が確保できなかった。
 毎朝の通勤電車で顔を合わせてはいたが、倉知は日に日にやつれていった。触れ合えないのがつらいのだ。
「主任、彼女ですか?」
 高橋が目を細くして笑う。画面を覗き込もうとする図々しい顔面を押しのけた。
「寂しがってるんですか? 彼女さんとも温泉行けたらいいですよね」
「来週行くよ」
「いやあ、ずるい!」
 前の席から顔を出した前畑が、髪を振り乱して発狂する。バスに乗っているのは営業部の人間だけだから、前畑の挙動には慣れている。誰も驚かないし、心配もしない。
「ずるいって、今からみんなで温泉行くんだろ」
「私は加賀君と二人っきりで、露天風呂付き客室に泊まりたいの」
 前畑が五月とまったく同じことを言ったので、ぞっとした。
「それ、はやってんの?」
「え? そういうプランなの? 羨ましすぎて死ねる!」
 俺の「彼女」が男だと知ったら、どんな反応をするのだろう。悲しむ? 嫌悪する? 喜ぶ? 想像がつかない。
「加賀君」
 あらゆる反応をイメージしていると、前畑が背もたれから半分顔を出して俺を呼んだ。
「なんで私を見つめるの? 好きなの? 私は好き!」
「ごめん、考えごとしてた」
「もう、ずっと考えごとしてて! そして見つめて!」
「前畑さんは、彼氏作らないんですか?」
 高橋が無遠慮に訊いた。この流れでそれを訊くところが高橋ならではというか、ずれている。
「うるさい、ゆとり」
「だって、せっかく美人なのに、もったいないですよ」
 高橋がしゃあしゃあと言った。前畑が歌舞伎役者のように顔面を器用に歪ませた。
「何よ、キモイ」
「主任は絶対に振り返らないんだから、追いかけても仕方なくないですか?」
「ゆとり、お黙り! ハウス! ハウス!」
「バスにハウスなんてないですよぉ」
 高橋の横顔を見ながら、もしかして、と思った。
 諦めたのかと思っていたが、まだ前畑に気があるのかもしれない。美人と言われて前畑も悪い気がしていないようだった。
 倉知からのメールをもう一度開いて、返信文を打つ。
『俺もだよ。着いたら電話する』
 送信すると、速効で返ってくる。
『ヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪』
 ブッと吹き出してしまった。
「あ、主任が彼女とラブラブメールしてる」
「私ともラブラブして!」
 すぐにメールが来た。想像通りの内容だ。
『変なの送ってすいません。スマホやめたいです。』
 今時の若者のくせに使いこなせない不器用なところが可愛い。
「あーくそ、会いてえ」
 無意識に口に出していた。携帯から顔を上げると、二人がこっちを見ていた。後藤も反応して、背もたれから顔を出す。
「悩殺ボイスのおかげで目が覚めたんだけど」
 後藤がじとっとした目で見てくる。
「ごめん」
「もおおお、加賀君は今日と明日、メール禁止! 私だけを見て!」
「僕のことも見てください」
 二人が詰め寄ってくる。素直に携帯をしまった。
「わかったよ」
 そうこうしているうちにホテルに着いた。例年はもう少しこじんまりとした旅館らしいが、今年は大人数を収容するホテルに変更になった。
 バスから降りると、他部署の女性社員が「キャー」と声を上げる。
「私服だよ、私服」
「ヤバイ」
「激レア」
「カッコイイ」
「可愛い」
「カッコカワイイ」
 ヒソヒソ言っているつもりらしいが筒抜けだった。
 携帯を向けて写真を撮ろうとする社員もいる。うんざりした。社内行事に参加すると、これだから嫌なのだ。
 こういう光景を見たら、倉知は発狂するかもしれない。
「うわ、露骨。こりゃ大変だわ」
 後藤が肩をすくめる。
「僕が守ります」
 高橋が薄っぺらい胸を張る。
「私が守る! ちょっとそこ、勝手に撮らないでよ!」
 前畑が高橋と肩を組んで俺の前に立ちふさがる。残念ながら、背の低い二人は盾にはならない。
「おーい、お前ら、何やってる。行くぞー」
 部長がこっちを向いて、鍵を持った手を振った。
「加賀君、あとでね。変な女に捕まらないでね!」
 女性陣の部屋は別の階らしい。エレベーターが男だけになって、妙に安心した。
「混浴ないんだって、残念だなあ」
 部長が心底残念そうに言った。
「ねえ加賀君、残念だよね」
「いえいえ、なくてよかったです」
 なんで俺にふるんだよ。笑って首を撫でさする。
「モテるからねえ。君はあれだな、モデルか俳優かすれば売れるだろうね」
「あれ、部長、俺がいなくてもいいんですか」
 エレベーターの階数を見上げていた部長が、慌てて振り返る。
「困るよ、辞めないで」
「部長、部長、僕は?」
 高橋が体を揺らして自分を指差した。
「うん……、高橋君は、うん、何か他にしたいことがあったら、挑戦しなさい。応援するよ」
 他の社員がうんうんとうなずいて同意する。
「えー、でも僕、この仕事楽しいです!」
 全員が一斉に高橋を見た。その視線はどれも寒々しかった。
 空気の冷えたエレベーターを降りて、部屋に移動する。広い部屋だが、七人だから布団を敷けば相当狭い。雑魚寝なんて久しぶりだ。
「主任、卓球しましょう、卓球」
 荷物を置くと、高橋がホテルのパンフレットを見て言った。他の社員は畳に寝転がったり、温泉に行く準備をしたり、スマホをいじったり、テレビを見たり、それぞれが好きなことをしている。
「六時半から食事だぞ。遅れるなよー」
 部長が椅子に座って窓の外を眺めながら言った。
「はあい」
 間の抜けた返事をして、高橋が俺の手を引く。
「卓球、好きなの?」
「えー、温泉といえば卓球じゃないですか」
 ということは、特に好きでもなく、得意でもないのだろう。
「高橋」
 エレベーターのボタンを押して、高橋が振り返る。
「はい?」
「お前、前畑のこと、好きなのか?」
「え」
 驚いた顔で俺を見て、張り手でどついてくる。
「なんですか、急にもー」
「付き合いたいとかは、ない?」
「うーん、でもほら、前畑さんは主任しか目に入ってないじゃないですか」
 エレベーターが到着する。乗り込むと、他の客がいたから二人して口をつぐむ。
「あれはもう、ほとんどネタでやってんだよ。真剣に俺に惚れてるわけじゃない」
 エレベーターから下りてそう言うと、高橋が「そうかなあ」と首をかしげた。
「どっちにしろ、僕、嫌われてますから」
 珍しく自虐的だ。
「嫌ってないと……、いや、どうかな、すまん、嫌われてるわ」
 高橋は肩を揺らして愉快そうに笑った。
「わかってますから、いいですよぅ。ねえ主任、なんか修学旅行っぽいですね。恋バナですよ、青春だなあ」
「お、おう」
 今まで高橋とこういう話をしたことがなかったかもしれない。なんだか気持ち悪くなってきた。
「主任の彼女って、どんな人なんですか? 何歳? 芸能人で言ったら誰に似てますか?」
「俺の話はいいよ。ほら、卓球するぞ、卓球」
 卓球台が三つ並んでいる。先客がいたが、会社の人間じゃない。貸し切り状態かと思ったが、そうでもないらしい。
 年配の女性と、孫だろうか、小学生くらいの女の子が、ルール無視で玉をあちこちに飛ばしている。
「これって、どうやって持つんですか?」
 高橋がラケットを握ってブンブン振っている。
「え、そこから? こうか、こう」
 シェイクハンドとペンホルダーの握り方を見せてやったが、わかってくれない。グリップを逆手に持って、不格好に構えた。まるでうちわだ。
「さあ、来い!」
「そんなんで卓球やろうと思う根性がすげえよ」
 トスを上げてサーブを打つ。打ちやすいところを狙ってやったのに、見事に空ぶった。
「主任、僕、初心者なんですから、手加減してください」
「いや、今のすんごい手加減したから」
「よし、今度は僕がサーブします」
 それ、とう、とかけ声を上げながら、ことごとく空振りしている。一生当たらない気がした。腕を組んで、奮闘する高橋を眺めた。暇だ。隣の女児が高橋を指差して笑っている。
 ズボンのポケットで携帯が震えた。画面を見る。前畑からの着信だった。
『今どこにいるの? 大浴場行っちゃった?』
「卓球してる。いや、これ卓球なのか?」
『卓球!』
 前畑が叫んで、「何階?」と慌てて訊いた。
「三階だけど」
 高橋のラケットに奇跡的にボールが当たったが、俺の顔めがけて一直線に飛んできた。とっさに素手で、キャッチする。
「主任、当たりました、ナイスキャッチ!」
「お、おう、おめでとう」
「電話、誰ですか?」
「前畑。あ、切れてる」
 多分、すぐに現れるだろう。
「じゃあ僕、カッコイイとこ見せないと」
 どうやってだ?
 高橋が不格好な素振りを始める。
「まずラケットの持ち方がおかしいんだよ、こう」
「こう」
「じゃなくて」
 本当に鈍くさい。高橋の背後に回って、持ち方を指導していると「いやー!」と悲鳴が聞こえた。
「なんで抱きついてるの?」
 前畑が走り寄って卓球台を両手で殴りつけた。
「いや、こいつラケットの持ち方もわかんねえの」
「何それ、だっさ! ……あ、加賀君、私にも教えて? そういう感じで教えて欲しいな」
「その子、中学で卓球部だったって」
 遅れてやってきた後藤がのんびりとした口調で言った。温泉に行くつもりだったのか、手に浴衣を持っている。前畑が「めぐみさん!」と絶叫する。
「なんでばらすのよ、もう! 計画が台無し!」
「なんか企んでんの?」
 前畑が俺のラケットを奪って、突きつけてきた。
「私と勝負しようよ。それで、私が勝ったら……、キスして!」
「……はあ?」
 代償が大きすぎる。高橋を見ると、おどけた表情で俺を見て、肩をすくめた。ほら、と心の声が聞こえてくる。
「じゃあ俺が勝ったら?」
「私にキスしてもいいよ?」
「どうあがいても罰ゲーム?」
「ちょっと、私とのキスが罰ゲームなの?」
 デメリットしかないのに、勝負をする意味がない。少し考えて、高橋の手からラケットをもぎ取った。
「俺が勝ったら高橋と付き合う、ってのは?」
「……え、誰が?」
「前畑が」
 前畑が悲しそうな顔で一歩後退する。
「加賀君、ひどい……、鬼、悪魔、サディスト! でも好き!」
「やる?」
 ボールを前畑に投げて、訊いた。前畑はボールをキャッチすると、闘志に燃えた瞳で俺を見る。
「……やる!」
「主任」
 不安そうに高橋が俺を見る。
「余計なお世話だった?」
「いえ、あのぅ、勝てそうなんですか?」
 負けたときのことを心配しているらしい。俺が負けたら、見たくもないキスシーンを見なければならなくなる。
「さあ、どうかな」
 前畑の実力がわからないからなんとも言えない。でもさっき後藤が、「中学で卓球部だった」と言った。つまり高校は違う。中高の六年間、卓球に費やして大会で名を馳せるような名選手でもない限り、負けない自信はある。
「加賀君、陸上部でしょ?」
 前畑が確認する。
「高校はね」
「え、もしかして中学で卓球部?」
「中学のときはテニス部」
 物心ついた頃から、とにかく習い事をあれこれやってきた。父親の教育方針で、金に糸目を付けず、嫌なら辞めればいいと言われていたからなんでもかんでも手をつけた。
 結果、何かを極めることをせずに、幅広く、それなりになんでもできるようになった。テニスは飽きたというより肘を壊す寸前だったのと、「テニスの王子様」と揶揄されるのが苦痛で、中学で辞めた。
「卓球とテニスは違うからね」
 当たり前のことを言って、前畑が腕まくりをする。俺は腕時計を外してポケットに突っ込みながら後藤を見る。
「めぐみさん、得点係してくれる? 十点先取で」
「オッケー」
 律儀に得点ボードが付いている。両方の数字をゼロにして後藤が俺に親指を立てる。
「さくっと勝っちゃって」
「了解」
「え、めぐみさん、加賀君の味方?」
 前畑は不服そうだった。
「あんたと高橋君が付き合うなんて、面白そうだからね」
 前畑が高橋を見る。高橋が頭を掻いて嬉しそうにニヤニヤした。前畑は両腕をさすってから、腰を落とし、構えた。さすが経験者。様になっている。
「ブランクあるけど、素人には負けないんだから」
 そう言って、ボールを放り投げて寄越してきた。
「俺がサーブでいいの?」
「いいよ、ハンデあげる」
 どこからこの自信がくるのだろう。後藤が「はい、じゃあ試合開始」と手を打ち合わせた。
 トスを上げて、サーブを打つ。ボールが相手コートで跳ねたが、前畑は動かなかった。
「はい、加賀君に一点」
 後藤がボードをめくる。
 前畑が、「待って!」と声を上げた。
「今のドライブサーブ? 加賀君、素人だよね?」
「素人だよ」
 学生時代に市の体育館で、卓球部の友人の練習相手をしていたことはあったが、それだけだ。
「嘘、怪しい、まぐれ?」
「サーブ権譲ろうか?」
 前畑がいぶかしそうに俺を見て、「いい」と拒否して構えた。意外とプライドが高い。
 二度目もドライブサーブを打ったが、今度はちゃんとレシーブしてきた。
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「主任、頑張ってー!」
 高橋が女子的な声援を送ってくる。前畑が小さく「ちっ」と舌打ちをして、スマッシュを打ち込んできた。アウトだ。手を出さずに見送ると、ノーバンのボールが足下に落下した。
「絶対、経験者! 加賀君の嘘つき!」
「経験者っていうか、遊び程度だよ」
「だって、回転かけても全部取るじゃん! どうなってんの? バックハンドもできてるし、隙ないんだけど!」
「だってテニス経験者だし。でも関係ないんだよね?」
「ちょっと待って、私、負けるの?」
 おそるおそる高橋を見る。前畑と高橋の目が合った。前畑が震え上がる。
「いいぞいいぞ。やっちゃえー」
 後藤が面白そうな笑い声を上げて腕を振った。
「めぐみさん!」
 前畑が地団駄を踏む。悪いが負ける気がしない。少し遊んでやるか、とも思ったが、背後で不穏な動きを察知した。ギャラリーができている。
「加賀君」
 後藤が気づいて目配せをした。
「ラスト一球にするか」
 コートにボールをバウンドさせながら言ったが、前畑は「駄目! 十点!」と吠えた。
 はあ、と息を吐いて、頭を掻く。
「じゃあごめん。本気出すわ」
「えっ」
 前畑が目を丸くする。
 ボールを高く上げる。サーブを打ち込んで、返ってきたボールにスマッシュを打つ。前畑は反応すらできない。ギャラリーが黄色い声を上げる。
「無理!」
「よし、試合終了?」
 ラケットを置いたが、前畑が首を横にブンブン振った。
「諦めたらそこで試合終了なのよ! 私は諦めない! 無理だけど、諦めない!」
 もはや支離滅裂だ。これ以上ギャラリーが増えると面倒だ。とっとと終わらせよう。
 すべてのサーブに回転をかけて、揺さぶってやるとすぐに陥落した。得点ボードは十対ゼロ。
「はい、終了。加賀君の勝ちー」
 後藤が手を上げる。ギャラリーが嬌声を上げる。
 前畑はわかりやすく敗北者のポーズで床に手をついている。
 腕時計をはめ直し、高橋を振り返る。ものすごく嬉しそうに笑っている。
「さて、温泉行くか。高橋」
「はい!」
 目を輝かせて俺を見る。
「きっかけ作ってやったんだから、捨てられないようにしろよ」
「はい、頑張りまーす。前畑さん、これからよろしくお願いしますね」
 高橋が、ニチャリと片目をつむる。ウインクのつもりらしい。前畑が「いやあああ」と声を上げて後藤に抱きついた。
「加賀君に勝てると思うあんたも間抜けだわ」
「だって、キスしたかったんだもん!」
 倉知が知ったら、怒るだろうな、と思った。相手の力量も知らずに、キスを賭けた。
「ごめん、俺ちょっと電話してくる」
「じゃあ僕先に部屋戻って浴衣取ってきます。温泉行ってますね」
 高橋がスキップで去っていく。
「前畑」
 後藤に抱きついていた前畑が俺を見る。目に涙が浮かんでいた。
「一日でいいから、形だけでも付き合ってやって」
 う、と言葉に詰まって頬をふくらませた。
「あいつ、いいとこあるよ」
「負けたんだし、ちゃんと約束守るわよ。一日で振るけどね!」
 強がる前畑の頭を撫でて、ラケットを片付ける。踵を返すと、女性社員の群れが待ち構えていた。思わず後ずさる。
「加賀君、カッコよかったー」
「卓球やってたの?」
「私にも教えて」
「私も!」
 私も私もと手を上げる女たちがぐいぐいと距離を縮めてくる。
 そのとき携帯が鳴った。ポケットから出して、相手を見ると後藤の名前が出ている。
「あー、あの、電話。仕事の電話だから、出ないと」
 バイブ音を鳴らす携帯を掲げて見せると、女たちは納得して、道を空ける。
 早足で階段に向かう。さすがに誰も追いかけては来ない。階段を駆け下りながら電話に出た。
「ごめん、助かった」
『いいええ。彼女に電話でしょ。ごゆっくり』
「……めぐみさん」
『うん?』
 倉知が身近な人間に俺との関係を打ち明けているのを見ていて、正直羨ましいと感じていた。信頼のおける人間を騙し続けるのは、何か違う気がする。
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「彼女じゃないんだ」
『え?』
 ホテルから出て、歩きながら考える。何も今、電話口で話す必要はない。
 思いとどまって、咳払いをする。
「またあとで話す」
『……うん、あとでね』
 しばらく歩くと川が流れていて、橋が架かっていた。橋の途中で足を止め、携帯を操作する。倉知の番号を呼び出して、欄干に背中を預けた。
『加賀さん』
 コール音がしばらく鳴ってから、倉知の声が聞こえた。
『大丈夫ですか? 何もないですか?』
「うん、無事着いた。自然いっぱいで空気が美味しいよ」
 空を見上げて言った。
「どうせなら倉知君と来たかったわ」
『……加賀さん、会いたい』
「ごめんな」
『なんで謝るんですか?』
「なんでかな」
『温泉入りました?』
「ん、まだ。今から」
『気をつけてくださいね』
 力強い口調で釘を刺す。
「大丈夫だよ、混浴じゃないんだから」
『俺の言うこと、全面的に信じるって言いましたよね』
「……はい、そうでした」
 女だけじゃなく、男も警戒するなんて、俺に安らぎの時間はないのか。
 いや、男は大丈夫。自信がある。
 倉知君、平気? と電話の向こうで女の声が聞こえた。
『うん、なんでもないよ、今戻るから。加賀さん、また電話してください』
「ちょっと待て。今の誰?」
『え? ああ、今部活の連中とカラオケ来てるんですけど』
「女の子もいるの?」
『女バスの子たちと……、あの、妬いてます?』
 口を押さえて息を吐き出した。一瞬、なんで女といるんだよ、と醜く嫉妬してしまった。倉知が浮気をするはずがない。学生にも付き合いというものがある。
 目の前を、手を繋いだ老夫婦が通り過ぎていく。距離が離れるのを待ってから、言った。
「ごめん、ちょっと妬けた」
『ちょっとですか?』
「大丈夫、信じてるし」
『めちゃくちゃ妬いて欲しいのに』
 つまらなそうな声で倉知が言った。
『一人でいると、ずっと加賀さんのこと考えて、駄目なんです。だから馬鹿になろうと思って。気が紛れるかなって』
「それがいいよ。またかけるわ」
『加賀さん、好きです』
 その言葉だけ、耳元で囁かれたような臨場感があった。ゾクッとして携帯を持つ手が軽く震えた。
「……うん、俺も好きだよ。じゃあな」
 電話を切った。しゃがみ込んで、頭を抱える。
 思ってもみなかった。自分がこんなにも誰かに依存するなんて。声が聞こえなくなった途端、無性に顔が見たくなった。
 いい歳して、何やってんだ、と自分に渇を入れる。
 立ち上がり、ホテルへの道を戻った。
 温泉に浸かって邪念を追い払うことにした。 
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