電車の男

月世

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Ⅷ.加賀編

モテ男の災難

 温泉に入っている間、周りを警戒してみたものの、怪しい目で見てくる男はいなかった。
 今回ばかりはさすがに倉知の勘も外れたようだ。つきまとう女もいないし、思う存分羽を伸ばせた。
 脱衣所で浴衣を着ているときも、社員が来るたび身構えたが徒労に終わった。
 誰も俺を見ない。
 とにかく何もなくてよかった。というか、あるわけがない。馬鹿を見た。
「主任、これどうやって着るんですか?」
 浴衣を羽織った高橋が、帯をぶら下げて逡巡している。
「お前、俺がいなかったらどうなるんだ?」
「主任がいなかったら寂しいです」
 誰もこいつの面倒を見たがらないから、放置か、最悪遊び道具にされて終わりだ。
 浴衣を着せてやってから、高橋の頬を両手で挟んで顔を近づける。
「いいか、無駄にすんなよ」
「前畑さんのことですか?」
 人が真剣に話しているのに、唇を尖らせた変な顔で訊いた。俺が頬を挟んでいるせいだ。高橋を解放して、うなずいた。
「でも、主任がタイプだったら僕はかすってもいませんから、頑張るだけ損ですよね」
「お前なあ」
 ゆとりと呼ばれても仕方ないと思えてくる。高橋は徹底して努力が嫌いだ。その姿勢のまま、仕事をするから周りが苛つく。
「頑張れないなら、お前にとって前畑はその程度の相手ってことだよな」
 高橋がハッとした顔をした。わかってくれたのかは謎だが、「頑張ります」とだけ答えて、拳を握りしめた。
 髪を乾かしてから、着替えを持って脱衣所を出ると、足が止まった。出待ちされている。湯上がりの女が遠巻きに並んでいて、俺を見ると「出てきた!」と指を突きつけてきた。
「勘弁して」
「主任、僕が守りますから、安心してください」
「どう守るんだよ」
 うーん、と首をひねる。まったくもって頼りにならない。
 後藤と前畑はまだ入浴中らしく、フロアには見あたらなかった。
「とにかく、部屋戻るぞ」
「はぁい」
 早足で通り抜けようとする俺の前に、女が並んで立ちふさがった。まるでサッカーのPK戦の壁だ。
「加賀君、浴衣色っぽい」
 女が男に色っぽいという言葉を使うところがもうすでに怖い。風呂上がりなのに全員化粧でコーティングされている。
「ねえ、うちらの部屋来ない?」
「主任は彼女いるんで、そういうのやめてください」
 高橋が俺の前に立って両手を大きく広げた。
「いてもいいよ、ねえ」
 意味ありげな目配せをする女たち。みんなうんうんとうなずいている。
「さっき、卓球見てたよ。あとで教えて?」
「あー、前畑に教えてもらうといいよ」
 えー、と口元に手をやって、上目遣いで見てくる。
「加賀君のほうが上手かったじゃない」
「前畑さんは卓球部だったんですよ!」
 高橋が俺の前でぴょんぴょん跳ねて抗議する。
「どうでもいいけど、あんた邪魔」
「どいてよ、ちんちくりん」
「あっ、暴力反対!」
「邪魔なのはあなたたち」
 力ずくで高橋をどかそうとする女たちが、俺の背後を見て硬直した。
 振り返ると、経理の花岡が立っていた。すでにマックスの怒りモードだ。
「他のお客様もいるんだから、迷惑になることはやめなさい」
「す、すみません」
 急に大人しくなった女たちが、道を空ける。花岡が鼻を鳴らして俺の手首をつかんだ。
「加賀君、行くわよ」
 引きずられる俺の後ろに高橋が慌ててついてくる。
 小声で「ババア」とか「お局うぜえ」とか「バツイチのくせに」とか罵詈雑言が聞こえたが、花岡は聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか、歩みを止めなかった。
「ありがとうございました、助かりました」
「今の若い子はマナーがなってなくて本当に恥ずかしいわ」
「花岡さん、カッコイイです! お局最強ですね!」
 よいしょしたつもりの高橋が腕を振り回す。お局がいい意味だと思っているらしい。あとで教えてやらねば。
「加賀君が慰安旅行に来るなんて珍しいわね」
「はあ、策略にはまりまして」
 花岡は俺の手首を離さない。ふりほどくのも怖かったから、そのままにしておいた。
 高橋を見ると、俺の手首をつかむ花岡の手をじっと見ていた。余計なことを言うなよ、と思ったが、高橋だから無理な相談だ。
「もしかして、花岡さんも主任が参加するから来たんですか?」
 予想を裏切らない。高橋がずけずけと訊いた。俺は静かに息をつく。
 花岡が足を止めて高橋を振り返り、「はあっ?」と破裂音のような声を出した。
「私は別に、今年はたまたま暇だったからよ!」
「そっかぁ、プライベートが暇なんですね。あ、でもいつも不参加なら、じゃあやっぱり」
 どうしてお前はそうなんだ。頭が痛くなってきた。花岡を無自覚に煽る高橋が、にやにやして言った。
「花岡さんも主任のファンなんですね」
「ふぁ、ファンとかじゃないわよ!」
「でも、手、ずっとつかんだままだし」
 指摘され、花岡が顔を真っ赤にして俺の手を放り出した。
「勘違いしないでよね!」
 ビシッと指先を俺に突きつけると、逃げていった。
「花岡さんって主任に甘いので有名ですもんね」
「別に甘くないと思うけど。高橋、お前はもうちょっと空気を読んでくれ」
「どうやったら読めますか?」
「あ、もういいや」
 さすがに疲れてきた。本来土日とは、会社と距離を置くためのものだ。ずっと一緒にいると忍耐も途切れてしまう。
「あっ、もしかして今落書きのチャンスじゃないですか?」
 部屋に戻ると、部長が一人、椅子で爆睡していた。高橋が部長の顔をクスクス覗き込んでいる。
「頼むからやめてくれ」
 小学生の発想だ。
 腕時計で時間を確認すると、もうすぐ六時半だった。部長を起こして三人で宴会会場に向かった。
「加賀君、こっち」
 前畑が手を振っている。後藤と前畑に挟まれた座布団が俺の席らしい。前畑が胸を叩く。
「ここら一帯、営業部で固まってるから、安心して!」
 食事が始まれば、多分無法地帯と化す。
「僕は? 僕も主任の隣がいいです」
「あんたはこっち、私の隣」
 冷めた口調だったが、おっ、と思った。自分から高橋を隣に座らせるとは。後藤を見ると生温かい目で二人を見ていた。
「あ、僕、食べる物なさそう」
 お膳を見て高橋が残念そうに指を咥えた。
「お子様ランチでも注文してやろうか」
「あるんですか? お願いします」
 真顔で言うから黙るしかなかった。
 六時半になり、総務の司会で社長が挨拶をして、乾杯の音頭を取る。それがゴングだ。多くの社員が立ち上がった。社長にビールを注ぎに行く男性社員と、俺のほうに飛んでくる女性社員が入り乱れている。
「ちょっと正気?」
 後藤が部長に酌をしながらぼやいた。
「加賀君、お疲れ様、はいビール。飲んで飲んで」
 瓶ビールを一斉に傾けられても困る。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ。こんなことされて加賀君が喜ぶとでも思ってるの?」
「え、何? 前畑さん、彼女気取り? ただ同じ部署なだけじゃない」
「同じ部署だよ? いいでしょ。悔しかったら営業部になれば?」
 前畑が同じレベルで言い合っているのを無視して、料理を口に運ぶ。とっとと食べて出て行こう。
「いやあ、若い女の子が多くて嬉しいねえ。コンパニオンいらずじゃないか。加賀君の近くでよかった」
 部長が暢気にビールを呷っている。もう少し威厳がある部長ならバリアにもなるが、そういうタイプじゃない。いつもニコニコして怒っているのを見たことがない。
 前畑と数人の女がやり合っている隙に、別の女がビールを無理矢理俺のグラスに注いできた。飲まないと溢れる。
「もういいから、ありがとう」
 制止をかけてグラスに口をつける。
「加賀君、酔わせる気だから。気をつけて」
 後藤が耳打ちした。二口ほど飲んでグラスを置くと、再び注がれる。なるほど、そういう作戦か。
「俺、ザルだから酔わないよ」
 ちゃんぽんでもしない限り、ビールだけで酔うことはほとんどない。飲み干したグラスを置いて牽制してみたが、火に油だった。女たちがキャー! とはしゃいでビールを注ぐ。
「イッキ、イッキ」
 まるでキャバクラだ。女たちが囃し立てるのを周囲の社員が半笑いで見ている。
 もうビールがこぼれようがどうでもいい。放置して食べることにした。
「ねえねえ、あとでカラオケ行こうよ」
「ごめんね、行かないから。みんなもう少し静かにしようか」
「えー、でも周りのほうがうるさいよ?」
「宴会だし、盛り上がろうよ」
 まるで自分たちは無害だとでも言いたそうだ。
「楽しいほうがいいですよねー、営業部長」
 女が部長に同意を求め、ちゃっかり酌をしている。
「うんうん、いいじゃないか加賀君。無礼講無礼講」
 女たちのテンションは上がっていくばかりだ。前畑は応戦に疲れたのか、無言で箸を動かしていて、高橋は勢いよくグラスを傾けている。お前は飲むな、と言いたかった。
「加賀君」
 後藤が俺の膝を叩いた。
「何」
「お局が」
 小声で囁いた。俺を囲んでいる女たちの背後に、花岡が現れた。女のうちの一人がそれに気づき「ヒッ」と息をのむ。
「は、花岡さん、なんですか?」
 怯えながら女が訊くと、花岡が足下をふらつかせ、一歩踏み出した。
「あんたたち……」
 目が据わっている。
「さっきからなんなのよ。キャピキャピと、やかましいったらないのよ」
 もう一歩こっちに近づくと、俺を取り囲んでいた女たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「お見事」
 後藤が小さく拍手をしたが、花岡は別に俺を助けようとしたわけではなさそうだ。怒った表情のまま、距離を詰めてくる。
「加賀君」
「はい?」
 酔っぱらっている、と気づいたときには、胸ぐらをつかまれていた。お膳の上で、グラスが倒れ、ビールが広がった。後藤が素早くグラスを戻したが手遅れだ。
「ちょっと、何よぉ、なんなのこれ!」
 隣で前畑が俺の浴衣の裾を引っ張って、花岡に対抗する。
「私だって、もう少し若ければ……」
 花岡の顔が間近に迫る。涙目だった。うふふふ、と笑い出す。
「美しすぎるわあ」
 それだけ言って、崩れ落ちた。呆気にとられていると、総務部の男性社員が走ってきて、「すいません、すいません」と頭を下げて花岡を担いで去っていった。
 宴会会場は広く、一角での出来事だから、気にしていない人間も多い。遠くで無関係な笑い声が響く。
「ほら、花岡さんも主任のファンだって、僕言ったでしょ」
 高橋が勝ち誇る。どうでもいい。
「もう、疲れた」
「かっ、か、か、加賀君、すんごい着崩れてる……っ」
 前畑が目を見開いて、俺の胸元を凝視してくる。花岡のせいで酷いことになっている。
「すごい、なんて美しさなの? これは芸術品? さささ、触りたい、触っていい?」
「駄目ですよ、前畑さん。触るなら僕の胸をどうぞ」
 前畑は高橋を見ようともしない。両手を怪しくわきわき動かしている。
「トイレ行って直してきなよ」
 後藤が言って、手を上げた。
「すいません、ビールこぼれたんで、タオルください」
 仲居が「はーい」と飛んでくる。入れ替わりに腰を上げて宴会場を出た。
 もう帰りたい。温泉に来て、癒されるどころか疲労困憊だ。
「うう、倉知君、助けて。大人は怖いよう。穢されるよう」
 身をすくめてぶつぶつ言いながらトイレに向かい、鏡を見て浴衣を直していると、見知った顔が現れた。
「大変そうだな」
「九條」
 九條は同期の出世頭だ。入社したての頃は研修も一緒だったし、よくつるんでいた。今は人事部の係長で、ほとんど顔を合わすこともなくなった。
「お前も来てたの? なんか話すの久しぶりだな」
 こいつも社内行事に参加するイメージがないが、係長ともなれば、半強制的に参加しなければならないのかもしれない。
「少し、話せるか」
 九條の顔が、気のせいか、暗く見える。何か悩み事か?
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 答えると、ホッと表情を和らげる。それから思い出したように、トイレのドアを見ながら言った。
「外で女が何人も待ってるぞ」
「え、マジか」
 どこまでもしつこい。
「多分、俺が一緒だったら逃げてくだろう。行くぞ」
 さっさと出ていく九條のあとを追った。俺の姿を見つけて黄色い声が上がったが、九條がちら、と目をくれると静かになった。視線のみで黙らせるなんて、さすがだ。
 九條はいい奴だが、眼光が鋭く、人前で滅多に笑わない。真面目で厳しいので、社員からは怖がられる傾向にある。
 九條の後ろを追いかけると、誰もついてこなくなった。
「すげえ、花岡さんより強力」
「加賀の女性人気、年々上がっていくな」
「なんだろな、意味わかんねえよ」
 九條が少し俺を見て、フッとクールに笑った。
「運動会で活躍するからじゃないか?」
「もう俺来年足折って棄権するわ」
 それくらいしないと欠席できない。九條が声を上げて笑った。
「で、どこ行くの?」
 エレベーターのボタンを押す九條の背中に訊いた。
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 俺は営業が好きだし、今の仕事で満足している。異動なら困る。
「仕事の話?」
 え、と俺の顔を見た九條は「ああ、違う」とうつむいた。
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「何、深刻なの?」
 九條は答えずに、エレベーターから下りた。廊下を歩き、ドアの前で立ち止まる。部屋の鍵を開けて明かりを点け、先に中に入っていった。躊躇していると、ドアが閉まっていく。隙間に足を入れ、ドアを開けた。
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 九條が椅子に座り、浴衣の袖からライターと煙草のパッケージを取り出した。マルボロのメンソールだ。
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 煙草を灰皿に押しつけた。
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「ゲイなのかと思って、男も試したけど駄目だった。お前が……、好きで、でもどうにもならないから、結婚した。別に、誰でもよかったんだ。言い寄ってくる女がいたから、結婚した」
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「さあ、もうわかんねえよ。社内恋愛はしたくないし、断ってただろうな」
「加賀」
 九條が煙草の煙を吐き出してから、言った。
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「……うん」
 頭を掻いてから、腕時計で時間を見た。
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「ここにいる」
「泣くなよ?」
 九條は煙草のパッケージを手にとって、口元だけで笑うと手を振った。
 部屋を出ると、ドアに背中を預けて目を閉じた。
 本当に、俺は鈍感だ。
 九條が俺を好きだなんて、思いもしなかった。
 思い起こせば顔を合わせる機会が突然減って、俺から声をかけると不必要に驚いていた。避けられていたのなら納得だ。
 結婚したときも、子どもが生まれたときも、嬉しそうな顔一つ、していなかった。クールに、短く、笑うだけ。おめでとうと言うと、少し悲しそうだったのは、俺からの祝福が苦痛だったからだろうか。
 倉知と九條は二人ともネガティブで、二人とも馬鹿がつくほどの真面目で、物事を悪いほうへ考え、閉じこもる。
 もし九條と付き合っていたら、倉知との今の関係はなかった?
「……さむっ」
 考えたくない。身震いをして、帯の結び目に挟んである携帯を取り出した。歩きながら後藤の番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
『今どこ?』
 電話に出るとすぐに後藤が訊いた。
「ちょっと九條と話してた。そっちどんな様子?」
『高橋君が例によってダウン。今二人がかりで部屋に運んだとこ。前畑がそばについてるよ』
「え、なんか面白いことになってんな」
『母性本能くすぐられてんじゃない? ねえ、九條って、人事部の? 異動の話じゃないよね』
 後藤が険しい声で言った。
「違う違う、ちょっと愚痴聞いてただけ。めぐみさん」
『何?』
「話し相手になって」
 少し間があった。
『さっきの続き、聞きたかったんだ。どっか外で話そうか』
「ホテル出て真っ直ぐ行ったとこに橋あるから、そこで待ち合わせ」
『オッケー。じゃああとで』
 電話を切って、階段に向かう。まだ宴会の真っ最中だから、社員には遭遇しなかった。ホテルを出て、さっきの橋を目指す。
 後藤はまだ来ていない。欄干に両手をついて、川を見下ろした。水量も多いし、流れも速い。落ちたら死ぬな、と眺めていると、背中を叩かれた。
「飛び込まないでよ?」
 後藤が真顔で言った。
「泳ぐには寒すぎる。どっか入れるとこあるかな」
「今の時間、閉まってるとこ多いけど。九時までやってるカフェ、近くにあるみたい」
 スマホを見ながら後藤が歩き出す。横に並んで「ありがとう」と呟いた。
 後藤は無言で俺の頭を撫でた。 
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