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1章 少年君主
1章5話 ヘロンの蒸気機関 *
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【新帝国歴1128年10月15日 アリーシャあるいは若葉】
私はアルコールランプに火を灯す。
しばらくは何も起きなかった。だが、やがてふつふつと蒸気が立つわずかな音が聞こえてきて、小さな蒸気口から蒸気が漏れてくる。
銅板を打ち出して作られた球体が、ゆっくりと回転を始めた。
ヘロンの蒸気機関。アイオロスの球とも呼ばれる装置だ。単純な仕組みで動いており、既に古代ギリシャの時代には制作されていた装置だが、その動作原理の一番根本の部分は実用化されたワットの蒸気機関と共通している。
リヒャルト殿下はじっと、その様子に注意を傾けている。感情を露わにはしていないが、その頬にはわずかな紅みがさしている。少なくとも、不機嫌そうではなかった。
私の側では、弟のヨハンが身を固くしている。家にある一張羅を着させたのだが、この宮殿にあってはいかにも質素だった。
私は実家での会話を、少し思い出していた。——
【新帝国歴1128年9月9日 アリーシャあるいは若葉】
ヘロンの蒸気機関を殿下にお見せしたい。私はそんなことを考えたのだった。マグデブルクの球やアンティキティラ島の機械と並んで、私の好きな歴史アイテムだ。
ヘロンの蒸気機関の制作には金属加工の技術が不可欠だが、アリーシャにはそんなものはない。そこで、手先が器用な弟のヨハンを巻き込んだのだった。
「官吏より、こっちの方が面白そうだな」
ほぼ実際の制作を手掛けたヨハンは、頬を掻きながら呟く。万事素直じゃないヨハンだが、ヘロンの蒸気機関のアイディアには積極的に乗ってきたし、制作中はとても楽しそうだった。
「やめてよ、私の夢を!」
「……板金工になりたかったのか、アリーシャ?」
ヨハンは怪訝そうだ。
「そういう意味じゃない」
私は言葉を濁す。
アリーシャの夢の話を、アリーシャはヨハンに話したことはなかった。若葉でもありアリーシャでもある今の私だけど、ヨハンを官吏にするという元のアリーシャの目的自体を否定しようとは思わない。アリーシャの夢に向かって努力しつつも、今の私の人生の命題を追求する方法があるはずだ。このヘロンの蒸気機関の製作も、実のところその一貫だった。――
【新帝国歴1128年10月15日 アリーシャあるいは若葉】
私は現在に意識を戻す。
ヨハンは無事、殿下のお褒めの言葉に預かっている。私はほくそ笑んでいた。権力者に目を掛けられれば、それだけ出世しやすくなる。あわよくば奨学金、なんて話にもなるかもしれなかった。
その不純な目的達成を確実にすべく、私は重ねて、殿下に奏上した。
「この『ヘロンの蒸気機関』自体は、古代からあったものです。ですが、この力を応用することは、長らく考えられて来ませんでした。この蒸気機関を応用すれば、馬に引かせるのではなく、燃料を燃やして動く車も、いずれは実現することができます」
私は跪く。
ふと私は、奇妙な視線を感じた。
なんとも異質な、いくつもの矢に射抜かれたかのような感覚。
それは、肉食獣が獲物を見定めるかのような、鋭い視線。
あるいは、まるで生物ではないかのような、無機質な視線だった。
【????年??月??日 システム ループ12578】
全時空ベクトル擬似差分ノルムの有意な増大を検知。
原因解析プログラム実行中……。
【新帝国歴1128年10月15日 アリーシャあるいは若葉】
私はつい、顔を上げてしまう。何も違いはなかった。
ヨハンは私の傍らで一礼している。
眼前ではリヒャルト様は相変わらずふんぞり返っていて、その側でエックハルト様が、物柔らかな笑みを浮かべていた。
これが、若葉の知識を使って私が得た、初めての成功だった。
若葉の世界、若葉の時代ではそれほど価値はない知識。だけど、アリーシャの世界、アリーシャの時代では、かけがえのない知識。
これは多分、ぬるいチート行為と言えるだろう。だって自分自身の発明ではなく、誰か他の人の借り物のアイディアを自分のものとして提供して、その結果として成功を得たのだから。でも、私が思っていたのはこんなことだ。
(このぐらいだったら、チートのうちに入らないよね?)
そんな狡い考え方だ。だってこの小さな成功が、この世界の様相を変えることにはならない。誰にも倒せない敵を私一人の力で打ち倒したりとか、救世の乙女として崇め奉られるような結果にはならない。
私は別にそんなことを望んでいなかった。私は私にできることをして、私の能力で達成した物事で、人から相応に褒められたい。私が望んでいるのはそんなことぐらいだった。それだけぬるい努力でも、アリーシャ・ヴェーバーとしての出世の道が開けるんだったら、前世で勝ち得なかった幸せを現世で得ることだってできるかもしれない。
このぬるさ、今までの適当な人生設計とあんまり変わってないんじゃないのと、自分で思わないこともない。でもこの選択だったら、私が好きな歴史の話を思う存分できる。誰からも文句は出ないし、ただの変わった根暗なオタクと思われることもない。だから私はこれでいいんだ。新井若葉だった私の人生は、アリーシャ・ヴェーバーである今の人生に生かしていければそれでいい。今の私がそれだけ幸せになれるのだったら。若葉が生きていた時間は幸せでなかったとしても、アリーシャが今生きている時間が幸せになっていくなら、それでいい。これで私は、自分の人生の主人公になれる。そう思っていた。
そんな私の考えは、後々になってみると完璧に間違っていた、そう言わざるを得ない。だって、それは。
私はアルコールランプに火を灯す。
しばらくは何も起きなかった。だが、やがてふつふつと蒸気が立つわずかな音が聞こえてきて、小さな蒸気口から蒸気が漏れてくる。
銅板を打ち出して作られた球体が、ゆっくりと回転を始めた。
ヘロンの蒸気機関。アイオロスの球とも呼ばれる装置だ。単純な仕組みで動いており、既に古代ギリシャの時代には制作されていた装置だが、その動作原理の一番根本の部分は実用化されたワットの蒸気機関と共通している。
リヒャルト殿下はじっと、その様子に注意を傾けている。感情を露わにはしていないが、その頬にはわずかな紅みがさしている。少なくとも、不機嫌そうではなかった。
私の側では、弟のヨハンが身を固くしている。家にある一張羅を着させたのだが、この宮殿にあってはいかにも質素だった。
私は実家での会話を、少し思い出していた。——
【新帝国歴1128年9月9日 アリーシャあるいは若葉】
ヘロンの蒸気機関を殿下にお見せしたい。私はそんなことを考えたのだった。マグデブルクの球やアンティキティラ島の機械と並んで、私の好きな歴史アイテムだ。
ヘロンの蒸気機関の制作には金属加工の技術が不可欠だが、アリーシャにはそんなものはない。そこで、手先が器用な弟のヨハンを巻き込んだのだった。
「官吏より、こっちの方が面白そうだな」
ほぼ実際の制作を手掛けたヨハンは、頬を掻きながら呟く。万事素直じゃないヨハンだが、ヘロンの蒸気機関のアイディアには積極的に乗ってきたし、制作中はとても楽しそうだった。
「やめてよ、私の夢を!」
「……板金工になりたかったのか、アリーシャ?」
ヨハンは怪訝そうだ。
「そういう意味じゃない」
私は言葉を濁す。
アリーシャの夢の話を、アリーシャはヨハンに話したことはなかった。若葉でもありアリーシャでもある今の私だけど、ヨハンを官吏にするという元のアリーシャの目的自体を否定しようとは思わない。アリーシャの夢に向かって努力しつつも、今の私の人生の命題を追求する方法があるはずだ。このヘロンの蒸気機関の製作も、実のところその一貫だった。――
【新帝国歴1128年10月15日 アリーシャあるいは若葉】
私は現在に意識を戻す。
ヨハンは無事、殿下のお褒めの言葉に預かっている。私はほくそ笑んでいた。権力者に目を掛けられれば、それだけ出世しやすくなる。あわよくば奨学金、なんて話にもなるかもしれなかった。
その不純な目的達成を確実にすべく、私は重ねて、殿下に奏上した。
「この『ヘロンの蒸気機関』自体は、古代からあったものです。ですが、この力を応用することは、長らく考えられて来ませんでした。この蒸気機関を応用すれば、馬に引かせるのではなく、燃料を燃やして動く車も、いずれは実現することができます」
私は跪く。
ふと私は、奇妙な視線を感じた。
なんとも異質な、いくつもの矢に射抜かれたかのような感覚。
それは、肉食獣が獲物を見定めるかのような、鋭い視線。
あるいは、まるで生物ではないかのような、無機質な視線だった。
【????年??月??日 システム ループ12578】
全時空ベクトル擬似差分ノルムの有意な増大を検知。
原因解析プログラム実行中……。
【新帝国歴1128年10月15日 アリーシャあるいは若葉】
私はつい、顔を上げてしまう。何も違いはなかった。
ヨハンは私の傍らで一礼している。
眼前ではリヒャルト様は相変わらずふんぞり返っていて、その側でエックハルト様が、物柔らかな笑みを浮かべていた。
これが、若葉の知識を使って私が得た、初めての成功だった。
若葉の世界、若葉の時代ではそれほど価値はない知識。だけど、アリーシャの世界、アリーシャの時代では、かけがえのない知識。
これは多分、ぬるいチート行為と言えるだろう。だって自分自身の発明ではなく、誰か他の人の借り物のアイディアを自分のものとして提供して、その結果として成功を得たのだから。でも、私が思っていたのはこんなことだ。
(このぐらいだったら、チートのうちに入らないよね?)
そんな狡い考え方だ。だってこの小さな成功が、この世界の様相を変えることにはならない。誰にも倒せない敵を私一人の力で打ち倒したりとか、救世の乙女として崇め奉られるような結果にはならない。
私は別にそんなことを望んでいなかった。私は私にできることをして、私の能力で達成した物事で、人から相応に褒められたい。私が望んでいるのはそんなことぐらいだった。それだけぬるい努力でも、アリーシャ・ヴェーバーとしての出世の道が開けるんだったら、前世で勝ち得なかった幸せを現世で得ることだってできるかもしれない。
このぬるさ、今までの適当な人生設計とあんまり変わってないんじゃないのと、自分で思わないこともない。でもこの選択だったら、私が好きな歴史の話を思う存分できる。誰からも文句は出ないし、ただの変わった根暗なオタクと思われることもない。だから私はこれでいいんだ。新井若葉だった私の人生は、アリーシャ・ヴェーバーである今の人生に生かしていければそれでいい。今の私がそれだけ幸せになれるのだったら。若葉が生きていた時間は幸せでなかったとしても、アリーシャが今生きている時間が幸せになっていくなら、それでいい。これで私は、自分の人生の主人公になれる。そう思っていた。
そんな私の考えは、後々になってみると完璧に間違っていた、そう言わざるを得ない。だって、それは。
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