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3章 物乞いの子
3章4話 夕暮れ、回廊にて
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【新帝国歴1130年1月8日 アリーシャ】
それから、しばらく時間が経っていたのだと思う。
でも「それから」って、いつから数えて「それから」だったっけ?
気が付くと公宮の奥の中庭の回廊を私は、何度も何度も、ぐるぐる歩き続けていた。
もう夕方になっていて、私から落ちた影が長く伸びている。
その声は、晴天の霹靂のように、私には響いたのだった。
「……アリーシャ?」
リヒャルト様だ。
「……殿下」
その後が続かない。私は泣いていた。
頬を伝っていた涙の跡と、泣き腫らした目。
だけど、なぜ。いつから。
「……アリーシャ」
その時のリヒャルト様は、なんというか不可解な表情だった。何か深刻な悩みを抱えていそうな、それでいて気遣わしげで、それは普段の君主然とした普段の様子とは違っていた。
そして彼は押し殺した声で、私に尋ねる。
「……エックハルトか?」
実は、この時の私の記憶はあまりはっきりしていなかった。
そう、この午後はずっと、私はゲストルームの掃除にかかりきりになっていた。それから、エックハルト様の居室に間違えて踏み込んでしまって、彼と会話をしたような気がする。
「ええと……確かにエックハルト様とは……会話しましたけど。……何を話したのか、よく覚えていなくて」
私はそう答える。
そう、エックハルト様とは何か、会話をしていた。だけど、その記憶には霞がかかっているようで、やりとりを思い返そうとすると、頭の回転が強制的にゆっくりになるような感じだった。
「覚えていないことはないだろう!」
リヒャルト様が発した言葉は、予想もしないほど鋭いものだった。
「え…………」
私は顔を上げる。自分のみっともない顔のことも忘れて。
「エックハルト様に、何かあったのですか?」
私は逆に、リヒャルト様に尋ねる。今度は彼が言葉を失う番だった。
「え…………」
しばらく沈黙が続いたと思う。
「……じゃあ、なんで泣いていたんだ」
「……ええと」
私は思い返してみる。なんで泣いていたのか。
もしかしたら、ちゃんと思い返してみれば説明できるかもしれない。だけど、何かがストッパーをかけているような気がしていた。
でも私が答えを思いつく前に、私を見据えていた鋭い視線を外すと、リヒャルト様は押し殺した声で呟くのだった。
「何もないなら、いいんだ」
「ええと。その」
私は何を答えるか迷って、しばらくもじもじしていた。
一方のリヒャルト様は、頬を紅潮させて視線を落としている。何かを恥じているような様子で、それは私に、リンスブルック侯国で見た彼の素顔を思い起こさせる。その記憶に、私は少し微笑んだ。
だけど、と私は思う。
「……なんで、ずっと呼んでくれなかったんですか」
あろうことか主君相手に、一臣下でしかない私がこんな恨み言を連ねていいわけではない。だけど、きっと私は寂しかった、というか、リヒャルト様が私に興味を失って、単なるメイドとして扱われるようになることを恐れていた。最初は小さな不安でしかなかった、だけど何ヶ月にも及ぶと、それは確信めいたものへと変わっていたのだ。
「え…………」
リヒャルト様はまた言葉を失う。
「そんな、泣くほど悲しいなんて思わないだろう!」
「会いたかったし、声が聞きたかった、です」
さっきから私が感じていた悲しさは、この不安定な立場に由来する心細さに直接起因してはいなかったかもしれない。だけど、その心細さは最近の生活を支配するトーン、ベースカラーになりつつあった。そしてこの時の私は、正体不明の悲しさと、最近常に感じていた心細さが内面で混じり合って区別できなくなっていた。
だから私が発した言葉は、哀れっぽい懇願口調のかすれた声になっていたのだ。
「……こちらへ」
リヒャルト様は私の手を取ると、中庭のベンチの方へ導いてくれる。
「……これからは、だな。学問だけじゃなくて、時々話し相手になって欲しい。それでいいか」
目を逸らしつつ、リヒャルト様は言う。私は黙って何度も肯く。リヒャルト様が脱いだ上着を、頭に掛けていてくれる。
「何も話せないかもしれないぞ。私は、得意じゃないから。……普通の会話は」
凄まじい口下手。リヒャルト様はそうなのだ。だけどそれは、謁見でちぐはぐな話をして、無様な姿を散々見せつけた私のことを、リヒャルト様が逆に助けてくれた理由だった。
「……私だって、別に得意じゃないです。でも……だから」
「これから、よろしく。……アリーシャ」
そう言って、リヒャルト様は握手の手を差し出す。私はその手を握り返す。
今日が初めてだった。
リヒャルト様が、私を名前で呼んでくれたのは。
それから、しばらく時間が経っていたのだと思う。
でも「それから」って、いつから数えて「それから」だったっけ?
気が付くと公宮の奥の中庭の回廊を私は、何度も何度も、ぐるぐる歩き続けていた。
もう夕方になっていて、私から落ちた影が長く伸びている。
その声は、晴天の霹靂のように、私には響いたのだった。
「……アリーシャ?」
リヒャルト様だ。
「……殿下」
その後が続かない。私は泣いていた。
頬を伝っていた涙の跡と、泣き腫らした目。
だけど、なぜ。いつから。
「……アリーシャ」
その時のリヒャルト様は、なんというか不可解な表情だった。何か深刻な悩みを抱えていそうな、それでいて気遣わしげで、それは普段の君主然とした普段の様子とは違っていた。
そして彼は押し殺した声で、私に尋ねる。
「……エックハルトか?」
実は、この時の私の記憶はあまりはっきりしていなかった。
そう、この午後はずっと、私はゲストルームの掃除にかかりきりになっていた。それから、エックハルト様の居室に間違えて踏み込んでしまって、彼と会話をしたような気がする。
「ええと……確かにエックハルト様とは……会話しましたけど。……何を話したのか、よく覚えていなくて」
私はそう答える。
そう、エックハルト様とは何か、会話をしていた。だけど、その記憶には霞がかかっているようで、やりとりを思い返そうとすると、頭の回転が強制的にゆっくりになるような感じだった。
「覚えていないことはないだろう!」
リヒャルト様が発した言葉は、予想もしないほど鋭いものだった。
「え…………」
私は顔を上げる。自分のみっともない顔のことも忘れて。
「エックハルト様に、何かあったのですか?」
私は逆に、リヒャルト様に尋ねる。今度は彼が言葉を失う番だった。
「え…………」
しばらく沈黙が続いたと思う。
「……じゃあ、なんで泣いていたんだ」
「……ええと」
私は思い返してみる。なんで泣いていたのか。
もしかしたら、ちゃんと思い返してみれば説明できるかもしれない。だけど、何かがストッパーをかけているような気がしていた。
でも私が答えを思いつく前に、私を見据えていた鋭い視線を外すと、リヒャルト様は押し殺した声で呟くのだった。
「何もないなら、いいんだ」
「ええと。その」
私は何を答えるか迷って、しばらくもじもじしていた。
一方のリヒャルト様は、頬を紅潮させて視線を落としている。何かを恥じているような様子で、それは私に、リンスブルック侯国で見た彼の素顔を思い起こさせる。その記憶に、私は少し微笑んだ。
だけど、と私は思う。
「……なんで、ずっと呼んでくれなかったんですか」
あろうことか主君相手に、一臣下でしかない私がこんな恨み言を連ねていいわけではない。だけど、きっと私は寂しかった、というか、リヒャルト様が私に興味を失って、単なるメイドとして扱われるようになることを恐れていた。最初は小さな不安でしかなかった、だけど何ヶ月にも及ぶと、それは確信めいたものへと変わっていたのだ。
「え…………」
リヒャルト様はまた言葉を失う。
「そんな、泣くほど悲しいなんて思わないだろう!」
「会いたかったし、声が聞きたかった、です」
さっきから私が感じていた悲しさは、この不安定な立場に由来する心細さに直接起因してはいなかったかもしれない。だけど、その心細さは最近の生活を支配するトーン、ベースカラーになりつつあった。そしてこの時の私は、正体不明の悲しさと、最近常に感じていた心細さが内面で混じり合って区別できなくなっていた。
だから私が発した言葉は、哀れっぽい懇願口調のかすれた声になっていたのだ。
「……こちらへ」
リヒャルト様は私の手を取ると、中庭のベンチの方へ導いてくれる。
「……これからは、だな。学問だけじゃなくて、時々話し相手になって欲しい。それでいいか」
目を逸らしつつ、リヒャルト様は言う。私は黙って何度も肯く。リヒャルト様が脱いだ上着を、頭に掛けていてくれる。
「何も話せないかもしれないぞ。私は、得意じゃないから。……普通の会話は」
凄まじい口下手。リヒャルト様はそうなのだ。だけどそれは、謁見でちぐはぐな話をして、無様な姿を散々見せつけた私のことを、リヒャルト様が逆に助けてくれた理由だった。
「……私だって、別に得意じゃないです。でも……だから」
「これから、よろしく。……アリーシャ」
そう言って、リヒャルト様は握手の手を差し出す。私はその手を握り返す。
今日が初めてだった。
リヒャルト様が、私を名前で呼んでくれたのは。
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