アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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6章 歴史の終わり

6章9話 大遺構にて

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【新帝国歴1132年10月1日 アリーシャ】

 大遺構の中は薄暗い。擦りガラス状の壁の中を青い光が、脈を打つように明滅している。
「あの。何というか」
「何ですか?」
 恐る恐る尋ねる私に、こともなげに答える同行者。エックハルト様だ。

 大遺構に辿り着く道中には、天候の他はあまり障害はなかった。峠を通過する時に嵐になって、少し立ち往生したぐらいだった。
 大遺構、『失われた帝国』の最大の異物にして不可侵領域、そんなものが存在するのだから、当然この地域の歴史は、元の世界の歴史とは様相が異なる。元の世界のローマであった帝国の都には、ずっと足を踏み入れることはできなかった。
 しかしながら、その大遺構の存在は同時に、『帝国』の威容を示すものとして、この世界の人間には深く刻まれていた。大遺構は、恐怖すべき存在であるのと同時に、焼けつくような尊崇の対象でもあったのだ。
 だが今は災厄が人間を攻撃していない。それで、私たちは難なく、『失われた帝国』の都、そして大遺構に入ることができていた。と言ってもその見た目は、むしろ拍子抜けするようなものだったかもしれない。人が行き交わなくなって千年経った廃墟の中を、大小の機械が我が物顔で闊歩している。そして大遺構だが、他の遺構とも外観の似た、塔のような建造物だった。違っているのは、その塔が牙のような形ではなく円錐型をして天に向かって屹立しており、また十倍から数十倍は大きかったということだ。

 とにかく、私たちは大遺構に侵入することが出来ていた。他の人たちには、この外で待ってもらっている。が、エックハルト様だけは、私に随行すると強く主張したのだった。
「エックハルト様も別に、外で待っていただいて良かったんですけどね?」
「何故です?」
 半疑問形の私に、質問で返すエックハルト様。
「だって、危険かもしれないでしょう!」
「今現に、危険ではないでしょう、特には」
 あくまで平然としているエックハルト様。
 この場合、彼が正しいのは確かだった。何故って、既に災厄は、歴史への介入を諦めている。

「今は。あなたは、あなたなんですね。アリーシャ殿」
 そんなことをエックハルト様は言う。その口調は、どこか寂しそうというか、悲しそうで。私にはそれが少し奇妙だった。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですよ」
 彼はそれだけ答える。どうやら、説明する気はないらしい。
「そうですね。あなたには、あいつを幸せにしてやってほしい。私が願うのはそれだけですよ」
 私は少しだけ考える。私が今この状況で、エックハルト様に割ける思考能力の範囲内で。リヒャルト様を幸せにしろって、エックハルト様はそう言いたいのだろう。あいつ、なんて、時々エックハルト様はリヒャルト様をそんな風に呼んでいる。
「……意外ですね。エックハルト様が、私にそんなこと言うなんて」
「何故ですか?」
「だって、私がリヒャルト様に近づくのを、阻止しようとされていたじゃないですか。まず最初に、あんな風にして」

 割れた手鏡の件。その事自体はもうそこまで恨んではいないが、エックハルト様の癖のある性格と行動について考えるには今でも十分な材料だった。

「白状しましょうか」
「え?」
「リヒャルトは、私の人生の全てだった。好むと好まざるとに関わらずね。だけど彼にとって私は無だ。そうでしょう」
 私は首を傾げて、考える。
(……それに別に、そこまでのことはなくない?)
 でも、多分それは、エックハルト様がリヒャルト様に常日頃心を砕いていることに対して、リヒャルト様がそれを十分返しているとは、彼は感じていないということなんだろう。
「保護も、名誉も、愛情も、彼は全てを与えられていて、私には無だった。ガラス窓の向こうにケーキが置かれていても永遠に手が届かない物乞いの子だった、私は。だけどリヒャルトは私と似ていた、誰も愛せないことだ。二人とも孤独なまま、この人生で朽ち果てるんだ。それだけが私の復讐だった。だけどたった一日の出来事で、彼は変わってしまった。あなたです」
 そう言って初めてエックハルト様は、私の方を見る。
「あの最初の日、これから何が起きるのか、私には分かったよ。何故かって? あいつの考えなんか全部私にはお見通しだ、あいつが自分で気が付かないことですら。そのこともあいつは気が付きもしない。それなのに、人間の幸せすらあいつだけが手に入れる? その想いを遂げるために、私に犠牲をたっぷり強いた上で。私は豚の丸焼きも同然だ、あなたたちの婚礼に供される。だから、始まる前に終わらせてやりたかった。その可能性ごとね」
 私は沈黙してしまう。

 このエックハルト・フォン・ウルリッヒという人は、どれだけ孤独に苦しんでいたのか。私が出会った最初の瞬間から、この人は救いのない愛憎の暗い海を泳いでいた。そして、きっとそれ故なんだろう。こうやって必死で私が泳いできた未来すら、最初から予想がついていたと彼は言う。ただの後知恵じゃないかって? 多分違う。エックハルト様はリヒャルト様のことを、誰よりもよく分かっている。きっと、今の私より。

「……ええと、でも。あの」
 私は決意を固めようとする。

 エックハルト様はリヒャルト様を憎悪しているけど、同時に誰にも奪われたくなかった、そう言っている。そしてそれはきっと、自分が本当に一人ぼっちになってしまう、そういう恐れと焦り故なのだろう。この人の執着を理解して、認めなければ、これからもきっとこの人は私を、心のどこかで憎んでしまう。
 若葉ならどう言うんだろうか? 私はちらっと、そんなことを考えてみる。だけど今は、私の中の若葉は答えてくれない。多分、ここでは私自身が、この人に対峙する必要があるってことなんだと、私は思う。

「それってエックハルト様、あなたはリヒャルト様を、愛しているって、ことですよね」
「それで?」
「もうちょっと素直になったらどうなんですか」
「へえ?」
「……だから! リヒャルト様に。それから、自分自身に素直になってください。あなたは本当は、もっと良い人でしょう?」
 私なりにエックハルト様に届くように、必死で紡いだ言葉だったのだが、彼は小さく溜息を吐く。
「……あなたは、彼のことを一番に思っているから。それでいいんです」
(な、なんか。会話が上手くいかないんですけど?)
 エックハルト様は低い、心なしか掠れた声で続ける。
「違うんだ、きっと。私はリヒャルトを愛している、ある意味ではね。だけど、私のそれは愛じゃなかった。単なる執着心で、それを超えられてはいなかった」
「……分かってるなら、いいですけど」
「私の言う意味があなたには分かっていない。愛とはきっと、自分がどれだけ孤独か気が付かせてくれるものだった。嵐の前に一人で立っていることを教えてくれて、それでも立っていられるようにしてくれるものだった。愛することができれば、愛されるなんて小さな問題だ。自分の心がどこにあるか教えてくれさえすれば、他には何もいらない、何も」
「な、なんとなく分かる気はしますけど。あの……でも!」

 正直、なんとなく分かっているのかどうかも分からない。なんだかよく分からないけど、思ったよりずっとこの人は情熱的で、狂気じみていると言ってもいいぐらい、そこにある何かに対して拘りがあるらしい。

 でも、と私は思うし、最後の「でも」を、できる限り強い語気を込めたつもりだった。
「でも?」
「愛……のことです! 私が愛について分かっていないとか、言わないでください! あなたの人生のことは分かりませんけど……それでも!」
 きっとエックハルト様のことだから、リヒャルト様と私のやりとりだって把握しているんだろう。そう、一番最近の仲直りだって。エックハルト様がどれだけ不満があったとしても、私だってそれを譲るわけにはいかない。
 エックハルト様は軽く額に手をやると、それから私に謝るのだった。
「……すみません。そんなつもりじゃないんだ。私は私の話をしていただけですよ。私には愛なんて分からない、そうだ。だから、私の言葉はあなたには関係ない、おそらくは」
「関係ないことはないでしょう! だって……」
「関係ない。そういうことにしておいてください。私のことは、放っておいていただけませんか、申し訳ありませんが」
「…………ええ。それがお望みなら」

 そろそろエックハルト様に構うのをやめなければならなかった。エックハルト様と彼の言う愛のことは私には関係ない、そう私に思ってほしい、その強いメッセージだけは伝わってきた。だから私はそのことについて考えるのをやめる。今エックハルト様に気を取られていて、先に進めなければ元も子もない。
 
 何故エックハルト様に気を取られていてはならないのか。
 それは、大遺構の奇妙な構造にあった。
 基本的には一本道で、廊下を抜けていくと、次の部屋に続く扉に辿り着く。それだけなら話は早い。だけど。
 大遺構の扉は、それは奇妙な扉だったのだ。 
 扉には文字が浮かんでいるだけだが、近づくとタブレットから文字を入力できるようになる。正しい答えを入れると、扉が開く仕組みだ。

 最初の扉にはこう書かれていた。

# print Hello World
print("___________")

(……ねえ、これさ)
 元の世界の現代人で、少しコンピュータが分かる人にとっては、造作もない問題だった。正解は Hello World。
 流石にそれは肩慣らしだったらしい。それから奥に奥に進むにつれて、出題は難しくなっていった。
 出題されるのはいくつかの学問分野に関する、初歩的な問題。ときどき私の答えが怪しかったり、それから哲学におけるトロッコ問題の変形版みたいな、答えがない問題が出題されることもあった。そういうときは必死で考えて、迷って、悩んで、でも結局答えを選ぶ。そのたびに毎回扉は開いたので、正解だったのだろうと思う。でも、だいたいは基礎知識に関する問題で、私の前世で最先端だったような学問の話は出てこなかった。その奥まで辿り着く資格があるのかどうか、十分確立された知識のみをシステムは問うているのかもしれない。
 案外簡単に突破させてくれるのかもしれない、と、そう思っていたのだが。それは、その扉に辿り着く前までのことだった。

 扉というか、それはもう、行き止まりの部屋のように見えていた。
 壁一面を覆うディスプレイから、白い光が漏れ出している。
 そこには、長い文章と、そして数式が記されていた。
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