アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり

平沢ヌル

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8章 未来への布石

8章1話 自由な空の勝利者 *

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【ヨハンの手記、ひとまずの結びに】

 その後の俺たちについて、それから世界がどうなっていくかについて、今の俺にはあまり語ることはできない。なぜって、遺構崇拝者の立てこもり事件から5年弱となる今現在には、少なくともまだ大したことは起きていないからだ。
 だから、これはつい先ごろ、2日前に起きたほんの些細な話だ。ただ奴が成し遂げたって話を、俺がここに付け加えておきたいだけのことで、このページはまた後日、何か新しい事態が起きたら破り捨てるかなんかして、もっと短く整理して、もっと大事な別の話を書くことになるだろう。



【新帝国歴1140年6月5日 ヨハン】

「なんで、あんたがここにいるんだ?」
 もう何度か口にした疑問を、俺はまた口にしている。

 それは、俺の実家の庭先での出来事だった。昔、アリーシャと一緒に、ヘロンの蒸気機関を作っていたのと同じあの庭。今では人の手を入れているので小綺麗になっていて、農園風に設えた貴族の別荘みたいにも見えるかもしれない。

「わたくしは人気者なんですの。このわたくしの訪問を受けただけ、名誉と思いなさいな」
 庭の楡の木の下に出したテーブル、その向かい側に座る女はそう言って、にんまりと笑うのだった。

 女の服装だ。濃い紫と白を基調としたドレスだが、飾りとして淡い紫のリボンが胴体を斜めに横切り、ほっそりした腰の右側ででっかい結び目を作っている。敢えて対称から崩す服装は当世では奇抜とみられているが、細部の装飾へのこだわりとこの女の着こなしで、優美で洗練された衣装と見えている。その頭部を飾るのは共布のでっかい帽子で、多数のレースと造花で彩られている。
 そんな風な、ある種突飛でもあり優美でもある、とにかく高そうな衣装に身を包んだ都会の女という印象で、この鄙びた田舎家には似つかわしくない。
 一方の俺は、紹介するほどのこともない極々普通の格好。今は机に向かう仕事が主になっているので、昔みたいなボロ服ということはなく、大人としては普通という程度の格好だ。なんだか偉そうな女の訪問を受けるには相応しくないかもしれないが、実家なのだからこれぐらいは許してほしい。

 相変わらず俺、ヨハン・ヴェーバーこと、ヨハン・エードラー・フォン・ヴェーバーは、公爵直属の工房で技師として働いていた。技師としての腕前を上げるのは地道な仕事の積み重ねでしかない。この点では、いいことと悪いことがあった。まずは悪いことから。
 結局俺は、杖無しでは歩けない体になった。これは、技師としての仕事でも大いに問題だった。なんせ技師の仕事には体を使うことがとにかく多いのだから。
 良いことと言えば、逆に頭脳労働に特化することで、設計の仕事が多く回ってくるようになった。それは、結果的にいいことだったのかもしれない。また傷病年金から得た余剰の収入で家にも余裕が出た。そして農園の管理に人手を割けるようになり、だから今俺はこうしてのうのうとお茶なんかしていられるということだ。

 一方の、この女の方だ。
 ヴィルヘルミーナ・フォン・リンスブルックは、自分の夢を実現していた。婦人服の仕立て屋として、お針子を沢山雇い、各国のご婦人たちに最先端の流行を届けている。若干21歳でもう売れっ子になっており、近隣の各国を飛び回る生活らしい。
 そのことで実家であるリンスブルック侯爵家とは散々揉めたが、なんだかんだで娘は可愛いものらしい。今ではヴィルヘルミーナに実家の家紋を使うことを許しているとのことだ。実際の縫製はお針子の仕事で、ヴィルヘルミーナの仕事はデザインと採寸に限られるらしいが、侯爵令嬢みずから採寸されるというのは、巷の女性たちの心をくすぐるものであるらしい。

「これであなたも、思い知ったのではございませんこと?」
「何が?」
「わたくしが、強くて賢い女だって」
「…………ああ」
 そのことか、と、俺は思い出す。
「理解した、そう言ったはずだが?」
「……そういうことではありませんの! 証明する必要があったってこと、それぐらい理解しなさいな」
 なぜ俺が怒られているのか、そっちの方が理解はできない。

「まあいいわ、皆様のご様子を教えてくださいな」
 そんな風にヴィルヘルミーナは話題を変える。
「知らん。公宮にもあんまり足を踏み入れんしな」
「あら、どうして」
「まずあの夫婦の、妙に緊張感のある惚気に当てられるのが面倒くさい。それにチビ共ときたら容赦ないからな、こっちは歩くのにすら苦労するってのに。最近また家族が増えたんで、足を踏み入れるたび大変な騒ぎになってるし」
「まあ、それは大変ですわね。足を踏み入れるたび家族が増えるなんて」
 あの連中についてはその程度で、ごく軽い話しかしなかったと思う。
 だが、何かがおかしくないか、この会話。
 俺は考え込む。ヴィルヘルミーナの言葉の正確な意味、そこから導き出させる現実像、そのイメージについて。
「……怖っ」
 この女は一体、何を言っているんだ。

「それより何より、エックハルト様ですわ! どうされているのか、全く存じ上げませんわよ!」

 エックハルト様だが、最近、側近の地位から退いて公国の政務官の一人になっていた。リヒャルト殿下の治世の安定において功があったエックハルト様を、殿下は大臣に取り立てようとしていたらしい。しかしエックハルト様は断った、身分が低すぎるからとのことだった。リヒャルト殿下の遠縁なら低すぎることはないとこっちには思えるが、身内の優遇によって貴族社会の秩序を徒に乱すのは不満の種になりかねないというのが、エックハルト様の考えだったらしい。

「今は公宮を出て、都の中心の一等地のお屋敷に住んでいるらしい。半分は仕事場みたいで、部下が出入りしてる、そんな話は聞くけどな。だが、私生活に関しては何も教えちゃくれないな。あんまり健康状態が良くない、なんて噂だけは聞くが」

 エックハルト様の日々の執務は半分はそのお屋敷で行われているらしく、公宮に顔を出すことは週の半分程度になっているらしい。昔はリヒャルト様がいる場所にエックハルト様がいないことはなかったのだが、それも時の流れということなのかもしれない。彼に関する明るい材料は、側近としての仕事から解放された分、内政の細かい部分に目を向ける機会が増えたことだ。抜け目のないエックハルト様らしく、その仕事で日々辣腕を奮っているとのことだ。暗い材料といえば、側近を辞めたこと自体がその健康状態に関わる話かもしれないということだが、それも詳しい話は伝わっては来なかった。
 エックハルト様が側近の職を辞した分で、殿下の秘書のような仕事をしているのは、今ではアリーシャの方であるらしい。いくらアリーシャが以前とは見違えるほどしっかりしているとしても、あのエックハルト様の代わりにはなれないとは思うが、まあ、諸々含めて上手くやっているんだろう。俺はそう思っている。

「まあ、エックハルト様の健康状態が、ですの。心配ですわね。……ヨハン、エックハルト様のお屋敷にカチコミに参りますわよ! そうですわね、明日にでも」
「……一人で行ってくれ」
「案内させるに決まってるでしょう。わたくしはお家を知らないのですから」
(……可哀想なエックハルト様)

 俺は少し同情する。少なくともエックハルト様にとっては、詳にしていない私生活のベールをひっぺがされるとか、そんな程度では済まなさそうだ。カチコミの件といい、足を踏み入れるたび家族が増える件といい、どうもこの女は発想がおかしい。

「あのな、やめてやれよ。エックハルト様が結婚しているのかどうかすら、俺は知らんからな」
「ヨハンは知りたくありませんの?」
「知りたくない。他人の結婚生活のことなんかな。俺は自分のことで精一杯だ」
 こんな話題になるのか、と、俺は正直閉口している。
「あら。ご結婚されるんですの?」
「しない。そんな相手もいない」
 俺は少し不機嫌になる。俺に結婚を勧める声だってなかったわけじゃない。だが、そういう話はとりあえず断るのが俺の方針だった。
「あらー、女性に臆病でいらっしゃるのね」
 そう言うヴィルヘルミーナはなぜか嬉しそうだ。
「それでいいから、そういうことにしといてくれ」
「あんまり良くなさそうですわね」
「俺は片足がないんだよ。反対側の足だってろくに使えない、杖無しでろくに歩けやしない。あの時の傷だって残ってる。そんな人生だからって、誰かの慈悲に縋って生きるのは御免だね」
 ヴィルヘルミーナは少し考え込んでいる。
「思ったよりずっと、怖がり屋さんですのね、ヨハンは」
「なんだそれ」
「だってそうでしょう。誰かに頼ったら惨めになる、なんて、ありもしない惨めさを怖がっているだけじゃございませんの」
「…………」
 俺は、少し考え込む。
 案外頭が回る、あるいは口が立つのだ、この女は。
 ある意味じゃ、言っていることは正しいんだろうが。
「……冷静に、考えてみろ。片足が無くて義足を引きずってる男と、五体満足な男がいたとする。あんたが結婚相手を選ぶとしたらどっちを選ぶ? 建前や慰めなんか要らないぞ。俺は貧乏くじ扱いされるのも嘘吐かれて生きるのも、どっちも嫌なんだよ、それだけだ」
 しかし、ヴィルヘルミーナはそんな俺の抗弁をふん、と、鼻で笑うのだ。
「どっちでもいいですわね。その条件だけだったら」
「おかしいだろ明らかに。それ以外の違いが全くなければ、悪い方の選択肢なんて選ぶわけがない」
「全く違いのない人間なんて、この世に存在しませんでしょう?」
「あんたは、見てもいないからそう言えるんだよ。足がなくなった痕を。気持ち悪いと思うはずだ」
「わたくしも見くびられたものですわね。試してみましょうか?」
「やめろ! 何なんだあんたの、その発想は」
 もう一度ヴィルヘルミーナは鼻で笑い、そして言う。
「あなたが考えるほど、わたくしは弱い女ではありませんわ。あなたの片足やその拘りのことなんて、このわたくしを阻止する役には立ちません。わたくしはもっと強くて、自由。この空はわたくしのもの。そう覚えていらっしゃいな」
 こんな勇ましいことを言う女にはこの時代、そうそう出会えたもんじゃなかっただろう。しかし俺は、少し考え込む。

 それは、この女が俺の結婚相手に立候補してる意味にならんか?
 意識しないで言ってるのか?
 意識しているとしたら、こんな堂々とした求婚、聞いたことあるか?
 これは、その意図を無視したら失礼に当たるのか?
 そんなこと言うほど、この女が俺のことを好きだったことって今まであったか?
 というか俺は、この女に求婚したいと思っているのか?
 俺はこの女が好きなのか?

「……3分。3分、考える時間をくれ」

 これはまあ、それだけの話だ。
 俺は別に、この場の雰囲気に呑まれて奴に求婚なんかしていない。恐る恐る探りを入れてその発言の真意を問うてみたが、別にそういう意図じゃなかった。この女らしい話だ。安心したのか残念なのか、俺にも正直よくわからない。

 俺も28歳になって、そろそろ結婚だの身を固めろだのと、五月蠅く言ってくる連中に悩まされるようになっている。ヴィルヘルミーナの奴もきっとそうなんだろう。女は男よりも若いうちから結婚を強いられるのは世間の常識だし、身分が高いと特にその圧も大きいだろうし。
 だが、今の俺はそれを望んではいないのだ。別に俺自身が女が嫌いだと思ったことはないが、足のことで他人に不便をかけてまで許容される存在になりたいとはどうしても思えないし、少なくとも今は、そうでなくても俺は生きていけるのだから、あまり今は考えたくもない。

 ヴィルヘルミーナについても、俺は何かの結論を出そうとは思わない。俺みたいなつまらん人間の考えたみみっちい結論に収まるような女じゃないだろうし、そうあって欲しくもないのだ。彼女が自分の人生を生きる自由な人間でいてくれれば、俺はそれで十分だ。自分が飛べない空を自由に飛べる人間を、そこそこ近くで見ていることを許される、それはそれで結構悪くない。

 正直俺には、あいつらの恋愛に掛ける情熱が理解できない。あいつらって、つまりアリーシャと、それから世の中の男たちと女たちのことだ。
 恋に落ちた男も、恋に落ちた女も、みんな凄まじく強欲だ。強欲という言葉が不適切なら、エゴイストだと言ってもいい。身も心も捧げ尽くしながら、同時にそれ以上のものを期待している。問題は、そうする人間の多くが、お互いに崇拝し尽くされるような、神のごとき価値は持ち合わせていないことだ。それは、ただの人間の身で、自分の究極の価値を試しているということでもある。だが俺にその価値はあるか? 好奇心、対抗意識、劣等感、そんなもののために恋愛ごっこに首突っ込んで、結果鼻面引き回されて、地団駄踏むのは馬鹿のやることだ。

 それにどうせその時が来たらきっと、好むと好まざるとに関わらず暴力的に振り回されるんだろうと、そう俺は思っている。なんせ俺はあの色ボケ姉貴の弟なんだから、血は争えないだろう。



ヴィルヘルミーナ21歳ラフイメージ / 自筆
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