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8章 未来への布石
8章10話 運命の航海者 *
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【新帝国歴1140年7月30日 アリーシャ】
そうして迎えた、ベアトリクスの1歳の誕生日の式典だ。
ここは公宮の式典の間で、普段の謁見には使わない。公宮で一番豪華な室内には、装飾の施された調度が並んでいる。厳粛な空気の漂う中、窓から入り込んだ陽光が床に踊っている。
私たちの前に並ぶのは、近隣諸国からの使節団。だけど、ヴォルハイム大公、アルトゥル様ほどの地位にある方は、他にはいらっしゃらない。
私は、緊張した面持ちでそれらを見渡している。傍らには正装姿のリヒャルト、そして私たちの間には、椅子に座らされたベアトリクスがいる。
ベアトリクスは最近周囲の人々に対する認識ができてきて、自我も芽生えてきた。また動きも活発になってきて、そろそろ歩いたり話したりできるようになりそうな気配が見えている。
しかし、私は不安だった。逆に言うと、この知らない人ばかりの今の状況に不快感を覚えれば、むずかって騒ぎ出したりするかもしれず、そうなったら式典は台無しだ。それとも主役のはずの赤ん坊が泣き喚いても、何事も起きていないかのように式典を続行すべきなのだろうか。幸い、今はベアトリクスは落ち着いていて、そんな大騒ぎの気配はなかった。彼女のお気に入りの人形を手に持たせているためかもしれない。こんなものを手にしていては王侯の威厳に関わるという気がしないでもないが、万が一を考えると苦肉の策だ。
それにしても、アルトゥル様はこの状況をどう思っているんだろう。私は彼の表情に目を走らせる。表情に乏しい若者で、この場でも特に何かの感情を示してはいないが、こんな幼い赤ん坊とどうやら婚約することになった彼の気持ちを私は慮る。何せ、アルトゥル様とベアトリクスでは年齢がまったく違う。14歳の少年に向かって赤ん坊に恋しろと言っても、それは無理な話だ。
でもその気持ちは、きっと私よりもリヒャルトの方がよく理解できるだろう。私は、彼の昨晩の言葉を思い返す。
『一番大事なことは、彼が、それからベアトリクスが自分の人生を制御していると思えることだ』と、そう彼は言っていた。
これは政略結婚だ。政略結婚である以上恋愛感情は後回しになって、その不自然な状態は年若い当事者に過大な負担を強いるものになる。だから、リヒャルトと私は、この選択をした。ベアトリクスとアルトゥル様、二人の意志によって婚姻が成立するという形に拘ったのだ。
まずは、恋愛しろとは言わない。でもそこに親愛の情が芽生えない限り、そして自分の人生を自分で選択しているという実感が得られない限りは、私たちもまた彼らに終わりなく続く呪いを引き継ぐことになる。
私たちは強くはない、その呪いを完全に解くことができるほどには。これは形式論でしかないのかもしれず、また、未来の私たち、それから彼らにどんな困難が降りかかってくるか、それによって吉とも凶とも出かねない、そういう決断だった。
式典は進んで、今はアルトゥル様が、ベアトリクスの前に立ち、身を屈めている。
ベアトリクスはアルトゥル様に、どう見えるだろう。私はそのことが気にかかっている。貴族的なリヒャルトに似てくれればいいのだけど、貧乏くささが否めない若い頃の私に似てしまったらどう受け止められるのか、私にはなんとも分からない。でも、なんとなく私に似そうな気配も見えてきている。
不意に、ベアトリクスが声を上げる。きゃっきゃと笑ってアルトゥル様の方に手を伸ばすが、どうもアルトゥル様ではなくて、その衣装の上を踊る陽光に手を伸ばしたようだった。その拍子に手にしていた人形を落としてしまい、私は慌てて立ち上がるとそれを拾い、彼女の腕に戻す。
公妃がこんなことをするのは相応しくないのだが、幸い一同の視線はベアトリクスとアルトゥル様に注がれており、私の方には注意が向かなかったのが幸いだった。
恐る恐るといった感じで、アルトゥル様はベアトリクスに指を一本差し出し、ベアトリクスも手を伸ばす。ヴォルハイム家の正装なのか、彼の手に嵌められているのは金属製の籠手だ。
だけど、それでは幼児に触れるには相応しくないと考えたのか、この場において彼はその籠手を外してみせたのだ。
差し出された指を、小さな、小さな手が握る。
ベアトリクス。元々は航海者を意味しており、幸福の運び手という意味もある名前だ。幾多の困難もあるだろう人生を泳ぎ切っていけるように、そして、彼女自身の世界をその目で見ることができるように、リヒャルトが名付けた名前だった。
私は、小さな声で呟く。
「ベアトリクス。あなたに、幸せが訪れますように。そしてあなた自身も、皆に幸せを運ぶことのできる人になりますように」
そうして迎えた、ベアトリクスの1歳の誕生日の式典だ。
ここは公宮の式典の間で、普段の謁見には使わない。公宮で一番豪華な室内には、装飾の施された調度が並んでいる。厳粛な空気の漂う中、窓から入り込んだ陽光が床に踊っている。
私たちの前に並ぶのは、近隣諸国からの使節団。だけど、ヴォルハイム大公、アルトゥル様ほどの地位にある方は、他にはいらっしゃらない。
私は、緊張した面持ちでそれらを見渡している。傍らには正装姿のリヒャルト、そして私たちの間には、椅子に座らされたベアトリクスがいる。
ベアトリクスは最近周囲の人々に対する認識ができてきて、自我も芽生えてきた。また動きも活発になってきて、そろそろ歩いたり話したりできるようになりそうな気配が見えている。
しかし、私は不安だった。逆に言うと、この知らない人ばかりの今の状況に不快感を覚えれば、むずかって騒ぎ出したりするかもしれず、そうなったら式典は台無しだ。それとも主役のはずの赤ん坊が泣き喚いても、何事も起きていないかのように式典を続行すべきなのだろうか。幸い、今はベアトリクスは落ち着いていて、そんな大騒ぎの気配はなかった。彼女のお気に入りの人形を手に持たせているためかもしれない。こんなものを手にしていては王侯の威厳に関わるという気がしないでもないが、万が一を考えると苦肉の策だ。
それにしても、アルトゥル様はこの状況をどう思っているんだろう。私は彼の表情に目を走らせる。表情に乏しい若者で、この場でも特に何かの感情を示してはいないが、こんな幼い赤ん坊とどうやら婚約することになった彼の気持ちを私は慮る。何せ、アルトゥル様とベアトリクスでは年齢がまったく違う。14歳の少年に向かって赤ん坊に恋しろと言っても、それは無理な話だ。
でもその気持ちは、きっと私よりもリヒャルトの方がよく理解できるだろう。私は、彼の昨晩の言葉を思い返す。
『一番大事なことは、彼が、それからベアトリクスが自分の人生を制御していると思えることだ』と、そう彼は言っていた。
これは政略結婚だ。政略結婚である以上恋愛感情は後回しになって、その不自然な状態は年若い当事者に過大な負担を強いるものになる。だから、リヒャルトと私は、この選択をした。ベアトリクスとアルトゥル様、二人の意志によって婚姻が成立するという形に拘ったのだ。
まずは、恋愛しろとは言わない。でもそこに親愛の情が芽生えない限り、そして自分の人生を自分で選択しているという実感が得られない限りは、私たちもまた彼らに終わりなく続く呪いを引き継ぐことになる。
私たちは強くはない、その呪いを完全に解くことができるほどには。これは形式論でしかないのかもしれず、また、未来の私たち、それから彼らにどんな困難が降りかかってくるか、それによって吉とも凶とも出かねない、そういう決断だった。
式典は進んで、今はアルトゥル様が、ベアトリクスの前に立ち、身を屈めている。
ベアトリクスはアルトゥル様に、どう見えるだろう。私はそのことが気にかかっている。貴族的なリヒャルトに似てくれればいいのだけど、貧乏くささが否めない若い頃の私に似てしまったらどう受け止められるのか、私にはなんとも分からない。でも、なんとなく私に似そうな気配も見えてきている。
不意に、ベアトリクスが声を上げる。きゃっきゃと笑ってアルトゥル様の方に手を伸ばすが、どうもアルトゥル様ではなくて、その衣装の上を踊る陽光に手を伸ばしたようだった。その拍子に手にしていた人形を落としてしまい、私は慌てて立ち上がるとそれを拾い、彼女の腕に戻す。
公妃がこんなことをするのは相応しくないのだが、幸い一同の視線はベアトリクスとアルトゥル様に注がれており、私の方には注意が向かなかったのが幸いだった。
恐る恐るといった感じで、アルトゥル様はベアトリクスに指を一本差し出し、ベアトリクスも手を伸ばす。ヴォルハイム家の正装なのか、彼の手に嵌められているのは金属製の籠手だ。
だけど、それでは幼児に触れるには相応しくないと考えたのか、この場において彼はその籠手を外してみせたのだ。
差し出された指を、小さな、小さな手が握る。
ベアトリクス。元々は航海者を意味しており、幸福の運び手という意味もある名前だ。幾多の困難もあるだろう人生を泳ぎ切っていけるように、そして、彼女自身の世界をその目で見ることができるように、リヒャルトが名付けた名前だった。
私は、小さな声で呟く。
「ベアトリクス。あなたに、幸せが訪れますように。そしてあなた自身も、皆に幸せを運ぶことのできる人になりますように」
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