羊飼いとグリモワールの鍵

むらうた

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第1部

7 | 羊飼いの感傷 - ベルスタ②

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 近づいては逃げられ、近づいては逃げられ。それでも少しずつ距離を縮め、ようやく仔羊を抱きとめた頃には残照の空を木々が覆う見知らぬ林の中にいた。

 追いかけることに夢中で、どこをどう来たのかわからない。

 腕の中の仔羊はメェメェと鳴き震えている。

「だ、大丈夫だ。俺が守ってやるからな」

 仔羊といっても軽くはなかった。細く弱々しく見えたが、実際に抱きとめるとしっかりと重みがある。血のかよう温かさがある。

 帰るべき方向がわからなくても弱気になってはいられない。

「迷子になったら、動いたらだめなんだ」

 仔羊に言い聞かせるようにつぶやく。

「でも…林までは探しに来てくれないかもしれない」

 日暮れが近づく不安からじっとしていられなかった。だんだんと視界が暗くなる林を彷徨い歩いていると、木々の隙間からギラリと獣の目が光った。

 魔物だ、と身がすくむ。まだ、気付かれていない。息を殺し、後ずさる。このまま距離をとって、と思ったのに。腕の中ですっかりおとなしくなっていた仔羊が、魔物の気配を感じたのか怯えた声で鳴いた。

 ガサッと大きな影が動き、鋭い眼光がこちらを向く。俺は一目散に逃げ出した。幸い、木々が邪魔をして体の大きな魔物は思うように動けないようだった。それでも子供の足で逃げ切ることは難しい。

 仔羊を抱きしめ、無我夢中で走った。走っても、走っても、魔物は追いかけてくる。息があがり、足はふらついて、木の根に躓いてしまう。

「わっ」

 よろけて体勢を崩すと、抱いていた仔羊が腕から逃げ出した。

「だめだっ!」

 魔物の標的が、逃げ惑う仔羊に変わった。助けなければ、と思った。守ってやると言ったのは自分だった。でも、俺はその場から動けなかった。

 これで生き延びられるかもしれない、という浅ましい考えが浮かんでいた。

 夜がきた。

 俺は同じ場所でうずくまったまま泣いていた。自分の正義感のちっぽけさが情けなくて恥ずかしくて悔しかった。

 枝を踏む音がして、また魔物かもしれないと思ったが、声を殺すことはできても逃げる気力は残っていなかった。ガサガサと音が近づいてくる。

(ごめんなさい、ごめんなさい…仔羊一匹も守れない俺なんて食われて当然だ。怖いけど。死にたくないけど。)

「おっ、いたいた」

 人の声がして、信じられない気持ちで顔をあげる。

「ひどい顔だな。お前がベルスタか?」

 ランプを持った見知らぬ男がいた。男というよりも少年と呼べる年齢かもしれない。黒いケープを羽織っている。

「…だれ」

「問うているのは私だ」

「お、俺がベルスタだ」

「怪我は?」

 立ち上がり、ずっと鼻をすすり、「ない」と答える。

「よろしい」

「探しに来てくれたの?」

「頼まれたからな」

「…ありがとう」

「逃げた仔羊を捕まえようとしたんだってな、ってなぜ泣く」

 仔羊を守れなかったのに。自分は助けてもらえるなんて。我慢しようとしてもぽろぽろと涙がこぼれる。

「泣きやめ。私が泣かしたみたいじゃないか。ああもう、帰るぞ。歩けるな」

 手を引かれたが、俺はぶんぶんと頭を左右に振る。

「どうした、帰りたくないのか?」

「帰りたい…けど…帰ってッみんなにッなんてッ言えばァ」

 とうとう声を上げて泣いてしまう。「意味がわからん」と困る相手に、泣きじゃくりながら、仔羊を守れなかったことを話した。

 内容が伝わったのかわからない。ただ、俺が話し終えると、「一晩、頭を冷やせばいい」と髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。

「ほら、来い」

 ケープの内側に包まれる。肩を抱かれ浮遊感がして…次の瞬間には、林ではなく急峻な山の斜面にいた。

「…え」

「人間、驚くと涙が止まるのか。最初からこうしていれば良かったな」

「今のは…」

「魔術だ」

「移動したの? 一瞬で、全然違う場所に!」

「まあな。おい、山小屋は見えるか?」

「…うん」

「私は今から村へ行って無事を伝えてこよう、お前が山小屋に着く頃には戻ってくるさ。あそこまで歩けるな」

 俺は力強く頷いた。


    ◇◇◇


 小麦畑の脇には石垣が続いている。セルシウスと並走しながら、石垣の端まできていた。

「っはぁ、いや、ちょっと、がんばりすぎた…」

 歩く速さに落とし、息を整える。ひたすらに走っているうちに、悶々としたつっかえは消えていた。

「休憩だ、休憩」

 石垣に腰をおろす。火照った肌を夜風が冷やしていく。セルシウスも寝そべり、短い呼吸を繰り返している。

「知っているか? 今夜は流星雨が降るんだぞ」

 セルシウスは「へえ」と素っ気ない返事だった。

 俺が話したいだけなので、牧羊犬の興味の如何は関係ない。

「今夜の流星雨はな、シュルッセル様の魔術なんだ」

 十年前、山小屋で見た流星雨はすごかった。降ってくる音が聞こえてくるほど近くて、あの夜は俺にとって大切な思い出になっている。

 羊飼いとして山小屋で暮らせるようになるとはな、なんて感傷に浸っていると、「なんの話だ」とセルシウスがつぶやいた。

「誰がそんな嘘を?」

「本人から聞いたんだ。間違いない」

「いつ?」

「…十年前」

「それ、お前…騙されてるぞ」

「どうしてそんなことがわかるんだ」

「考えてもみろ、流星雨だぞ。一個人の魔術がそんなものに関与できるわけがない」

 他人の思い出に突っかかってこなくてもいいのに。

「シュルッセル様は王国に結界を施せるほどの魔力を持っているんだ。流星雨くらい…」

「結界は地道に拠点を設けて繋げていくんだ。どんな魔術を使えば流星雨を降らせられると?」

「そんなこと、俺が知るわけないだろう」

「私は知っている。そんな魔術はない」

 犬の考えていることはわからない。感傷的な気分が台無しだ。
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