座る優先順位

在江

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 病院の待合室はいつも、朝から混雑している。
 脳神経外科と整形外科と内科と皮膚科とが同じフロアにあって、受付窓口や待合椅子が共用なので、様々な患者が入り交じって診察や検査の順番を待っている。
 患者の数は椅子よりも常に多い。人々は病に苦しみながらも、互いに譲り合う気持ちは残っている。そこで、自らの苦しみと隣人の苦しみを天秤にかけることになる。


 お腹が膨れた妊婦。これは間違いなく、着席を優先される。
 お腹の荷物は下ろすことができないにもかかわらず、直立するには極めて不安定な形であり、なおかつ貴重な生命が流出する可能性すら秘めているからである。

 乳飲み子を抱えた母親も、同様の存在と看做される。一応分離していても、実態は妊婦とほとんど差がないからである。幼子を連れた母親は、これに準ずる。
 ここで優先されるべきはあくまでも母親で、子どもなんぞ無理に座らせてじっとさせるより、立たせた方が体を動かせて気分的にもよいのだが、大概の母親は自分の疲れを押し隠し、エネルギーの有り余っている子どもを座らせようとする。

 子どもも疲れやすいのは事実で、しかも彼らの基準で急に座りたがったりと煩いので仕方のないことである。
 お腹が膨れていない妊婦も貴重な生命が流出する危険性の大きさから当然優先されるべきであるが、如何せん外見から分かりにくく、世故長けた人々の慧眼に頼るしかない。
 ただの若い女性と看做されると、着席順は最後尾に回される危険がある。

 老人。これも儒教の教えを待つまでもなく、着席を優先される。老人とは、気力体力が衰えた存在であるから当然である。
 杖をついたり手押し車を持つ老人は、一見大変そうに見えるが、それらに寄りかかることができるのだから、同じ程度の老人であれば、寄りかかるよすがのない老人を優先させるべきである。
 つい手順を逆にしがちであるから注意が必要である。

 脚がない、または脚を怪我している人も優先される。
 両手松葉杖の場合は、立ったり座ったりする動作自体が大変なので、待ち時間によっては立ち放しの方が楽である。
 車いすの場合は、わざわざ待合用の椅子を空ける必要がない。ただし居場所を作る必要はある。

 首にギプスを嵌めている人も優先される。ギプスで固定する必要があるほど、首あるいは背骨が故障しているのである。首も含む背骨は人間を作る幹であるから、ここの具合が悪いのならば、座らせるのが適切であろう。

 しかしながら、病院を訪れる患者は様々で、普通の健康な人間から見て席を譲るべきだとすぐに分かる症状ばかりとは限らない。


 ほっそりとした男性がいる。多少顔色は悪いが、待合室に座る様々な患者の中では一見して正常である。

 実は彼は、猛烈な吐き気に悩まされていた。夜明けから数時間にわたって上からも下からも出しっぱなし、もう涙の一滴も出ないほど、出すものを出し切った。
 水分を取るべきところを、トイレから一歩も動けなくなるので、病院の診察を受けるまでの間、飲まず食わずでいる。具合が悪いせいか、幸い乾きも空腹も覚えない。その代わりに、確実に体力を消耗している。
 できれば座りたいところであるが、一見して若い男である彼には、事情を説明するだけの気力も残っていない。せめて近くの席が空かないかと思いながら、立っている。

 シャワーキャップのような帽子で頭を包んだ女性がいる。

 彼女は若い身空で髪の毛の先からテトロドトキシンに似た毒素が浸出する病気に罹ってしまった。毒素に触れると自分の皮膚でもかぶれるので、常に髪を包んでいる。その他には特に変わった症状はない。
 どういうメカニズムか知らないが、毒素の原料は彼女の体細胞から取り出される。従って、彼女は疲れやすい。滲み出た毒素も、人前では捨てられないから、頭は段々重くなる。
 できれば座りたいのだが、一見して彼女は健康な若い女性であり、座りたい理由をとてもひと言では説明できないので、我慢している。

 腕に羽織り物を抱えた男性がいる。

 彼が腕から垂らしているのは、実は尻尾である。根元は3本目の脚ほどの太さで、先端は手の親指ほどまで細い。自力で左右上下に動かすことはできるが、長い間持ち上げていることはできない。そして、持ち上げられる角度は90度まで、つまり床と平行な高さまでである。床へ垂らしておくと人目を引くし邪魔なので、腕に抱えて上から衣服で隠している。

 重い。衣服だけなら持つ腕を交代できるが、尻尾では一旦背中へ回さなければならない。人目を引きたくないので、さきほどから同じ腕で支え、反対側の腕を補助的に使って耐えている。結構腕が痺れてきた。座って膝に乗せることができれば、かなり楽になる。
 しかし、一見して若い男性である彼には、敢えて尻尾が重いから座らせて欲しいとは言えない。

 満開の花が咲いたサボテンみたいな顔をした女性がいる。

 花に相当する物体は特殊な吹き出物で、中央から雌しべよろしく芯が突き出ており、全体にじゅくじゅくしている。花のせいで彼女の頭は人の倍ぐらいまで膨れ上がっている。見るからに重たげであり、実際人並みの首で支えるには重い。
 どこかへ寄りかかりたくとも、家の外では壁を汚すので、寄りかかれない。また、無闇に寄りかかれば、ばい菌が吹き出物から侵入して、もっとひどい結果を引き起こすかもしれない。

 せめて座って体力の消耗を防ぎたいところである。彼女が座ると、膨れた頭の幅、両隣0.5人分ずつ間を空けなければならない。実質としては彼女1人で3人分の席を占めることになる。誰も近くへ座りたがらないからである。如何にもずうずうしく見えるのが申し訳なくて、彼女は座りたいのを我慢している。


 ほっそりとした男性が、枯れ木のようにぱたりと倒れた。

 彼の近くには、シャワーキャップを被った女性がいて、将棋倒しのようになった。キャップが破けて、溜まりに溜まった毒液が周囲に飛び散る。

 「ぎゃあ」

 座っていた患者たちに毒液が降り掛かり、たちまち皮膚を焼く。悲鳴が上がる。毒液は衣服を抱えた男性にも飛んだ。

 「痛っ」

 反射で尻尾が飛び上がった。近くで立っていた人たちを勢いよくなぎ払う。毒液で視界が狭まっていた人々は、おもちゃのように壁や他の患者へと叩き付けられた。サボテン頭の女性にも、尻尾で叩かれた患者が当たった。

 「うぎゃ」

 女性は悲鳴をあげて蹲った。咄嗟に手で頭を庇う。その手に、帽子から突き出た芯が刺さった。

 「ぎゃぎゃ」

 女性は更に悲鳴を上げた。掌を指し貫いた芯は、その先から赤い触手を伸ばし、手当たり次第に絡み付く。他の芯からも触手が伸びた。毒液から免れて呆然としている患者の手首に巻き付き、みるみる紫色に染める。

 「あーあー」

 驚きの余り、悲鳴すら出ないようである。触手は手を引きちぎった。
 どくっどくっと脈打ちながら、血が噴き出す。獲物を捕らえた触手は自らの中へ餌を放り込むと、新たな獲物を求めて飛び出した。

 「××さん、2番診察室へお入りください」

 「○○さん、皮膚科診察室前でお待ちください」

 診察室では滞りなく診察が進み、患者を呼ぶアナウンスが次々と入る。待合室の患者は、誰も動かない。
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